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『記紀』と『魏志倭人伝』の論点・川村一彦

2014-04-18 05:22:08 | 例会・催事のお知らせ
「記紀」と「魏志倭人伝」の論点                     

日本の最も古い古書、史書である「古事記」と「日本書記」は七世紀後半に天武天皇の命によって編纂され同時に作られほぼ同時に出来上がった。
「日本書記」は日本六国史として対外向けに編纂されたと言う。
国家事業四十年を費やし「帝記」「旧辞」から中国、朝鮮の史書を参考に作られたと言う。全三十巻系図一巻で川島皇子、忍壁皇子ら六人と官人六人で編纂され、のちに舎人親王によって完成させた。
当初日本の国の成り立ちについては、当初「日本書記」のほうが重きに置かれていたが、天皇家の私史として造られた「古事記」が江戸時代辺りから評価されてきた。
その編纂について諸説はあるが「帝記」「旧辞」が基本となって、稗田阿礼が誦習し、その口述を太安万侶が書き綴ったと言われている。
「日本書紀」と違って音読みを使った日本文で描かれ二九年間の誦習し四ヶ月の編纂で完成していると伝わる。上巻、中巻、下巻からなり和銅五年(西暦七一二年)献上されたと記されている。

「魏志倭人伝」は「三国志」の中の「魏書」の中に東夷伝の中に倭人、倭に付いて書いてあるものを「魏志倭人伝」呼称しているものである。
全文約二〇〇〇文字からなっていて、著者は西晋の陳寿、西暦280年から二九七年までの間、呉の滅亡から陳寿の没年までの間、書かれている。
*「魏志倭人伝」において倭国への呼び名は中華思想により、他国の国名、人名は篾字を表記する。

一、「魏志倭人伝」には朝鮮半島の帯方郡から倭国に向かっての、行程と国々三〇カ国と地形、国々の位置と戸数を記されている。
*倭国に至るには帯方郡(韓国)から水行、南へ東へ、七千余里で狗邪韓国、更に千余里で対馬国、山険しく四〇〇余里四方千余戸、そこから南に千余里渡り一大国三百余里四方で森林が多く三百家族、次ぎに海を一万余里渡り未廬国、四千余戸、海産物多く、皆潜る。それより東南五百里陸行で更に陸行、伊都国に着く、千余戸あり。世、王が居るが女王に属する。更に東南に百里進む、奴国に至る。二万余戸が有る。そこから百里行くと不弥国に至る。千家族が有り、そこより南へ水行二〇日で投馬国に付く五万戸余り、更に南へ水行一〇日と陸行一カ月で女王の都、邪馬台国に至る推計七万戸。
その他に斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国。
* 魏国の使者、随行員は何名くらいで、何日間くらい、滞在したか移動だけでも往復半年はかかり、推測として滞在を含めて1年間の倭国親善訪問隊だったか謎は残る。 
* この時代で大和王国に対抗できる国として「出雲国」「吉備国」の記述が「魏志倭人伝に」残っていない。
* 航海術は未発達時代、帆船、手漕ぎ合わせ季節、派遣人の規模は不明であるがそれによって行動範囲が推測される。

二 邪馬台国の所在論。
邪馬台国の所在地については、魏志倭人伝の行程通りに計算すると太平洋の海上になる。
計算方法や案内の作為的行程で「魏志倭人伝」の行程の距離を狂わせたとか諸説があるが、未だ示された行程では「邪馬台国」を特定できていない。
邪馬台国の所在地については古来より論議、推測や憶測を呼び未だに決定的な立証がされていない。
古くは新井白石も本居宣長も和辻哲郎や多くの学者が機内説、九州説に分かれ、侃侃諤々論争を繰り返したが未だその解決、解明を見ない。温厚な学者もこと両学説になると人格を失ってしまう度、日本人を熱く語る歴史課題である。 
畿内説
言葉発音説では新井白石が「古史通或問」などで「邪馬台国」を「大和」と言う発音語源から大和説を比定している。
機内説には琵琶湖畔から大阪府下などあるが、中でも最近の奈良は纏向遺跡を邪馬台国の都として、次の事項が理由により有力とされている。
年輪年代学で最盛期が弥生終末期~古墳時代で邪馬台国時代と合致する。
また纏向遺跡周辺からは各地より持ち込まれたと思われる搬入土器が出土され、瀬戸内海から吉備、北陸、東海までの交流のあとが窺え、政冶文化の中央の体を成していたのではないかと思われる。
吉備、西四国の勢力の技術によって初期の前方後円墳が大和を中心に分布していった。(卑弥呼の墓とされる箸墓古墳)
全国各地に土器が出土し、纏向から諸国に広まる中心的役割を果たした。
三角縁神獣鏡は機内を中心に分布、古墳より発掘された年輪年代で3世紀に築造され時代が合致。
「日本書記」神功紀では、魏志「後漢書」の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書において「晋書」帝紀では「邪馬台国」を「東倭」と表現して居る。
だが近年有力な北九州説が後退、「邪馬台国」の時期に遺物が多数出て有利だった九州に対して放射能炭素測定と年輪年代で纏向遺跡の「箸塚古墳」が年代的に「邪馬台国」時代と合致して形勢は逆転し、今尚究明されつつある。
九州説
邪馬台国への行程の位置は九州地方の方が機内より合致し易い。
「邪馬台国」と対立した狗奴国(球磨)の勢力を比定すれば、官「狗古知卑狗」が「菊池彦」と音訳と考えらえる。
「魏志倭人伝」の中で「邪馬台国」の埋葬方法が「有棺無槨」を甕棺が北九州地方に多く出土している事。
九州説の中で「倭の五王」の遣使も九州勢力が独自に行なった。機内王権の関与はないとするが、余り説得力が思われる。大和王朝の時代と五王時代の西暦四一三年から五〇二年の間が短すぎ説明が付かない。
東遷説
「記紀」に出てくる神武東征を史実として九州で成立した王朝(邪馬台国)が神話と通りに神武東征を高千穂、宇佐、岡田(筑紫国)速吸門、多祁理宮、高島宮、浪速から熊野を越えて大和に東遷した説で、戦前白鳥庫吉や和辻哲郎などが主張したが神話を史実として取り上げるに歴史学上忌避された。
しかし戦後東京大学を中心に支持、発展され多くの学者の賛同を見た。
* 当初自分自身も東遷説を、最も分かりやすく合理的判断と思っていたが、後々余りにも短絡的解釈と気付いた次第である。
九州小国説
あの「古事記」説いた本居宣長は日本こそ中心たる国、天皇が中国に朝貢などあるはずがないと、九州熊襲説を説いた。
大阪府下説
河内説として倭の五王の河内王朝を考えてきた場合、大阪府下も有力な候補ではないだろうか。
並立説として「邪馬台国」「大和王朝」が大和、九州の個々の国で「大和王朝」が九州の「邪馬台国」を征服したと全く考えられないことは無い。
その他に吉備国説、琵琶湖説など邪馬台国の候補地は広まっている。
* 機内説がもし定説化された場合、「記紀」に見る九州の天孫降臨はどうゆう意味を持つのか、邪馬台国以前に遡った神話なのか、「古事記」の出雲神話と出土された「荒神谷遺跡」との符合性はどう説明をするか、これからの古代研究と発掘に推移に注目をしなければならない。」
*「魏志倭人伝」の行程の矛盾点は北九州にも、機内にも到達できない。当てはまらない点が疑問点である。
* 邪馬台国が九州に国を築いたとすれば、大陸に攻められやすい立地条件になり、防備上を考えた場合、更に内海を経て内陸部に国を形成した方が、小国を平定し易いのではないかと思われる。

三、倭人の風俗、生活様式、制度などが詳しく記されている。
 
◎男子は顔、体に入墨をし、墨や朱や丹を塗っている。
 ◎古くより、中国に来た倭の使者は自ら大夫と称している。
 ◎男は冠を付けず、髪を結び髷をして、女はザンバラ髪。
 ◎着物は幅広の布に結び付けているだけ。
 ◎牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいない。
 ◎兵器は矛、盾、木弓を要いる。
 ◎土地は温暖で、冬夏の生野菜が食べられる。
 ◎人が死ぬと10日余り哭泣き、「もがり」の間、肉を食しない、他人は飲酒歌舞し、埋葬が済むと、水に入って身体を禊をする。
 ◎倭の者が船で海を渡る時には持衰(じさい)(留守番)が選ばれ、持衰は人と接せず、虱を取らず、服は汚れ、肉を食べずに帰りを待つ、無事船が帰ってくれば褒美が貰え、船が災難にあえば殺される。
 ◎特別な事を行なう時、骨を焼き、割れ目で吉兆を占う。
 ◎長寿で百歳や九十歳、八十歳の者が居る。
 ◎女は皆、慎み深く嫉妬もしない。
 ◎法を犯す者は、軽い者は妻子を没収、重いものは一族根絶やしにする。
 ◎盗みは少なく、訴訟も少ない。
 ◎種族には尊卑の序列があり、上の者の指示に従う。
* 魏国の使者、随行員は季節的には何時頃、倭国に訪れたものか、季節によって服装、食物、儀式を見て知ることが変わるので、邪馬台国への経路に各国の特色が記載されていれば、当時の様子が窺われて良かったのにと思われる。
* 人の死は穢れがあって、禊によって邪気を振り祓う、古事記にイザナミが死に黄泉の世界にイザナギ呼び戻しに失敗、穢れを払う為に水浴をする所は魏志倭人伝との接点がる。
* 古代の人が入墨をしていると記されているかに、古代にその風習があったかは疑問。
* 寿命が八十,九十歳、百歳は案内の倭人(日本人)の誇張かも知れない。

四「女王卑弥呼」
卑弥呼について「魏志倭人伝」女王卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道で国民を惑わしたと言う。
元々男子を王として七〇~八〇年倭国を治めたが長期間騒乱が起こったと記され、「卑弥呼」と言う少女を女王にすることで混乱は鎮まった。
「卑弥呼」は鬼道を祭祀として(占い師、祈祷師)人心を惑わし、高齢にも拘らず夫を持たず、宮廷や、楼観で暮らし、千人の侍女に囲まれ、多数の兵士に守られ、王位に就いてから他人に会う事も無く、弟が国の政治の補佐をし、一人の男子が取次ぎや飲食の世話をしていたという。
「卑弥呼」と魏国との交流は帯方郡を通して使者を送り皇帝から「新魏倭王」に任じられ、狗奴国との紛争にも支援を受けている。
西暦二四七年頃に「卑弥呼」が死去すると大きな墳墓が造られ、百人が殉葬され、その後男王を立てられたが、国民はこれに服さず内乱となって千人の死者が出たと言う。「卑弥呼」の親族で十三歳の壱與を王にたてられて国は治まったと言う。
壱與も魏国に使者を送っているが、この壱與の朝貢を最後に倭の五王の讃の朝貢の西暦四一三年まで一五〇年近い中国の史書に記載されない空白が日本の古代の大きな謎を産む結果となる。

五「卑弥呼の人物比定」
神功皇后説
「魏志倭人伝」は江戸時代まで「記紀」の説が正統性であると信じられ、一般的に「卑弥呼」がヤマト王権の神功皇后と考えられていた。記紀に拠れば九州で応神天皇を出産し朝鮮半島への大規模な軍事行動が「魏志倭人伝」に何の記述もされておらず、今では説を支持する人は少ない。
(神功皇后が朝鮮半島に深く関与した伝説に、倭の五王も百済、新羅、任那など支配下に置いていたと中国の史書に記述があって、時代のずれは有るが、何らかの関係がないか)
熊襲女酋説
本居宣長らが提唱したもので、大和王権が魏国に朝貢したことに対し、日本の古来独立を保持し従属せず、九州の熊襲が倭国を偽って魏国と交流をしたと言う説である。
甕依姫説
九州王朝説を唱えた古田武彦は「筑後風土記逸文」に記されているもので、筑紫君の祖「甕依姫」(ひかよりひめ)「卑弥呼」(ひみか)の事を指し可能性を主張した説。
宇那比姫説
「海部氏勘注系図」「先代旧事本紀」尾張氏系譜に記されているものを元に、彦火明六世孫、宇那比姫を卑弥呼とする説。別名「大倭姫」ヤマト王権の女王と思われる名を持つ天造日女命、大海靈姫命、日女命とも呼ばれ、卑弥呼と音訳する。卑弥呼の後に就いた台與は天豊姫とされている。
天照大神説
中国の史書に残るほどの人物であれば、日本にも特別な人物として、天照大神しか居ないとする説、白鳥庫吉、和辻哲郎らに始る。アマテラスは別名「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、「日の女」となり、太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)に符合すると言う。
卑弥呼が没した時に近辺に二四七年に二回北九州で日食が起きた可能性があり、「記紀」の神話に天の岩戸アマテラスが隠れた伝説と符合する。或学者は卑弥呼が生きていた時代の平均在位年数から推定すると時代が重なると言う。
また天照の弟のスサノオとの対立は「邪馬台国」と「狗奴国」の敵対と符合する。
倭迹迹日百襲媛命説
孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)「日本書記」の「倭迹迹日百襲媛命」または「倭迹迹姫命」「古事記」で「夜麻登母母曾毘賣命」で近年最も卑弥呼に有力な説になっている。
「日本書記」の倭迹迹日百襲媛命の墓として造営された箸塚古墳は邪馬台国の都に有力な候補地である「纏向遺跡」の中にあって、同時代にあって他の古墳に比較して規模が隔絶していて、全国に類似した古墳が存在し、出土遺物して埴輪の祖形となった吉備系の土器が見られ、当古墳より築造により古墳時代の始まり開始された向きが窺われる。
「記紀」には倭迹迹日百襲媛命について三輪山の神との神婚説など神秘的な伝説が多い。

六 「邪馬台国」と「ヤマト王国」との関連性

「邪馬台国」が「記紀」の何時の時代に該当するかについて、纏向遺跡が邪馬台国と推定し、の卑弥呼の墓と推定され、放射能炭素測定を鑑み、年輪の検証から最有力候補の「箸墓古墳」を仮定した場合、箸塚古墳の祭祀が「倭迹迹日百襲媛」が「卑弥呼」と考えた場合、孝霊天皇の皇女とされる「記紀」を考えた時に、欠史八代の謎に包まれた不明瞭の時代が「邪馬台国」の混乱期と比定し時代設定を「欠史八代」と符合させた方が初期ヤマト国から、河内王朝へとの繋がりがあるのではないだろうか。
代目  天皇名  皇宮地場所     享年   陵墓地 
第二代緩康天皇 高岡宮 (御所市)  四五歳 (橿原市)
第三代安寧天皇 乳孔宮 (大和高田市)四九歳 (橿原市) 
第4代懿徳天皇 曲峡宮 (橿原市)  四五歳 (橿原市)
第五代孝昭天皇 池心宮 (御所市)  九三歳 (御所市) 
第六代考安天皇 津嶋宮 (御所市)  一二三歳(御所市) 
第七代孝靈天皇 廬戸宮 (田原本町) 一〇六歳(王子町)
第八代孝元天皇 境原宮 (橿原市)  五七歳 (橿原市)
第九代開化天皇 率川宮 (奈良市)  六三歳 (奈良市)
欠史八代の王朝は主として葛城を拠点として皇宮と陵墓が点在し、古墳の初期時代を考えれば合致しないと言われる。
謎に包まれた欠史八代にこそ邪馬台国の秘められた成り立ちがあるのではないだろうかと推定される。
王権を巡る激しい権力争いは、ヤマト王朝に続く系統内の主権を争う紛争であったか、機内の氏族の蜂起による主権の移動からか、または従属国の反乱による王権の入れ替わりか、事態は一応の収束見たかもしれない。
やがて王権は纏向遺跡周辺へと移って行く、それが邪馬台国の成立と推測する。
邪馬台国の後継者とされる、壱與が引継ぎ、詳細は不明であるが推測であるが、初期ヤマト王権に受け継がれていったのではないだろうか、その唯一実在性に近い第十代崇神天皇から初期ヤマト王朝の始まりと考えても不思議はない。
 祟神天皇から垂仁天皇へと、後継が兄弟争いや、九州の熊襲の反乱、景行店のの皇子ヤマトタケルの平定の為の東征、西征の遠征は神話の物語としても初期やヤマト王朝の確立への基礎固めであっただろうと思われる。
“ 古代ロマンの探求の思いは果てしなく、限りなく史実に向かって想像と共に広まって行くのである。”









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