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『平安座主別当の興亡の系譜』川村一彦

2014-04-11 05:02:42 | 小論文

『平安座主別当興亡の系譜」
           川  村  一  彦  著
はじめに

日本の平安仏教を二分させた天台宗と真言宗、とりわけその天台宗は仏教で言う「総合仏教学校」であった。禅宗、浄土宗、法華宗などと、薬師如来から、阿弥陀仏、釈迦如来など宗旨、拝仏を問わず「学僧の府」でもあるとともに、権力と武力の牙城でもあった。
その寺院と宗派の最高権威、権力者の「座主、別当」は存亡を左右するものでもあった。
荘園制度と共に勢力は拡大、朝廷内への発言力と仏事の覇権を巡り、宗派内、他宗に対しても対抗する意味に於いても寺院、宗派の長官である「座主、別当」の任命は重要であった。
「座主、別当の補任」任命権は朝廷の特権であり、それぞれの利害と思惑が相成って熾烈な戦いが繰り広げられた。
特に仏教史上熾烈を極めたが、天台座主の補任を巡る争いに端を発したのが第三代座主円仁の山門派と、第四代座主円珍の寺門派の空前絶後の朝廷を巻き込んだ争いであった。
奈良仏教の雄、興福寺も東大寺も興亡、また別当の補任で朝廷と激突、荘園拡大、朝廷への影響力を懸けての戦いは複雑に絡み合った。
真言宗も同様に高野山の金峯山寺座主を巡り金剛峯寺ざすと大伝法院座主の補任を廻り、覚鑁を指す鳥羽上皇に、加護のもと就任したが旧勢力と紛糾し壮烈な紛争の後に、高野山を降り、此処に古儀真言宗と新義真言宗と分派した。
成熟する平安仏教は、仏教普及と権力争いは表裏一体であったの確かであった。

一  天台座主の系譜

                  寺=寺門派
 最終時 辞=辞退  没=職責時没  止=座主停止 再=再任
    僧名  就任期間                     
宗祖    最澄               ~弘仁十三年(八二二) 没
 *大同一年最澄天台宗を開く。弘仁十年比叡山に戒壇院を設立を申請をする。
初代    義真  天長元年(八二四)~天長十年 (八三三) 没  
二代    円澄  承和元年(八三四)~承和三年 (八三六) 没
三代    円仁  仁寿四年(八五四)~貞観六年 (八六四)  没    十年
#円仁(七九四~八六四)慈覚大師
延暦十三年(七九四)下野国生まれ。天台宗山門派の祖。九歳にして大慈寺広智に師事し、十五歳にして広智に伴割れて比叡に上がり最澄の門下に入った。最澄に伝法可所潅頂を受け、同年東大寺で具足戒受けた。その後比叡山で教師になり、法隆寺、四天王寺などで講演し、承和二年(八三五)六月、入唐還学僧(条件付)の詔を受けた。 入唐には遣唐大使藤原常継に請益僧円載らと共に従った。
 揚州に漂着し、天台山に上がり、長安で天台学を学ぶつもりが資格なく、やむなく開元寺で学び、翌年帰国の遣唐使船に乗り帰国の途中に嵐に遭い、山東半島に漂着、翌年五台山に上がり志遠和尚にあい教えを受け「摩可止観」、など学び天台経典三十七巻を書写し、青竜寺でも義真阿闍梨に学び、玄法寺に、大安国寺に長安に止住六年多くの経典と教えを学び、その折仏教の排斥に会い、新羅の商船で命からがら経典など持ち帰った。その持ち帰った品の数々は天台宗に大きな影響を与え比叡山の確立に寄与した。帰国後比叡山天台宗座主として十年間にも及び弟子の育成と、寺院の拡充に貢献した。
また入唐の詳細は「入唐求法巡礼紀」に残されている。
四代    安慧  貞観六年(八六四)~貞観十年 (八六八)  没
五代    円珍  貞観十年(八六八)~寛平三年(八九一)没 寺門派二十三年
#円珍(八一四~八九一)智証大師
 弘仁五年讃岐国に生まれ、母は佐伯氏の女で空海の姪である。天台宗寺門派の宗祖。十五歳で叔父に随って比叡山に上がった、座主の義真に師事し「法華経」「金光明経」など学び、受戒し僧に成り、籠山すること十二年内供奉十禅師に勅任。
仁寿元年(八五一)入唐の為に大宰府に向った。七月に出航福州に着岸した、天台国清寺で止観を学び、越州開元寺で台教を、長安青竜寺の法全に大潅頂を、大興善寺で、福州開元寺で「法華、華厳、倶舎」を学び、大小乗経など四百四十部千巻をもって、天安二年(八五八)に肥前に帰国、大宰府に着いた。入糖七年数々の経典を持ち帰ってことは大きくより一層天台の教学に貢献ことは言うまでもない。比叡山王院で住持し多くの僧に伝授した。清和天皇以下三〇余名に潅頂を授け、五五歳にして天台宗座主に就任、在任二十年間に多くの弟子の育成に尽くし、円珍に影響された弟子を多く残した。
*山門派、寺門派の盛衰記
 比叡山天台宗延暦寺の揺ぎ無い確立に貢献したのが、円仁と円珍である。共に入唐し数々の経典とその奥義を持ち帰り、伝え弟子を育てた、それぞれの教えが多くの弟子達に引き継がれた。
その大きな功績が故に尾を引き、二派に分かれるほどの影響があった。それは天台座主を巡る後継者にまで波及していった。
六代    惟道  寛平四年(八九二)~寛平六年 (八九四)  没 寺門派
*六代座主に 円珍二十年間の座主で弟子の惟道が二年間座主になった。
寛平四年七代座主に円珍系の弟子の猷憲が就任、続いて八代座主に康済が五年間座主になった。
九代座主に円仁派の長意が七年間就任した、十代には円珍派の増命が十八年間も座主に就任、十一代、十二代に良勇、玄鑑が、十三代尊意座主から十七代喜慶まで円仁派が就任した。
七代    猷憲  寛平五年(八九四)~寛平六年(八九四)没 寺門派
八代    康済  寛平六年(八九四)~ 昌泰二年(八九九)辞 寺門派
九代    長意  昌泰二年(八九九)~ 延喜六年 (九〇六)  没
十代    増命  延喜六年(九〇六) ~延喜二十二年(九二二)辞寺門派十八年
十一代  良勇  延喜二十二年(九二二)~延喜二十三年(九二三)没 寺門派
十二代  玄鑑  延喜二十三年(九二三) ~延長四年(九二六)  没        
十三代  尊意  延長四年(九二六)~ 天慶三年(九四〇)    没  十四年
十四代  義海  天慶三年(九四〇)~ 天慶九年(九四六)    没 
十五代  延昌  天慶九年 (九四六)~ 応和四年 (九六四)   没 十八年
十六代  鎮朝  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)   没
 *良源焼失寺院を再建してゆく、延暦寺東塔法華堂、などその後惣持院、講堂、文殊院他。(九八〇)には根本中堂を再建。
十七代   喜慶  応和四年 (九六四)~ 康保三年 (九六六)  没            
十八代   良源  康保三年 (九六六)~ 永観三年 (九八五)  没   十九年
 *天元十二月(八九一)円仁派、円珍派の両門徒法性寺の座主職を争い円仁派の門徒が勝つ。
# 良源(九一二~九八五)元三大師
延喜十二年(九一二)近江国浅井で生まれ、慈覚派(円仁)で比叡山の中興の祖、十二歳で比叡山西塔理仙に師事し、尊意座主に受戒、阿闍梨、内供奉、権律師、僧正と順風に地位を上り、五十四歳(九六六)で座主に上り詰めた、何より良源の名を知らしめたのが、応和三年(九六三)の宮中で行なわれた「応和宗論」で南都の僧との活躍であった。
比叡山の延暦寺の大火を機に堂塔を整備したことと、藤原氏の荘園の寄進を受け経済的にも、基盤が確立して評価と信頼を得た。
良源の出現によって天台宗比叡山延暦寺は再興されて「天台中興の祖」と仰がれたが、結果、円仁、円珍の両派の均衡は崩れて、主導権は円仁の慈覚派が中核を占めるにいたりこれを機に山門派、寺門派の対立が表面化していった。
十九代   尋禅  永観三年 (九八五)~ 永祚元年 (九八九) 辞 
*藤原兼家の子、尋禅が座主に就任。それまで兼家は横川に薬師堂を建立。
二十代   余慶  永祚元年 (九八九)~ 永祚元年 (九八九) 辞 寺門派
*余慶が天台座主に補任されたが直ちに円仁派の猛反対で座主につくことできなかった。事の起こりは円仁派の盛り返しの最中、京都の法性寺の座主を廻り(法性寺の座主は代々円仁派の僧)、円珍派の僧余憲が朝廷より任命され、これを知った円仁派は強烈に反対し阻止し。
永祚元年(九八九)  朝廷は天台座主に寺門派の余慶を任命した。
其の時も円仁派は、猛烈に反対し、任命状を使者を途中で待ち受けて、妨害、襲い盗ろうとし、勅使が宣命が、比叡山に持って上がることが出来なかった。
* 「永祚の宣命」と呼ばれ、余慶は天台座主に任命されながら、その職務に就けなかった。この事件より決定的に亀裂が起きていった。
二一代  陽生  永祚元年(九八九)~  永祚二年(九九〇)   辞
二二代  暹賀  永祚元年(九九一)~  長徳四年(九九八)   没
 *正暦五年(九九三)遂に、円仁派と円珍派の武力を持っての争いが起きた。
山内紛争が三千人以上が山塔付近に住持し、僧衆徒が入り乱れての争い、山中に坊舎を配備、一触即発の状態の中で突如、円仁派が円珍派の拠点に襲撃をしたことが発端で衝突が起きた。
 双方入り乱れて乱闘が起き負傷者、死者の数は定かではないが、数で劣る円珍派の僧徒千人は、落ち逃げ延びるように、山を下った。
 向った先は兼ねてより、円珍が唐より帰国した折に居を構えて住持したところの、山麓の大友邸に円珍派は居を構えた。
 園城寺は円珍派が大友氏より寄進を受けものであるが、あの悲劇皇子、弘文天皇の皇子の邸跡で、以後此処を拠点に円珍派は勢力を伸ばしていった。
山内紛争から宗内紛争の始まりである。
自立した円珍派は「園城寺」を寺門派として積極的に朝廷に働きかけたりして加護と理解を求めた。
朝廷も山門派の行き過ぎた行動に再三諌め、寺門派に深入りを示したが返って山門派を刺激した感があった。
二三代  覚慶  長徳四年(九九八)~ 長和三年 (一〇〇一) 没
二四代  慶円  長和三年(一〇〇一)~ 寛仁三年(一〇一九) 辞  十八年
二五代  明教  寛仁三年(一〇一九)~ 寛仁四年(一〇二〇)  没
二六代  院源  寛仁四年(一〇二〇)~ 万寿五年(一〇二八) 没
二七代  慶命  万寿五年(一〇二八)~長暦二年 (一〇三八) 没  十年
二八代  教円  長暦二年(一〇三八)~永承二年 (一〇四七) 没
*長元八年(一〇三五)三月、園城寺の三尾明神の祭礼に、延暦寺の僧徒が乱入、乱闘となった。
直ちに報復として園城寺の僧徒、僧兵らを延暦寺の僧正の坊舎の襲撃、焼き討ちをかけた。
*長暦三年(一〇三九)二月、その頃には園城寺には戒壇院がなかった。
戒壇院とは僧侶になるには受戒して始めて僧侶の資格を得る。その戒壇院は当時は延暦寺、東大寺に行って僧侶の受戒を受けていた。園城寺は再三戒壇院の許可を朝廷に求めで出たが悉く延暦寺の反対し強訴、合戦繰り広げられた。
長久三年(一〇四二)三月、園城寺は再度朝廷に戒壇院の申請を出す。
 再三尾園城寺の戒壇院の申請に、怒った延暦寺の僧衆徒は園城寺の山内の円 満院へ焼き討ちをかけた。
*永承三年(一〇四八)八月、天台宗座主に、寺門派の明尊に補任が決まった。
たちまち山門派の僧兵らの猛反対で辞任し、やむなく改めて山門派の源信を補任した。この頃各宗派の最高の地位権威の座主、別当の許可、任命権は朝廷にあって、しばしば山内の僧綱(僧正、僧都、長者など)の反対で阻止される事がしばしば
 徹底して園城寺への反対は露骨になっていった。
二九代  明尊  永承三年(一〇四八)~永承三年(一〇四八)辞  寺門派
三十代   源心  永承三年(一〇四八)~天喜元年(一〇五三)    没 
*(一〇五三)三月、天台座主補任を廻り、朝廷は寺門派の源泉を補任した。
 またも延暦寺は猛反対で、即辞任しなければならなかった。
 天喜元年結果山門派の明快で落着した。
三一代  源泉  天喜元年(一〇五三)~天喜元年 (一〇五三) 辞
三二代  明快  天喜元年(一〇五三)~延久二年(一〇七〇)  没  十七年
三三代  勝範  延久二年(一〇七〇) ~承保四年(一〇七七) 没
*延久七年(一〇七七)二月、山門派、寺門派入り乱れて断続的に乱闘があって、原因は園城寺の戒壇院の許可を廻り抗争の最中、四月は寺門の覚円が天台座主に補任された。またもの反対で辞任し、朝廷は止む無く山門派の覚尋を座主に補任して決着した。
三四代  覚円  承保四年(一〇七七) ~承保四年(一〇七七) 辞  寺門派
三五代  覚尋  承保四年(一〇七七) ~永保元年(一〇八一) 没          
*永保三年(一〇八一)三月、日吉社の祭礼に下人と下人の喧嘩で、山門派が怒り、僧徒ら園城寺に焼き討ちをかける。
三六代  良真  永保元年(一〇八一)~寛治七年(一〇九三) 辞
*天仁三年(一一〇〇)六月、園城寺の僧徒は長史の坊舎を焼き払う。
多分朝廷より使わされた園城寺の高僧であったが自分たちの意の添わない人事に抗議したのだろ。
三七代  仁覚  寛治七年(一〇九三)~康和四年(一一〇二)  没 
*(一〇九五)延暦寺の僧徒、寺僧を殺害したとして源義綱を流罪を求め日吉社の神輿を奉じて入京を企てる。
 *園城寺の僧徒、長史の坊舎を焼く。八月、朝廷は園城寺の越訴を停止させる。
三八代  慶朝  康和四年(一一〇二 ~長治二年(一一〇五)  辞
三九代  増誉  長治二年(一一〇五) ~長治二年(一一〇五) 辞  寺門派
*長治二年(一一〇五) 天台宗座主として寺門派の、増誉が補任されたがまたもの山門派の延暦寺沿僧衆の猛反対で辞任を余儀なくされた。
四代   仁源   長治二年(一一〇五)~天仁二年(一一〇九)  辞 
四一代  賢暹   天仁二年(一一〇九)~天仁三年(一一一〇) 辞
四二代  仁豪   天仁三年(一一一〇)~保安二年(一一二一) 没 十一年
四三代  寛慶   保安二年(一一二一)~保安四年(一一二三) 没
*(一一二二)延暦寺の僧徒、美濃山門領の処置を巡り、座主覚慶を遂う。翌年再び座主を遂う。
*保安三年(一一二二)五月、園城寺の僧衆徒、延暦寺の僧徒を殺す。直ちに延暦寺の僧兵ら報復として下山し園城寺に向かい、襲撃をかけ金堂、他諸堂を焼き払う。
四四代  行尊   保安四年(一一二三)~保安四年(一一二三)辞   寺門派
四五代  仁実   保安四年(一一二三)~大治五年(一一三〇) 辞
*(一〇二二)道長が延暦根本中堂に参拝、十二神将像を供養する。
*大冶四年(一一二九)十二月、天台座主として、久々に寺門派の行尊が補任された。直ちに山門派の猛反対で辞任した。
四六代  忠尋   大冶五年(一一三〇)~保延四年(一一三八) 辞 
四七代  覚猷   保延四年(一一三八)~保延四年(一一三八)  辞
*保延四年(一一三八)四月、天台座主として寺門派の覚噂を補任するが、延暦寺の僧衆徒の猛反対で辞任。
四八代  行玄   保延四年(一一三八)~久寿二年(一一五三) 辞寺門派 十五年
四九代  最雲   久寿二年(一一五三) ~応保二年(一一六二) 没
 *(一一五八)天台座主最雲らに、僧徒の蜂起を禁止する。
五十代  覚忠   応保二年(一一六二)~応保二年(一一六二)辞 寺門派 
五一代  重愉   応保二年(一一六二) ~応保二年(一一六二) 辞
*応安二年(一一六二)一月、延暦寺の僧衆徒ら、延暦寺の僧衆徒ら、園城寺の長史覚忠が天台座主に補任された、直ちに山門派が拒み猛反対、結集しこの訴えを朝廷にする、朝廷この訴えに屈し山門派の重愉を座主にすることで決着。
五二代  快修   応保二年(一一六二) ~長寛二年(一一六四) 止 
五三代  俊円   長寛二年(一一六四) ~仁安元年(一一六六) 没
五四代  快修   仁安元年(一一六六) ~仁安元年(一一六六) 止  再任 
五五代  明雲   仁安二年(一一六七)~安元三年 (一一六七) 止
五六代  覚快   安元三年(一一六七) ~治承三年(一一七九) 親
五七代  明雲   治承三年(一一七九)~ 寿永二年(一一八三) 没  再任
五八代  俊尭   寿永二年(一一八三) ~寿永三年(一一八四) 止
五九代  全玄   寿永三年(一一八四) ~文治六年(一一九〇) 辞
六十代  公顕   文治六年(一一九〇) ~文治六年(一一九〇) 辞    
*建久元年(一一九〇)三月、再び天台座主を廻り紛争、寺門派の公顕を天台座主に補任、即座に山門派の猛反対止む無く辞任。
これ以降天台座主の寺門派、山門派の座主を廻る紛争が少なくなっていった。
て行った。
理由は時代は鎌倉時代に移り、互いに消耗合戦を繰り広げ、荘園は減少し、その勢力は衰退の一途を辿った。時代の趨勢は、浄土宗、禅宗、日蓮宗などに変わっていった。

 



二、 東大寺別当の系譜

初代 良弁   天平勝宝四年五月(七五二)~天平宝宇4年(七六〇 )
二代 良興   天平宝宇五年(七六一)~天平宝宇八年(七六四)
三代 良恵   天平神護一年(七六五)~神護慶雲二年(七六六)
四代 永興   宝亀一年(七七〇)~宝亀四年(七七三)
三代 忠恵   宝亀五年(七七四)~宝亀五年(七七四)
四代 霊義   宝亀九年(七七八)~延暦一年(七八二)
五代 等定   延暦二年(七八三)~延暦六年(七八七)
六代 永覚   延暦六年(七八七)~延暦十年(七九一)
七代 禅雲   延暦十年(七九一)~延暦十三年(七九四)
八代 堪久君  延暦十四年(七九五)~延暦十七年(七九八)
九代 源海   延暦十八年(七九九)~延暦二十一年(八〇二)
十代 定興   延暦二十一年(八〇二)~延暦二十四年(八〇五)
十一代 海雲   大同一年(八〇六)~大同四年(八〇九)
一二代 空海   弘仁一年(八一〇)~弘仁四年(八一三)   (真言系)
 #空海真言宗開祖、延暦二十三年最澄らと入唐後高野山に真言宗を開く(八一六)より六年まえに東大寺に入寺して真言宗布教の拠点としていた。
一三代 義海   弘仁五年(八一四)~弘仁九年(八一八)
一四代 静雲   弘仁十年(八一九)~弘仁十二年(八二一)
一五代 永念   弘仁十三年(八二二)~天長二年(八二五)
 *東大寺に真言院を建立。真言宗の影響が強くなる。
一六代 興雲   天長三年(八二六)~天長六年(八二九)
一七代 覚雲   天長七年(八三〇)~天長十年(八三三)
一八代 心恵   承和一年(八三四)~承和四年(八三七)
一九代 実敏   承和五年(八三八)~承和九年(八三九) (真言系)
二〇代 正進   承和十年(八四〇)~承和十三年(八四三)
二一代 真雅   承和十四年(八四四)~嘉祥三年(八五〇)(真言系)
二二代 貞祟   仁寿一年(八五一)~斎衡二年 (八五五)(真言系)
二三代 斎棟   斎衡二年(八五五)~天安二年(八五八)
二四代 真昶   貞観一年(八五九)~貞観十二年(八七〇)
二五代 祥勢   貞観十三年(八七一)~貞観十六年(八七四)
二六代 玄津   貞観十七年四月(八七五)~元慶二年(八七七)
二七代 真昶   元慶三年(八七八)~元慶三年三月(八七八)
二八代 安軌   元慶四年(八七九)~元慶四年四月(八七九)
二九代 祥勢   元慶五年八月(八八〇)~寛平一年(八八九)  
三十代 勝皎   寛平二年三月(八九〇)~寛平二年五月(八九〇)
三一代 恵珍   寛平二年九月(八九〇)~寛平五年(八九三)
三二代 済棟   寛平六年六月(八九四)~寛平九年(八九七)
三三代 道義   昌泰一年八月(八九八)~延喜四年(九〇四)
三四代 戒撰   延喜五年三月(九〇五)~延喜八年(九〇八)
 *東大寺東南院を造立。
三五代 延惟   延喜九年四月(九〇九)~延喜十一年(九〇九)
三六代 智鎧   延喜十二年一月(九一〇)~延喜十二年(九一〇)
三七代 観宿   延喜十九年十二月(九一九)~延長一年(九二三)
三八代 延敏   延長二年二月(九二四)~延長五年(九二七)
*東大寺講堂再建。
三九代 基遍   延長六年二月(九二八)~延長六年五年(九二八)
四〇代 寛救   延長六年六月(九二八)~承平六年(九三六)(真言系)
四一代 明珍   承平六年十一月(九三六)~天慶七年(九四四)
四二代 寛救   天慶八年(九四四)~天暦四年(九五〇)   (真言系) 
四三代 光智   天暦四年五月(九五〇)~康和一年(九六四)
四四代 法蔵   康和二年(九六五)~安和一年(九六八)
四五代 観理   安和二年(九六九)~天禄一年(九七〇)
四六代 法縁   天禄二年五月(九七一)~貞元三年(九八七)
四七代 堪照   貞元三年九月(九七八)~永観一年(九八三)  
四八代 寛朝   永観二年二月(九八四)~永延二年(九九〇) (真言系)
 *円融法皇、東大寺で受戒する。
四九代 然   永延三年七月(九九一)~正暦二年(九九一)
五十代 深覚   正暦三年七月(九九二)~正暦四年(九九三) (真言系)
五一代 平祟   正暦五年七月(九九四)~長徳四年(九〇八)
五二代 深覚   長徳四年十二月(九〇八)~長保一年(九〇九)(真言系)再任
五三代 雅慶   長保一年八月(九〇九)~寛弘一年(一〇〇四)(真言系)
五四代 済真   寛弘二年十二月(一〇〇五)~寛弘四年(一〇〇七)(真言系)
五五代 澄心   寛弘四年四月(一〇〇七)~長和三年(一〇一四)
五六代 清寿   長和三年三月(一〇一四)~長和五年(一〇一六)(真言系)
五七代 深覚   長和五年五月(一〇一六)~寛仁四年(一〇二〇)(真言系)再任
五八代 朝晴   寛仁四年十二月(一〇二〇)~寛仁五年(一〇二一)
五九代 観真   治安三年八月(一〇二三)~長元二年(一〇二九)
六〇代 仁海   長元二年六月(一〇二九)~長元五年(一〇二三) (真言系)
六一代 済慶   長元六年二月(一〇二四)~長暦一年(一〇三七)
六二代 深観   長暦一年十二月(一〇三七)~永承四年(一〇五〇)(真言系)
六三代 尋清   永承四年十二月(一〇五〇)~永承五年(一〇五一)(真言系)
六四代 有慶   永承六年五月(一〇五二)~天喜二年(一〇五四)
六五代 覚源   天喜三年八月(一〇五五)~康平一年(一〇五八)(真言系)
六六代 延幸   康平二年十二月(一〇五九)~冶暦二年(一〇六六)
六七代 信覚   延久三年二月(一〇七一)~承保一年(一〇七四)(真言系)
 *(一〇七四)興福寺の僧徒、別当法務頼信の房を襲い、付近の民家を焼く。
六八代 慶信   承保二年一月(一〇七五)~嘉保一年(一〇九四)
六九代 経範   嘉保二年六月(一〇九五)~康和一年(一〇九九)(真言系)
七十代 永観   康和二年五月(一一〇〇)~康和四年(一一〇二)
 *(一一〇二)東大寺の僧徒、興福寺の僧徒の狼藉を訴え八幡社の神輿を奉じて入京する。
七一代 寛助   元永一年四月(一一一〇)~天冶一年(一一二四)(真言系)
 *(一一〇六)興福寺の末寺の清水寺の僧徒、別当定深の罷免を求めて強訴。
 *(一一一〇)摂政忠実は興福寺の僧徒の武器所持を重ねて禁止する。
 *(一一一一)東大寺、興福寺僧徒争う。
 *(一一一七)春日社の神人が乱暴されたとして、興福寺の僧徒が蜂起する。
 *(一一二〇)興福寺の僧徒の強訴、神人を乱暴したとして和泉守藤原雅隆を解任される。
七二代 勝覚   天治二年七月(一一二五)~大冶三年(一一二八)(真言系)
七三代 定海   大冶四年五月(一一二九)~永治一年(一一四一)(真言系)
  *(一一四五)東大寺僧徒と興福寺僧徒争う。
七四代 覚信   久安三年一月(一一四七)~仁平三年(一一五三) (真言系)
七五代 覚晩   仁平三年三月(一一五三)~保元三年(一一五九) (真言系)
七六代 覚遍   保元四年三月(一一六〇)~永万二年(一一六六) (真言系)
七七代 顕恵   永万二年七月(一一六六)~承安四年(一一七四)
七八代 敏覚   承安五年三月(一一七五)~安元三年(一一七八)
七九代 禎喜   治承一年十二月(一一七七)~寿永一年(一一八二)(真言系)
 *(一一八〇)平重衡大軍を率いて南都に攻め入る、東大寺、興福寺壊滅的に被害焼失。
八〇代 定遍   寿永二年(一一八三)~文治一年(一一八五)   (真言系)
八一代 雅宝   文治二年三月(一一八六)~文治四年(一一八七)(真言系)
八二代 俊証   文治五年五月(一一八八)~建久二年(一一九一)(真言系)

三   興福寺別当の系譜
*(一)一乗院家(大)大乗院家

初代 慈訓   天平宝宇(七五七)~
二代 永厳   宝亀十年(七八〇)~
三代 行賀   延暦十年(七九一)~
四代 修円   弘仁十一年(八一九)~
五代 隆恵   承和一年(八三四)~
六代 寿朗   承和十四年(八四三)~
七代 興昭   貞観一年(八五九)~
八代 考忠   貞観十三年(八七一)~
九代 房忠   仁和二年(八八六)~
一〇代 仙忠   寛平五年(八九二)~
十一代 真覚   延喜五年(九〇五)~
十二代 基継   延喜十五年(九一〇)~
十三代 平源   延長八年(九三〇)~
十四代 空晴   天暦三年十二月(九四九)~
十五代 助精   天徳一年十二月(九五七)~応和一年(九六一)
十六代 延空   応和一年(九六一)~康保四年(九六七)
十七代 安秀   康保四年七月(九六七)~天禄一年(九七〇)
十八代 定昭   天禄一年十月(九七〇)~天元四年八月(九八二)
十九代 真喜   永観一年(九八三)~長保二年(一〇〇〇)
 *興福寺の僧徒、備前守藤原理兼の乱行を訴える。
二十代 定澄   長保二年八月(一〇〇〇)~長和四年(一〇〇二)
 *興福寺の僧徒ら大和国司の館に乱入。
二一代 林懐   長和五年五月(一〇〇三)~万寿二年(一〇二五)
 *(一〇〇六)興福寺の僧徒、春日荘の訴訟のため入京する。
二二代 扶公   万寿二年六月(一〇二五)~長元八年(一〇三六)
 *(一〇三七)興福寺僧徒、東大寺の東南院を焼く。
二三代 経教   長元八年八月(一〇三六)~長久五年(一〇四五)
二四代 真範   長久五年六月(一〇四五)~天喜二年(一〇五四)  (一)
* (一〇四六)興福寺焼失。翌年再建始まる。
* (一〇四九)興福寺の僧徒、大和守源頼親の館を襲う。
二五代 円縁   天喜三年一月(一〇五五)~康平三年(一〇六〇)   
二六代 明懐   康平三年六月(一〇六〇)~康平五年(一〇六二)
二七代 頼信   康平五年八月(一〇六二)~承保三年(一〇七六)
二八代 公範   承保三年八月(一〇七八)~応徳三年(一〇六六)
二九代 頼尊   寛治三年三月(一〇六九)~康和二年七月(一一〇〇)
三十代 覚信   康和二年八月(一一〇〇)~保安二年(一一二一)  (一)
*(一一〇一)興福寺の僧徒、金峯山の僧徒と争う。直ちに天皇、藤原忠実、宋との蜂起を制止する。
*(一一〇二)興福寺の僧徒蜂起、法皇阻止するために宇治橋を壊し入洛を防ぐ。 
三一代 永禄   保安二年七月(一一二一)~天冶二年(一一二五)
三二代 玄覚   天冶二年四月(一一二五)~大冶四年十一月(一一三〇)
三三代 経尋   大冶四年十二月(一一三〇)~天承二年(一一三二)
三四代 玄覚   天承二年四月(一一三二)~保延四年九月(一一三九)
 *(一一三七)興福寺の僧徒、神木を奉じて入京し強訴する、僧正補任について強
訴、同寺僧玄覚を僧正を補任させる。
 *(一一三九)興福寺僧徒、別当隆覚の坊を焼き神木を奉じて入京。十一月に再び別当隆覚を襲い、結果隆覚を辞任させる。
三五代 隆覚   保延四年十月(一一三九)~保延五年(一一四〇)
三六代 覚誉   保延五年十二月(一一四〇)~久安二年(一一四六)
三七代 覚晴   久安三年二月(一一四一~久安四年(一一四二)
 *(一一四五)興福寺僧徒、金峯山僧徒と争う。
三八代 隆覚   久安六年八月(一一四二)~保元二年(一一五七) (再任)
*(一一五一)頼長、興福寺の別当を私邸に召し、僧徒の武装を禁止する
 *(一一五三)頼長、自ら院別当になる。
三九代 恵信   保元二年十月(一一五七)~長覚一年(一一六五)
*(一一六五)二条天皇の葬儀の主導を巡り、比叡山と興福寺が争い続き延暦寺の訴えで、興福寺の別当恵信を辞めさせられる。興福寺の僧徒、延暦寺の座主の流罪を求め強訴をする。
四〇代 尋範   長覚二年五月(一一六四)~承安四年(一一七四)
 *(一一六七)興福寺別当尋範を襲い、大乗院など焼いた前別当の恵信を伊豆に流罪。
*(一一七三)興福寺僧徒、多武峯の坊舎を焼く。
  延暦寺、興福寺僧徒互いに争いを繰り返し蜂起する。南都十五カ寺の寺領を没収する。
四一代 覚珍   承安五年八月(一一七五)~安元一年十月(一一七五)
四二代 教縁   安元一年十一月(一一七五)~治承三年四月(一一七九)
四三代 玄縁   治承三年四月(一一七九)~治承四年(一一八〇)
四四代 信円   養和一年一月(一一八一)~文治五年五月(一一八九)(一)(大)
四五代 覚憲   文治五年五月(一一八九)~建久六年十二月(一一九六)
+ 延暦寺や東大寺の座主別当の詳細な記述に比べ興福寺の記録は余り残されていない。度重なる戦火、焼失が記述を失わせたのかもしれない。
 


参考資料
岩波書店、日本史事典、日本史年表
中央公論、日本の歴史
吉川弘文堂、日本の名僧
新人物王来社、日本仏教宗派事典、日本史名僧ものしり百科他