歴史の足跡

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歴史は語る23・聖武帝・光明皇と平城京

2014-09-25 04:59:16 | 例会・催事のお知らせ
二十三、聖武帝・光明(こうみょう)皇后(こうごう)と平城京

養老七年(723)左京から両眼の赤い白亀が献上され、祥瑞の亀の出現によって、神亀と改元された。
それを期に大極殿において満を持しての皇太子首皇子の即位である。
天武、持統、直系の皇子草壁、文武天皇を若くして亡くし、耐えて仲継ぎの女帝元明、元正と血脈の粛清をも越え、聖武天皇が即位し、同じ齢の光明を妃、皇后と、その間多くの有力皇族は消えた。
今や藤原一門を背景に事が進んでいく時代に成っていた。
期待の皇子の誕生に元明は孫の首皇子に対する思いは、帝王学は並々ならぬものがあった。母宮子は病弱で、会えたのは聖武が成人してからのことだった。
幼い頃より、祖母元明に、伯母に元正に帝王学を教育され国内の博士、学者による、仏教の書経、唐の儒学など諸学を徹底的に教え込まれた。
聖武の出した勅の随所に出てくる言葉に。
「朕(ちん)と民(たみ)」「国に納める、朕の徳」処々に出てくる、大仏発願にも国を治める君主の心がけが、所々に出てくる。
君主としての振る舞い、気品、決して暴君ではない、信心深い面、理想を求め、気まぐれではあるが、律儀で博識で繊細である。それに対して光明は十六歳で聖武に元に来て、常に行動的で活発な面があった。
平城京を二人三脚で歩んだ面は否めない。
光明子の性格は父不比等より、その気丈さは母県犬養橘三千代の影響の方が大きい。
聖武の人柄についての記述は無いが、光明について、「幼い頃より、総慧、敦く仏道を崇み、仁慈にして、志、物を救う」と評価は良い。
母の三千代は天武、持統、元明の四代の天皇に仕えた内命婦(高級女官)で天皇、皇后の身回りを世話する者である。
その功績に橘宿禰の姓を賜った、平城京の門に「県犬養門」があるそんな由緒ある姓を賜ったのは、敏達天皇の五代目の美怒王に嫁ぎ、葛城王、佐為王、牟漏女王を生んだ。
不比等に見初められて、再婚して生まれたのが光明子であった。特に県犬養三千代は聖徳太子に深い信仰を持っていて、法隆寺の三千代の「橘持(たちばなじ)念仏(ねんぶつ)」が残されている。
そんな光明子の運命は十六歳で聖武と結婚し、十七歳で阿倍内親王が生まれて、二十七歳で待望の皇子、基皇子が生まれたが、一年後没し、その後は継子に恵まれなかった。
基皇子を失った後、二人は益々仏教に引かれて行ったが、やがて写経に没頭し、写経所を造り、国を上げ組織的に行われたようだ。
専門の写経する教師、校正、装潢生といった人達の集団が生まれ、仏典の一切教と言って全ての教を網羅して写経すると言うことに徹した。
写経についても、聖武直筆による、仏教関連の「雑集」は仏教による功徳を説いたもので、その書体からは律儀で、几帳面で純粋に仏教への求道心が窺い知れる。
これに対して光明の筆跡は男性的で、積極的な書体でその性格が顕著に表している。
特に光明は興福寺の寺院の拡充に力を注ぎ、堂塔の東金堂、建立に天平二年には薬師寺の東塔、四月には興福寺の五重塔、天平五年には母三千代の供養に西塔を建立している。
聖武天皇は光明皇后より早く仏教に帰依していた。後々にその仏教への没頭ぶりは大仏建立へと続くが、この時点では一切経の書経を早くより内裏で開始をしていた。
光明皇后は藤原家の氏寺への献身的な供養、建立が顕著にみられ、特に母の供養に熱心であった。聖武天皇は身の回りの重臣等が相次いで天然痘で没し、そのための供養に大仏建立に拍車をかけた。
これに対して邸宅を伽藍として法華寺を建立し、東大寺に対して寺名に総国分尼寺で法華(ほっけ)滅罪之寺(めつざいのじ)に由来する。
★聖武天皇(701~756)在位二十五年間、父文武天皇。母は藤原不比等の女、宮子。
聖武天皇の子の継嗣に恵まれず、
☆光明皇后に阿倍内親王・某王。
☆県犬養広刀目に井上内親王・不破内親王・安積親王。聖武天皇には継嗣に恵まれず、不比等の女の☆安宿媛夫人に某王が生まれて立太子するが翌年死亡した。
光明子や藤原一族は県犬養広刀目の安積親王の皇位継承を恐れた、そのため光明子の立后で邪魔な長屋王を除外し策略で失脚させた。そ
そして阿倍内親王を立太子させた。王族でない光明子の立后も女性の立太子も異例で藤原四兄弟の強権によるものであった。
★光明皇后(701~760)聖武天皇の皇后。なは安宿媛、光明子、藤原不比等の三女、光明皇后は永谷王排斥の後仏教に大きな影響をもたらし、興福寺の五重塔や西金堂、新薬師寺、法華寺など建立に務め皇后宮職に施薬院、悲田院を設け救済事業お行なった。
また国分寺、国分尼寺の造立を聖武天皇に勧めた。今日の東大寺の正倉院が現存する功績が大きい。
★県(あがたい)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)(?~733)藤原不比等の妻、父は県犬養東人。美怒王との間に葛城王(橘諸兄(たちばなもろえ))佐(さ)為(い)王・らがいる。
天武天皇から元明天皇まで仕えた功績を称えられ橘宿祢姓を与えられた。元明太上天皇の病気祈願ため出家。没後正一位が贈られた。

※平城京の君主、聖武天皇は藤原一族に支えられ政務は執り行われた。また光明子の性格も母県犬養橘三千代の影響が強く表れ、気丈な面が表に出て聖武天皇をしばしば先行する。
また複雑な血脈関係はその後の橘諸兄と仲麻呂時代に移って行く序奏に他ならない。