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『神武東征の謎』川村一彦

2014-04-06 09:22:49 | 例会・催事のお知らせ
一、神武東征伝説の謎                

神武天皇は「記紀」の日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である。
「古事記」では神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と称され、「日本書記」では神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)神武天皇の呼称は奈良時代後期の文人の淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したことに始る。
紀元前七一一年から五八八年の日本神話に登場する人物である。天皇が即位したのが西暦前六六〇年と比定される。
「日本書記」に寄れば四五歳日向の地高千穂にあった磐余彦は天孫降臨以来、神々が君臨する高天原から葦原中国へ降臨する間の「日向三代」でニニギで三一万八五四三年、ホオリで六三万七八九二年、ウガヤフキアエズで八三万六〇四二年の計一七九万年二四七〇余年を経て未だ西辺であり、全土を王化していない。
神武天皇の事跡についても、内容が神話的で、実在を含め現在の歴史学的に史実ではないと考えられるが、古代の史実を知る上に重要な事柄が神話の物語に秘められていないか、推測するものである。「古事記」「日本書記」も若干異なるものの記述の東征が大部分を占める。
◎ 天孫降臨まで一七九万年二四七〇年は、仏教の弥勒菩薩の兜率天の五六億七千万年後の下界に降って衆生救済する話しに似ている。人間の届かない遥か時代を越えた壮大な別世界の存在を表しているのではと思われる。

神武の東征
「古事記」に拠れば、イワレヒコ命は兄五瀬命と高千穂宮で相談され、「何処の地にいたならば、安らかな政が執り行なうことが出来るか、東の方に行こうと思う」と日向より発して筑紫に幸行し、豊国の宇沙に至り宇沙都比古、宇沙都比売の二人、足一騰宮を造り奉り、そこより遷移り、筑紫の岡田宮に一年坐しき、そこより上がり安芸国の多祁理宮に七年留まられ、そこから遷り上がられ、吉備の高島宮に8年間居られた。
それから国を上って行かれ、亀の甲で釣りをするものに速吸門で会われ「お前は誰か」と問われた。「国津神」と答え、自ら仕える事を言ったので名をサヲネツケと与えた。この人は大和国造らの祖先である。次に上に行かれ浪速の渡りを経て白肩津に船を停めになった。
その時に登美のナガツネヒコは軍勢を起こし、待ち受け戦った。そこに御舟を入れてあった楯を下し立たれた。その地を楯津(東大阪市に地名現存)と言った。
そうしてナガスネヒコと戦われ、その時イッセイ命が手痛い矢で負傷を受けられた。そこでイッセイの命は「私は日の神の皇子、日に向かって戦うは良くない、遠周りをして日を背にして戦おう」と誓い、そこから南に回って進み、紀伊国の男之水門に至ってイッセイの命は亡くなった。 
その水門を名付け男の水門と言う。御陵は紀伊国の竈山にある。そこから南に回って行かれ、熊野村に着き、大きな熊が見え隠れし、やがて姿を消した。
するとイハレビコハ命は気を失われ、兵士も気を失って倒れた。そこに熊野のタカクラジと言う者が一振りの太刀を持って来て、イワレビコに献ると、即座にイワレビコは気を取り戻し、その太刀を手にすると兵士たちも気を取り戻した。
皇子は太刀のことをタカクジラに聞かれると、天照大御神と高木神が「葦原中国が騒がしいのだ、葦原中国はあなたが服従させた国、タケミカズチ神に降るように」支持されたが、タケミカズチは自分が降らなくても、平定した時の大刀を降すことを提案し、タカラクジに託されたことを伝えた。
また高木神が申されるに天津神の皇子をこれ以上奥に進ませては成らぬといわれ「あらぶる神、多く案内の八咫烏を遣わそう、その後に付いて進むように」その後、尾の生えた国津神ヰヒカが現れ(吉野首の祖先)、次ぎに岩を押し分け入ってきた国津神イワオシワクノコと言う* (吉野の国栖の祖先だった。)そこから奥に宇陀に進み、宇陀の穿(うかち)と言う。
天皇の兄ミケヌノ命は穀物を司る神、浪を踏んで常世国に行ったとされている。タケミカズチ神が霊験フツノミタマに降す話は霊験は邪気を払う意味で信仰され、石上神社のご神体として、物部氏によって崇祭されたものである。
八咫烏もミサキ神として鳥の信仰から、熊野三山は牛王法印の図柄を配している。 
宇陀にエウガシ・オトウガシの二人がいた。八咫烏を遣わし「天津神が来られた、御仕えするか」の問いに兄のエウガシは鳴鏑矢を射って追い帰した。
その鳴鏑の落ちた所を訶夫羅前という。エウガシは待ち受け軍勢を集めたが集まらず、偽って御殿を造り、中に罠を仕掛けた。
一方オトウカシはイワレビコをお迎え拝礼し「兄のエウガシは天津神を罠を仕掛け待ち受け殺そうとしております」この時大伴連の先祖のミチノオミノと久米直の祖先オホクメノの二人がエウガシを呼んで問い詰め、追い込んだ所、自分の造った罠にはまって死んだ。この地を宇陀の血原という。* (ウエガシ兄宇迦斯・オトウエガシ弟宇迦斯で宇陀の土豪である。)
そこから更に進み、忍坂の大室のついた時に、尾の生えた土雲が大勢待ち構えうなり声を上げていた。御子の命令で御馳走を大勢の兵に賜わった。
兵に料理人に太刀を隠し持たせ、歌を合図に土雲を撃つようにされた。予定通りに歌の後たちを抜いて一斉に打ち殺してしまった。
その後、ニギハヤヒノ命が、イワレビコ命の下に参上された時「天津神の御子が天降ってこられたことを聞き参上に参りました」ことを伝ええた。
そしてニギハヤヒ命は、トミビコの妹トミヤヒメと結婚して生んだ子がウマシマジノ命で、物部氏、穂積氏、婇臣の祖先である。このようにしてイワレビコ命は荒ぶる神たちを平定し和らげ、服従しない人撃退して、畝火の白檮原宮において天下を治めになった。

◎ 「古事記」にはイワレビコの兄ミケヌノ命は穀神で東征のイワレヒコ命が熊野から廻ったのは、熊野が常世国は海の彼方の未知の世界、常世国の穀神を招く信仰からである。
◎ 紀伊の国は古来、黄泉の国に直結した信仰が根付き、熊野三山の青岸渡寺の観音信仰の開山のインドの僧裸形上人の補陀落山の世界は舟に乗り海を渡って補陀落を目指すこと、実際は生きたまま捨身往生や水葬として行なわれ、熊野から行なうのが一般的であった。
中国の始皇帝の不老不死の仙薬を求めて来た徐福伝説など紀伊は別世界の特別な地の観念があったのかも知れない。八咫烏や剣が高天原から投下されるものその一つかも知れない。
◎ 九州と大和の征伐、東征で神武東征、ヤマトタケルの熊襲征伐と神功皇后と三回古代に往来があった。神武東征が時代的に古いが、その割りに地域の情景が詳細に描かれている。種族の祖先や土豪など地域の勢力分野も帰されている。
◎ 「古事記」については、わが国学の大家「本居宣長」が一七六四年から一七九八年のかけ約35年間かけて、「古事記」の写本を手に入れ、「日本書記」や「先代旧事本紀」を対比させながら、「古事記」を中心に解読、解釈を進めた。果たしてどの様に注釈をつけ、後世に残る再発見と再評価をさせ「古事記」意義、存在を高めたかは、それまでの「古事記」の内容と解読、解釈がどうか修正されたかにに、ついては知れないが江戸末期から明治維新に大きな影響を与えたことには確かである。
◎ 「日本書紀」兄磯城と弟磯城の兄弟を対比され、宇陀の県の頭に兄猾、弟猾がいて兄猾は磐余彦には敵意を持って計略を仕組んだが弟猾によって発覚、兄猾は討たれる。「古事記」には宇陀の土豪、兄宇迦斯はイワレヒコに抵抗するが、弟宇迦斯はイワレビコに協力し、宇陀の水取(宮中で飲料水を司る)祖先になる。  
             
「日本書記」磐余彦は兄の五瀬命らと船に乗り東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれ、姫の侍臣の天種子命と娶せた。
次ぎに筑紫の嵐之水門を経て(岡田宮)に1年住み後、安芸国の多祁理宮(埃宮)に7年、吉備の高島宮に8年滞在し船と兵糧を蓄えた。
船団を出し速吸之門に来た時に国津神の珍彦(ウズヒコ)後の推根津彦を水先案内とした。戌午年2月、浪速国に至り、3月河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先に進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中洲へ入ろうとした。
この地を支配する長髄彦が群衆を集めて孔舎衛坂*(東大阪市に現存)で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。
磐余彦は日の神の子孫が自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、楯を並べて雄叫びを上げて士気を鼓舞した。
この地を楯津(東大阪市に現存)と名付けた。
5月磐余彦は船を出し山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊の竃山で死去した。名草戸畔と言う女賊を誅して、熊野へて、再び船を出すが暴風に遭った
陸でも海でも進軍を阻まれことに憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。
磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、天皇は皇子手研耳命と軍を率いて  土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
東征が遅々として進まないのを憂いた天照大御神は、武甕槌神と相談し、霊剣を熊野の住民の高倉下*(高い倉を管理する者)に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。
磐余彦一行の東征の進行に障壁に憂いた天照大御神は剣を授けたが、峻険な山地に案内役に八咫烏を送り込んで菟田の地に入った。
菟田の支配する兄猾(エウカシ)弟猾(オトウカシ)を呼んだが兄のエウカシは来たが弟のオトウカシは参上し、兄のエウカシを殺害する計画を打ち上げた。
これに対して磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住民はみな従った。
磐余彦は高倉山に登ると八十梟師(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)の軍勢が充満しているのは見えた。
磐余彦は困って居た所、高皇産霊尊が夢に現れ「天の香具山の社の土を取って瓦80枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を作り「天神地祇」をお祀りせよ、そして身を清め呪詛せよ」のお告げが有った。
その言葉に従って天平瓦八〇枚と御神酒を器を作って天神地祇を祀り勝利した。また高皇産霊尊は見えない神々を現れように名付け祀るようにお告げをした「厳瓮」として、磐余彦は厳瓮の供物を召し上がり、兵を挙げて、まず八十梟師を国見丘で撃って斬られた。
この辺りから磐余彦が天皇に、軍勢を皇軍となっている。皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとして、使者を送った。まず兄磯城を呼んだ。兄磯城は答えなかった。
兄弟は全く違う対応をして兄磯城は使いの頭八咫烏を疎んじ弓を構えて射った。
次ぎの弟磯城に頭八咫烏が鳴いて知らせると「自分は天神が来られたので恐れ畏まって烏を鳴くのは良いことだ」と言って、皿8枚に食物を持って、もてなした。
弟磯城の言うには兄磯城は天神がくると聞いて八十梟師を集めて戦う用意していると知らせた。弟磯城の呼びかけにも応じなかったので、椎根津彦が計略を仕掛けて「女軍を差し向け、忍坂から進み様子を見て強兵を出し墨坂を目指し、宇陀川の水を取り、敵の火に注ぎ不意を突けばきっと破れるでしょう」天皇はその謀に苦戦はしたが、男軍と挟み撃ちで勝利を治め、梟雄兄磯城を斬った。
皇軍はついに長髄命を討つことになった。
戦いに苦戦をし、勝つことが出来ず、その時急に空が暗く雹が降ってきた。そこへ金色に光り輝く鵄(とび)が飛んできて、天皇の弓の先にとまった。
その光輝気、雷光のようであった。長髄彦の軍勢は眩惑され戦えなかった。
長髄命は使いを送って、天皇に言上し「「昔、天神の御子が天磐船に乗って天降れました。櫛玉饒速日命といいます。この人が我が妹の三炊屋媛を娶って子が出来ました。名を可美真手命と言います。
自分は鐃速日命を君として使えています。一体天神は二人居るのでしょうか。」と天神の偽物が居るので天皇に問うた。
「天神の皇子は多く居る。お前が君とする天神ならば表(しるし)がある」長髄命は饒速日命の羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)を見て「偽りではない」長髄命は恐れ入り畏まったが、長髄命のねじれと懐疑心は治りそうもないこと知って、殺害された。
これに対して饒速日命は天から降りたと知って、忠誠心を尽くしたので寵愛された。饒速日命(ニギハヤヒ)は天磐船に乗って高天原から河内国の川上の哮峰に降り立ち、その後大和の支配者ナガスネビコの妹を妻にした。イワレビコがやってきて、天津神に疑いを持って服従しないので、饒速日命は妻の兄の長髄命を討った。
「東征について六年になった。天神の権勢の御陰で凶徒は殺された。・・・大和は畝傍山の東南に橿原の地に都を造るべきである。」その後、媛蹈鞴五十鈴媛を召して正妃とされた。崩御のお年は一三七歳、御陵は畝傍山の北側の方に当たる。
◎ 神武天皇の東征にはどの様な意図と動機が有ったのか、塩土翁が東方に美しき国を聞いて思い立った。天上から地上の支配へは神話の話で、九州を基盤としていた王権が大和征服に向かった説も、九州に大きな王朝の遺跡など該当する資料がない。神武の熊野攻めの武器、太刀は時代的に存在しなかった。
◎ 「日本書記」」には兄磯城と弟磯城を対比させ、兄の磯城を悪者に仕立てある。海幸彦と山幸彦も兄の海幸彦悪く物語れている。ヤマトタケルの英雄伝説が描かれ、兄のヲウスの影薄く記紀には弟が皇位を継承する場合多い。
◎ 磐余彦の兄弟は日本書紀には四人兄弟で五瀬命、稲氷命、御毛沼命、伊波礼毘古(イワレヒコ)と記され、次男稲飯命と三男御毛沼は「ああ、我が先祖は天神、海神なのに陸に海に苦しむのか」と嘆き剣を抜いて海に入り、鋤持神に成り、三男の三毛入野命も恨んで常世国にいかれた。また別の編で、東征前に「常世の国」に言ったと伝えられ、記紀の別の記述には東征に随行したが途中で引き返したか、東征後故郷に帰還したか、また鬼八と言う邪神を退治した後、帰還した伝説もある。
◎ 磐余彦が東征の前に、「日本書記」に“塩土翁”にその国の様子を聞く、古事記にも“塩土老翁”の示唆があった「東に美しき地有り、青山四周れり」と記されている。
磐余彦の祖父の山幸彦(ホヲリ)が兄海幸彦(ホデリ)とも物語りに山幸彦が窮地に陥った時に、塩土翁の示した海宮への方向を教えて海幸彦の勝利に終わる。負けた山幸彦は隼人の種族の祖と言われている。
◎ 高倉山一帯が八十梟やエシキの軍勢に占拠し、進むことが出来ない為、立ち往生そこに高皇産霊尊のお告げで、見えない神々を祀ると敵を撃つことができた。
★ 「記紀」記されている九州は日向地方の天上、高天原から降臨した天津神は神武(イワレビコ)の世に東征、大和を目指したのか、何故大和を目指せなければ成らないのか、その必然性は編纂地大和が有ったからである。九州に天孫降臨の地の設定は、編纂時の飛鳥時代に急遽選択され、九州の設定に作られたのか、編纂までに伝承、継承が有ったのか、編纂以前に捜索されていて、それを基本に筋書きが出来たのか、言わば天孫降臨の地が九州でなければならない理由は無く、九州が都合の良い立地条件に適っていただけで、それが山陽道でも山陰道でも北陸道でも良かった。ただ出雲地方、吉備地方は対立する巨大氏族が存在し混同を避ける為に、九州が合致しただけに過ぎないかもしれない。
大和で凌ぎを削り、競合する豪族で勝ちあがった王朝こそ「記紀」に物語れる王朝であったかも知れない。その証として神武東征から、欠史代に続く「記紀」のに続く記述の中に、機内の豪族、氏族の列挙が物語るものではないだろうか。