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『壬申の乱』の血脈と人脈

2014-04-19 06:17:34 | 例会・催事のお知らせ
「壬申の乱」の血脈と人脈
古代史上最大の政変と言えば「壬申の乱」である。天智天皇の後継を廻り、天智帝の長子大友皇子と弟大海人皇子の皇位継承の争いであった。天智帝の後継者として大海人皇子が暗黙の了解として、「乙巳の変」から大化の改新から「白村江」の戦いを経て、近江遷都と天智帝を支え続けた弟大海人皇子の存在は臣下は元より皇族の次期天皇と周知されてきた。天智帝には皇子の継嗣に恵まれず大友皇子には母系に血筋に問題があって、大海人皇子には天智帝の娘の鸕野皇女(持統)、太田皇女の二人を血脈を絶やさぬように差し向けてあった。
「白村江」の戦いで敗北し、大和より遥か北に遷都し防備に備えた天智帝に心身共に衰え、老い先を考えた時に、思ってはならないこと、大友皇子への寵愛はつのるばかり、賢人の誉れも高く、唐使の劉徳高は「この君子、風骨(風格と容姿)世間の人と似ず、実にこの国の分似非ず」と絶賛したと言う。老いの一徹、その決意は大きな禍根の種になる事も知る由もなかった。
臣下に思いを告げると驚きようはただ事ではなかった。何故なら「日本書記」にはこう記されている。「成人して雄々しく、武徳に優れた大海人皇子は、天智天皇の女、兎野皇女を迎えて正妃とされた。天智元年に、立って東宮(皇太子)となられた。」
天智十年(671)正月、大友皇子に左大臣、右大臣以外に太政大臣に任命された。余命少ない天智帝は矢継ぎ早に手を打たれた。
大海人皇子を呼び寄せ「後を託し東宮に皇位を譲りたい」と伝えられた。あくまで大海人皇子への本意への探り、後事の承諾と協力への心情の示唆が込められていた。
「私は病気を抱え身でとても天下の政治は執れません。王位は倭姫にお譲りください」と断り「私は今日にでも陛下の為に出家して仏道に励みます。」と許しを請い大海人皇子は吉野に向かった。
老いて気力も失せていた天智帝はこれを許してしまった。
人々は、その様を見て「虎に翼をつけ野に放つようなもの」と表したと言う。
これらの記述は天武系の編纂によるもので、決して公正なものとは言えない、強権天皇天智帝は十二月三日、四六歳の生涯を閉じた。
天智帝亡き後の大海人方の華々しい戦いぶりに比べ、近江方の戦いぶりの記述は、もろくも崩れるさまを空しく伝える。
天智帝の威光を失った近江方の大友皇子は若干二十五歳で重臣と言っても天智帝に重用された臣下で、旧来の豪族は大和に残しての近江宮遷都であった。
それでも勝算は無いわけではない。直ちに兵を起こせば歴史は変わったかもしれない。
大海人皇子こそ吉野に逃れたものの大海人皇子の家族は残されたまま、討たれるか討つか二者択一は明白、当然のことのように記された中に、奇跡や運の良さに加え、人脈と大海人皇子の老練な計算と戦略が盛り込まれて、「壬申の乱」を綴られている。
吉野から大海人一行は脱出に成功、同時に大和側の支援と同情を取り付けていただろう、美濃出身の家臣の舎人の伝手で兵士を招集し、近江、美濃国の要所を押さえた。
又行く先々で豪族が多数の兵士を率いて帰順し、美濃で三千人余りを集め、尾張の国司が二万人を率いて帰順した。近江への総攻撃は数万の兵を進めたが、近江方も数万の兵で迎え撃った。不破を廻る攻防は熾烈を極め、近江方は徐々に後退していった。
大友皇子の取り巻きの人脈、布陣は蘇我赤兄他六人の重臣、細い糸で結ばれた風船のようなもの、やがて風船は風に流され大和側に寝がえる始末、時勢は大和側に味方し各地で多数の兵士と豪族の帰順、不破関を押さえて近江方から高市皇子らが脱出し合流し、近江宮への攻めが万全となった。
大和での戦いで近江方に勝利し、近江宮に向かって進撃、瀬田川での決戦で決着、近江大津宮は陥落、炎に包まれた。

強権天智帝には継嗣に恵まれなかった。
それに対し天武帝には鸕野皇女を皇后に草壁皇子が生まれる。太田皇女を妃に大伯皇女、大津皇子が生まれる。大江皇女を妃に長皇子、弓削皇子が生まれる。新田部皇女を妃に舎人皇子が生まれる。臣下の娘に六人に、鎌足の娘に氷上娘を夫人に但馬皇女が生まれた。鎌足の娘の五百重を夫人に、新田部皇子が生まれ、蘇我赤兄娘大ヌイ娘に穂積皇子、紀皇女、田形皇女が生まれた。鏡王の娘の額田女王に、十市皇女が生まれ、胸形君徳善の尼子娘に、高市皇子が生まれ、穴人巨大麻呂の娘には忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女、天武帝には、十人の皇子と七人の皇女が生まれた。

何より天武系の正当性を伊勢神宮と結び付けている。「壬申の乱」の決起し。途中伊勢神宮に向かって、大海人皇子は遥拝し戦勝を祈願し、近江より大和に還る途中に、伊勢神宮に寄り奉幣し、勝利を報告した。この頃より伊勢神宮を皇祖を奉る所として、その存在が記述によって明らかになってくる。
「壬申の乱」には皇統と血統の正当性を誇示しながら、政変を穏便に治めた皇系の記述であった。



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