九、“蘇我石川麻呂の変”
「乙巳の変」で蘇我本家を滅亡させた中大兄皇子と鎌足は、新体制の構築に着手しなければならなかった。
それは乙巳の変と連動する「大化の改新」であった。
大化の改新が順調に進むかと思えた時に、阿倍左大臣倉(くら)梯(はし)麻呂(まろ)が死んだ。乙巳の変以降、皇極は弟の軽皇子(かるみこ)に譲位し、孝徳天皇自ら難波の宮の正門へ朱雀門で哀悼の意を表し、皇極上皇も、皇太子の中大兄もその死を悼んだ。
右大臣の石川麻呂にとって、辛苦を分けた倉梯麻呂の死を悲嘆の思いをしただろう。その葬儀の七日後に一族の身内の蘇我日向から密告が始まる。
「石川麻呂は、皇太子が海辺に遊びに行くときに狙って暗殺を計画しようとしている」中大兄に告げた。しかも訴えたのは石川麻呂の弟、石川麻呂は中大兄の妃の父親、まさに下剋上の時代の様相、密告した日向は兄の出世をねたみ、何故に失脚をさせようと企てたのか、兄に取って代わろうとしたのか、それを承知の上で中大兄は天皇に伝えた。
真偽をただす意味で使者を出して虚実を問いただした。石川麻呂は「天皇の御前で申し開きをしたと訴えたが、天皇はこれを許さず兵を差し向けた。
御子の処置には中大兄の助言によるものか、平生の慎重さを考えてみても、蘇我入鹿を討つときの重要な人物だったことを考えれば、何か秘められた事情でもあったのか、助命を提言してよい立場が、そんな冷淡さが、その後の中大兄の生き様に節々に見られることになる。
石川麻呂は難波から自宅の大和飛鳥に逃れ、山田寺に入った。そこには子の興志がいて、石川麻呂の氏寺の造営中であった。興志は寺を砦として戦い迎い討つことを主張した。
父の石川麻呂はこれを許さず山田寺の金堂の前で首をつって自殺、妻子もこれに従い、この事件で連座して二十三名が死罪、十五名が流罪となった。
その後の調べで石川麻呂の謀反の事実が無く、早まった処置に反省をしたのか、日向を大宰府に流罪とした。その後、中大兄の妃は父の死を知って悲嘆末、心傷つき病死をしたという。
この時こそ中大兄は悲しさを思ったことに違いがない。たとえ義父であろうと先々の邪魔者には容赦がない。蘇我一族の不審は中々払拭されない拘りが有ったかも知れない。
★蘇我石川麻呂(?^649)大化の改新政府の右大臣。馬子の孫。雄正の子。連子(むらじこ)、赤兄らの兄。蘇我倉山田麻呂とも記されている。蘇我一族内の有力者、娘の造媛・遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の妃として、乙巳の変の蘇我本家打倒に参画、大化の新政府に発足と同時に、右大臣に就任、左大臣阿倍内麻呂と旧勢力の一翼を担い、急進派の中大兄、鎌足と対立した。弟の日向に密告させられ粛清され、後で無罪と判明し中大兄は大いに悔い嘆いたと言う。
◆大化の改新*改新の大きな目玉の項目は①鐘櫃の制、民の意向を反映②男女法、生まれた子供の帰属を定める。③大化薄葬令、墓制。④公地、公民制、⑤班田収授制。⑥律令制。などを定めたがどの程度の実効性あったかは不明である。その他郡評論争がある。七世紀に半ば地方行政組織をコオリを「郡」「評」の表記したかを廻る論争がある。
※皇極は乙巳の変でもその考えを示さなかったし、孝徳も然り石川麻呂の変にも自分の考えを示さず、中大兄の判断に任せたのは何故か疑問は残る。また「乙巳の変」の功労者の鎌足はその後の政権に顔出さない。
この時点でまだ内臣のままであったのだろうか、石川麻呂で裏での発言が有ったのか、記述には記載されていない。石川麻呂は中大兄にとって重臣で義父でもある疎ましい存在に変わりなく、蘇我本家の一掃にも協力者であったはずである。
新旧の対立から端を発した粛清と言うことも考えられる。中大兄の目的には容赦のない決断は後で悔いを残すものとなっただろう。
「乙巳の変」で蘇我本家を滅亡させた中大兄皇子と鎌足は、新体制の構築に着手しなければならなかった。
それは乙巳の変と連動する「大化の改新」であった。
大化の改新が順調に進むかと思えた時に、阿倍左大臣倉(くら)梯(はし)麻呂(まろ)が死んだ。乙巳の変以降、皇極は弟の軽皇子(かるみこ)に譲位し、孝徳天皇自ら難波の宮の正門へ朱雀門で哀悼の意を表し、皇極上皇も、皇太子の中大兄もその死を悼んだ。
右大臣の石川麻呂にとって、辛苦を分けた倉梯麻呂の死を悲嘆の思いをしただろう。その葬儀の七日後に一族の身内の蘇我日向から密告が始まる。
「石川麻呂は、皇太子が海辺に遊びに行くときに狙って暗殺を計画しようとしている」中大兄に告げた。しかも訴えたのは石川麻呂の弟、石川麻呂は中大兄の妃の父親、まさに下剋上の時代の様相、密告した日向は兄の出世をねたみ、何故に失脚をさせようと企てたのか、兄に取って代わろうとしたのか、それを承知の上で中大兄は天皇に伝えた。
真偽をただす意味で使者を出して虚実を問いただした。石川麻呂は「天皇の御前で申し開きをしたと訴えたが、天皇はこれを許さず兵を差し向けた。
御子の処置には中大兄の助言によるものか、平生の慎重さを考えてみても、蘇我入鹿を討つときの重要な人物だったことを考えれば、何か秘められた事情でもあったのか、助命を提言してよい立場が、そんな冷淡さが、その後の中大兄の生き様に節々に見られることになる。
石川麻呂は難波から自宅の大和飛鳥に逃れ、山田寺に入った。そこには子の興志がいて、石川麻呂の氏寺の造営中であった。興志は寺を砦として戦い迎い討つことを主張した。
父の石川麻呂はこれを許さず山田寺の金堂の前で首をつって自殺、妻子もこれに従い、この事件で連座して二十三名が死罪、十五名が流罪となった。
その後の調べで石川麻呂の謀反の事実が無く、早まった処置に反省をしたのか、日向を大宰府に流罪とした。その後、中大兄の妃は父の死を知って悲嘆末、心傷つき病死をしたという。
この時こそ中大兄は悲しさを思ったことに違いがない。たとえ義父であろうと先々の邪魔者には容赦がない。蘇我一族の不審は中々払拭されない拘りが有ったかも知れない。
★蘇我石川麻呂(?^649)大化の改新政府の右大臣。馬子の孫。雄正の子。連子(むらじこ)、赤兄らの兄。蘇我倉山田麻呂とも記されている。蘇我一族内の有力者、娘の造媛・遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子の妃として、乙巳の変の蘇我本家打倒に参画、大化の新政府に発足と同時に、右大臣に就任、左大臣阿倍内麻呂と旧勢力の一翼を担い、急進派の中大兄、鎌足と対立した。弟の日向に密告させられ粛清され、後で無罪と判明し中大兄は大いに悔い嘆いたと言う。
◆大化の改新*改新の大きな目玉の項目は①鐘櫃の制、民の意向を反映②男女法、生まれた子供の帰属を定める。③大化薄葬令、墓制。④公地、公民制、⑤班田収授制。⑥律令制。などを定めたがどの程度の実効性あったかは不明である。その他郡評論争がある。七世紀に半ば地方行政組織をコオリを「郡」「評」の表記したかを廻る論争がある。
※皇極は乙巳の変でもその考えを示さなかったし、孝徳も然り石川麻呂の変にも自分の考えを示さず、中大兄の判断に任せたのは何故か疑問は残る。また「乙巳の変」の功労者の鎌足はその後の政権に顔出さない。
この時点でまだ内臣のままであったのだろうか、石川麻呂で裏での発言が有ったのか、記述には記載されていない。石川麻呂は中大兄にとって重臣で義父でもある疎ましい存在に変わりなく、蘇我本家の一掃にも協力者であったはずである。
新旧の対立から端を発した粛清と言うことも考えられる。中大兄の目的には容赦のない決断は後で悔いを残すものとなっただろう。