歴史の足跡

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『神仏習合と廃仏毀釈』2・川村一彦

2014-04-07 05:11:16 | 小論文
「神仏習合と廃仏毀釈の謎」           川 村 一 彦
明治四年、今から140年余り前、日本が明治維新と言う史上にない大変革に近代日本に邁進する中に「廃藩置県」と「神仏分離令(通称)」が発令された。
それまでの日本は仏教伝来依頼、神仏は共栄共存をしてきた。
世界古今東西、外来宗教と既存宗教の軋轢、紛争は世の常であるが、日本人の英知言うべきか、旨く融和、融合し、神仏習合が聖徳太子、馬子の統治によって仏教が正式に導入され西暦593年に四天王寺が建立されたと記されている。
以来1400年余り大きな争いにもならず融和、伝統文化を形成し。歴史を刻んできた。
日本の津々浦々に神社と寺院が隣り合わせ、また道を一本隔てて建立されている光景を良く見るものであるが、明治維新までは神仏一体の社寺だったが、明治初期の神仏分離令によって切り離されたのである。
現在日本には神社が8万8千社有って、寺院は7万5千寺が有ると記されている。
多分明治以前は神仏分離がなされていないので十万社寺は無かったろう。
聖徳太子の飛鳥時代に仏教到来した時には官寺、氏寺かで一般の信仰の対象としての堂塔、仏像ではなく国家祈願、氏族の祈願の寺院だったと思われる。
国家管理の寺、僧は朝廷の許可なしでは寺院の建立も出家も出来ない。
従って既存の宗教神道とは争いもないし、神道も神事や催事、国家祈願の為のものだったとすれば紛争の起こる理由はない。
奈良時代の聖武天皇は総国分寺の本山として東大寺を建立、仏教による鎮護国家を目指した。

「本地垂迹」
平安時代に入って「最澄」「空海」に出現によって官寺から一般信仰の対象となって、宗派が出来て、山岳信仰や各地の神社との融合に「本地垂迹」と言う神道と仏教の共存のあり方が生まれてきた。
神道が仏教に一歩、歩み寄り、仏教も神道に融和し互いに化身、裏表の権化として、公家から庶民まで浸透して行った。

「修験道と権現」
神仏習合の先駆けと言えば奈良時代に成立したといわれる役小角が開祖とされる「修験道」を上げる事ができる。
 森羅万象、生命や神霊が宿ると日本の古神道の一つの「神奈備」が磐座と言う山岳信仰と習合し、中国の陰陽道、道鏡が結びつき成立し形成された日本独自の宗教と考えられる。
 開祖の役行者(小角)は7世紀ころ大和は葛城山を中心として山岳信仰を確立し、「神変大菩薩」の称号で多くの謎と伝説の宗教者である。
 役行者の創立した修験道の根本寺院とされ金峯山寺の本尊は蔵王権現として信仰され大峰山から熊野三山にかけて修験者の先駆けの霊地、聖地となった。
大峰山は聖地中の「聖地」、修験者の霊峰なのである。
平安時代、時の権力者の藤原道長の自筆の15巻の経巻を銅の筺に収め埋経した。
公家、貴族の頼長、師通などは峻険で至難の登頂に身を清め邪心を払い、霊峰に蔵王権現に救いを求めた。
今日唯一女人禁制を敷く大峰山は、熊野と続く極めの「奥駈」がある。その熊野大社への道には歩むごとに身よ清めて神仏の一つ一つへの信仰を高め、山所権現、若一王子、九十九王子と神仏習合の神々と仏達が迎えてくれる。
熊野本宮は現在は山間にあるが、明治二十二年の大水害に熊野川の中洲にあった社は悉く流され、その跡地に「大斎原」(おおゆのはら)と日本一高い鳥居が建っている。
また一遍上人のこの地に感得した言う大石碑が建っている。筆者も訪れてかってはこの地に諸国より集まった人々は朝野の隔てなく熊野街道を光景を彷彿とさせる。
社殿の祭神、本地仏は下記の通りである。
 上四社、熊野牟須美大神=千手観音。速玉之男神=薬師如来。家都美御子大神=阿弥陀如来。天照大神=十一面観音。
中四社、忍穂耳命=地蔵菩薩。瓊々杵尊=龍樹菩薩。彦火火出見尊=如意輪観音。鵜葺草葺不合命=聖観音。
下四社、軻遇突智命=文殊菩薩。埴山姫命=毘沙門天。弥都波能売命=不動明王。稚産霊命=釈迦如来。
これらは神の神域に融和した仏教が主導権を握って行き、諸国に熊野詣の組織網を造り、本地垂迹を進めて神々は仏の化身として扱い、上の威光や神罰を巧みに活用し穢れ忌避の考えが展開され、全国展開して行き、公家から一般庶民まで浸透して言った。
熊野には別当職を置き、検校職を設置し僧侶が取り仕切り、本来の古神道の意味合いが薄れて行き、その反発として神本地垂迹が生まれたが、長年の全国的に広まった権現と本地垂迹が江戸時代後半から国学者や本居宣長のように「古事記」を見直し、神国日本の復古を願う人々の流れを造り「廃仏毀釈」への道を歩んだ。
 
熊野三山で熊野那智大社は十三所権現、那智山権現として参道の長い階段の右に西国三十三所1番札所青岸渡寺があって、左に大鳥があって熊野那智大社へと続き明治維新の神仏分離令で神社と寺院が分離されたことが窺い知れる。
 那智大社は那智の滝が重要な信仰の聖地、霊地で神霊と、祭神熊野夫須美大神(イザナミ)が勧請され、熊野本宮と同じように上四社、中四社、下四社に神々と仏の習合した本地垂跡の化身が一体と成している。
また観音巡礼の青岸渡寺の補陀洛山の世界と相まって霊地聖地を造って行った。

熊野速玉大社は「熊野速玉大神」(イザナギ)祭神と祀られ、上四社、中四社、下四社にそれぞれ神々と仏が化身として表裏一体と成して祀られている。
三山成立後は徐々に神官や禰宜が存在しない、組織的な仏教を主体に社僧が牛耳り、「熊野権現」化が進み修験者の霊場となっていった。
 三山を管理するのは「三山僧綱」が統括していった。
また公家、貴族の深い信仰が熊野三山を支えて霊地巡礼が拍車を掛け「伊勢に七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り」と言われ、「蟻の熊野詣」とまで言われた。
明治の神仏分離令後は仏教の形跡は消え、僅かに青岸渡寺の観音霊場と「大斎原」の一遍上人の大きな石碑が残っている。

その他に各地に次々と神仏習合の聖地霊地が生まれて言った。
 九州は英彦山は修験道の聖地である。祭神は神話の国に近いのか神道伝説に「鎮西彦山縁起に「役行者」が登場する。天照大神から彦山権現に変化してゆく、本地垂迹の化身するが1千年以上続いた神仏習合も神々と堂塔とは分離されている。
四国一の霊峰は石鎚山で西日本一の標高一九八二M、日本七霊山として古くより知られ、役行者の強い影響を受けて、熊野権現の包括されている一面がる。維新の神仏分離令以降は石鎚神社と寺院は一時廃寺されたが復興されている。
秋の宮島も世界遺産に登録され、厳島神社と弥山の水精寺の信仰が一体化していたが、神仏分離令後分けられ,往時を偲ぶことができる。
その他に山岳信仰では白山、立山、御嶽山があって神仏習合の聖地である。
また富士山、日光、恐山は根強い地域の伝統ある信仰を得ていて、東北に行くと「出羽三山」が神仏習合の霊地聖地で明治まで多くの人の修験者の信仰の場所だった。
「月山」月山神社(月読命)=月山権現で本地仏は阿弥陀如来。
「羽黒山」出羽神社(伊氐波神)=羽黒権現で本地仏は正観音菩薩。
 「湯殿山」湯殿山神社(大山祇神、大己貴神)=湯殿山権現で本地仏は大日如来。
熊野、英彦山、出羽の日本三大修験山と言われ、神仏分離令の以前は「別当寺」として羽黒山では山内15坊を数えた。月山では多くは廃寺になったが、多くの阿弥陀仏や地蔵尊の石碑が残されている。湯殿山には大日坊、本道寺、など真言宗寺院として今日は残っているが往時を偲ばせる山門のみが当時の姿を偲ばせる物である。

「別当寺」
別当寺は江戸時代以前に置かれていた、神社を管理する為に置かれた寺で、神前読経を神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を社僧といった。
別当は別に執務する仕事があるが兼務すると言う意味で、別当寺は神社の権現である神仏習合の本地垂迹説により「神社と寺は同一視」されて神社の最高権力者として、宮司はその下の地位に置かれた。
* 戦前までは神社で般若心経を唱えていて、一般国民は拘りもなく寺社に祝詞、読経の祈願を掛けていた様である。

* 別当寺の置かれた背景に、戸籍制度に寺に檀家制度に利用し管理させていたが、寺社領を保有し、通交手形の発行などに一つの村に一別当寺で寺社宗教施設の役割を負わせたのかも知れない。

「神宮寺・神護寺」
神社と共生をして成り立っていた神宮寺は檀家を持たなかった為に、神社、大社と言われるような神道の運営を把握し時代によっては、どちらが主体か、従属かは判断は一律には言えないが、大きな神社には堂塔の多く境内に配置、神宮寺と称し、寺院が従属の例もあれば日光東照宮のように大社であっても、輪王寺の僧侶が把握管理をしていた。神社抜きで神宮寺が成り立たず、また鎮守社は寺院の存在なしでは成り立たず、相方互助関係にあった。
神宮寺については四国八十八ヶ所の札所の中に一直線に長い石段の上には神社があって、その石段の中ほどに左手に札所の寺院があるのを見た事が有る。
また私の母方の在所の恩智神社の長い石段の途中に右手に感応院を知っている。各地の神宮寺は下記の通りである。

◎稲敷市に神宮寺。舟橋市に神宮寺。白井市に神宮寺。香取郡神崎の神宮寺。
上越市の神宮寺。十日町市の神宮寺。長野松本市の神宮寺の二寺院。松本市の須々岐水神社の神宮寺。佐久市の神宮寺。軽井沢町の神宮寺。湖西市の神宮寺。小浜市の若狭神宮寺。豊橋市の神宮寺。鈴鹿市の神宮寺。松阪市の神宮寺。三重県多気町の神宮寺。宮津市の籠神社の神宮寺の成相寺。長浜市の長濱神宮の舎那院。泉佐野市の日根神社の神宮寺は慈眼院。奈良市は神宮寺は興福寺。奈良は桜井市は平等寺。出雲市は日御碕神社の神宮寺。尾道市は神宮寺。阿南市の神宮寺。大町町の神宮寺。などがある。

「八幡神の神仏習合」
現人神である聖武帝が仏教に帰依する、矛盾した話ではあるが、東大寺建立に当たって宇佐八幡より守護神として勧進している。
そのとき様子は宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰を付けた輿に乗って入京した。
北九州は豪族国造宇佐氏の氏神だったが、数々の奇端を現し大和朝廷の守護神となった。東大寺に八幡社から初に分社された社は東大寺大仏殿南方の鏡池付近に鎮座したが、平氏による戦禍に焼失し、現在の位置に遷座された。
明治の神仏分離によって東大寺から独立した。
奈良時代末期の「宇佐八幡神託事件」では道鏡の天皇の位の野望に、「宇佐神宮」に朝廷は和気清麻呂を使者の送り「宇佐八幡の宣託で無道の者の掃除すべし」を伝え失脚させた。朝廷は八幡神を応神天皇の神霊とし、伊勢神宮に継ぐ皇祖神と崇敬されていた。
そして朝廷は西暦781年には鎮護国家の仏教守護の神として「八幡菩薩」の称号を贈り、神仏習合として広まっていった。後に本地垂迹において「阿弥陀如来」が八幡神の本地仏とされた。
日本三大八幡宮の一つの京都は石清水八幡宮は鎌倉時代のもう弘安4年の蒙古襲来の折りには、西大寺の僧叡尊は一門の300人の僧と延暦寺、園城寺の持戒僧700人が加わり7日間昼夜を問わず「東風を持って吹き返せ・・」と仁王経、勝王経、法華経など読経は峰々谷間に響き渡った。この読経で人々は「神風」と叫んだと言う。
石清水八幡宮は明治の神仏分離令まで神仏習合の霊地として、山内坊舎40を数え「南無八幡大菩薩」が読経され鎌倉時代には僧兵が牛耳っていた。

「神宮寺と鎮守社」
神宮寺は神社の管理をする為に境内に堂塔を建てて僧侶が神社を取り仕切り神人を
信者を取り込み寺院経営に寄与させていたのだろう。
主客が力関係で神社に寄生する形で存続を図ることも有れば、神社に帰属する寺院もある。神宮寺のように、神社の参道の脇に神宮寺として建立されている寺も少なくない。
あくまでも、神宮寺と鎮守社は時代の趨勢によって、主客転倒は世の常で、明治維新の廃物稀釈を期に王政復活により、神国日本の嵐に、江戸時代の神社の従属から逆転し、神棚は仏壇より上の神棚に鎮座する明治維新であった。混在した神仏共存は明治以降、無理やり分離されたことは否めない。

「地主神と守護神」
 日本の二大仏都と言えば比叡山と高野山、中でも比叡山延暦寺は京都の鬼門に当たり、「鬼門除け、災難除け」の社として崇敬され名神大社として、また二十二社として社格が高いが、一方比叡山延暦寺を建立し、比叡山の地主神である大己貴神、大山咋神を祭神として当社を守護神としても崇められている。
 最澄が入宋の折に中国天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君に習って山王権現として延暦寺と結びつけ山王神道を説いた。
明治の神仏分離令前は山王権現として釈迦の垂迹とされ、徳川家康に仕えてい政僧天海が山王一実道を展開させ家康の霊を東照大権現として神号で「日光東照宮」を祀る事を主張し、この時の山王権現は大日如来であり天照大神と説いた。
筆者の著書の「平安僧兵奮戦記」に比叡山の僧兵が延暦寺の守護神の日吉社の神輿を担ぎ朝廷に強訴を繰り返し寺派の要求を突きつけ覇権を争った。
南都の興福寺も春日社の神木を担ぎ比叡山の延暦寺に対抗した。
 また神與を担ぎ神の威光を利用し、神罰を恐れた朝廷は強訴の要求を呑まざるを得ず、各地に広まる神輿を担ぐ習慣はこの強訴の神輿から端を発している。
一方南山の高野山も地主神との関わりに空海は、この地に真言道場を開に当たり丹生都比売神社の祭神地主神である、狩場明神に借り受けて高野山を開いたといわれ仏道興隆と神祇信仰の融和を願い真言密教の守護神として、山上伽藍に「御社」を勧進した。

「廃仏毀釈」
明治三年に出された詔書「大教宣布」と神仏分離令の発令が「廃仏毀釈」の運動に拍車を掛け、より過激になっていた。明治政府は当初の意図とするところ、神仏を分離を目的としていたらしく、多くの要因で過剰な「廃仏毀釈」が各地に起きていった。
神仏分離だけには終わらずに寺院の廃寺、仏像の破壊は凄まじかった。
今までの寺領は国に没収され経済的に窮地に追いやられ、俄か神職や軍属に成る者も有れば、仏像を売り払って逃亡する者まで現れた。
大阪住吉大社は神宮寺の大きな堂塔も破壊され、暴力的な破壊に諸国の仏教寺院は消えていった。
修験道の出羽三山も「廃仏毀釈」が始り、多くの坊舎が壊されていった。千葉県の鋸山の五百羅漢はすべて破壊された。三重県は伊勢神宮の膝元、全国に比べて寺院の数は少なく、興福寺は貴重な文化財といえる仏像は壊され、五重塔が「廃仏毀釈」で25円で売りに出された。
徹底に破壊されたのが薩摩藩の寺院が1,616寺院が廃され、還俗した僧侶2966人を数えたと言う。財産や職を奪われた僧侶の3分の1は軍人になったと言う。
地域によって差は有ったものの美濃国では仏教の施設が無くなって、神道になることを余儀なくされ、現在でも葬式も神式で行なう家庭は少なくないと言う。
明治三年に富山藩では廃仏、領内313寺院を各宗一寺合わせ8カ寺に統合する為廃仏が行われた。明治五年には修験宗の廃止、本山、当山、羽黒山とも天台、真言に帰入、吉野金峯山寺、湯殿山、月山、で廃仏。神仏習合の寺院などは悉く廃止、破壊の標的にされ、逃れる為に仏像を秘かに隠した。
俄かに鳥居を設けて神道を装う寺院も出て、浄土真宗では明治政府に廃仏毀釈による被害を訴えた。
また明治の美術の岡倉天心は、「廃仏毀釈」からの復興に尽力を尽くし立ち上がり、千年以上の貴重な美術、文化財に、仏像の修復に奔走し政府に惨状を訴えた。

 神官や国学者が復古には平田篤胤派や水戸学に神仏習合への不純視が仏教の排斥に繫がったと見る向きも有る。一方国学者の本居宣長の影響も大きいと思われ、維新の王政復古と相まって疾風の如く短期間日本の全土に吹き荒れ狂った。仏教の受難の神仏分離令で有った。
また長年に渡る仏教の神道への支配と搾取が一挙に噴出したことも大きな要因でもあった。
歴史的に見て大きな犠牲を払ったが、神仏分離は、それぞれの思想、主旨を融和する事無く純粋に自力で信仰による社会、個人の救済に大きな寄与となり、誤解のない宗教活動が明治以降展開され、本来の姿、形勢が成されたのではないかと思われる。
また国学者の本居宣長の「古事記」の再発見、再考は日本の古代歴史に大きな一石を投じた事に功績がある。意図的な王政復古を願った訳ではないと思う。