歴史の足跡

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歴史は語る・承平・天慶の乱

2015-01-19 05:23:03 | 例会・催事のお知らせ



四十四、「承(じょう)平(へい)・天慶(てんぎょう)の乱」将門の乱

天慶二年に平将門の乱が勃発した。関東で起こった内乱。下総・常陸の一族間の私闘を繰り返する中、平将門が常陸の国を焼き払って、次々に勢力を広げ下野・上野まで国府を襲い国司を追い払い、自ら新星と称し、坂東各地の受領を任命するまでに至った。
その後勃発する純友の乱と合わせ「承平・天慶の乱」と言う。
関東の承平の乱が収拾に向かっていた頃、西国では不穏な動きが出てきた。
瀬戸内海では海賊の被害が多発し、従七位伊予堟藤原純友は海賊の討伐に当っていた。所が承平六年頃(936)には伊予の日振島を拠点に千艘を組織する海賊の頭目になっていた。
純友が説得し、鎮圧した海賊は朝廷の人員整理で職を失った富豪層出身の舎人たちが多くを占め、税収の既得権を主張し通行税なる物を徴収していたようである。
純友の配下は海賊鎮圧後も、瀬内海地域に土着させられ、武功勲功認定で失地回復を狙っていた者が、受領たちの自分たちより高い身分に武功を横取りされたりして快くは思っていなかった。
赴任する中央の受領の搾取の対象に成ったりし、任国の受領支配に不満を持つ者ばかりであった。
純友に関していえば父の従兄の藤原元名が承平二年から五年にかけ伊予守であったという。
天慶二年(939)純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅に襲撃させた。
それも残虐な鼻を削り捕え、妻を奪い、子らを殺したと言う。
この事件に朝廷は驚愕し、共鳴するかのように将門が謀反を起こしたのかと恐れた。
朝廷は天慶三年(940)小野好古を山陽道の追補使、次官に源経基を任じた。
朝廷は東国の将門の乱に兵力を集中させていたので、取り敢えず純友を懐柔を図り従五位を授けたが、純友には歯止めがきかなかった。
その内純友の情報が次々増幅されて京にもたらされた。
純友が淡路島の兵器庫を襲撃し襲っていると言う知らせが都の届き、京の各地に放火が相次ぎ、小野好古は「純友は船に乗り都に上りつつある」という報告を受けて朝廷は京へ襲撃をするのではないかと、宮廷の十四の門に兵を配備、藤原慶幸が山城の入り口に派遣し都への警護を固めた。
この一連の放火と純友の関係は定かではないが京では疑心暗鬼に陥っていたことは確かだ。
折しも将門の討伐が完了されたと言う報告が届き、この知らせに動揺したのか純友は日振島に船を返した。
これは将門の討伐が落着し、その兵を西国の純友討伐に差し向けられることが可能になったからである。
東国からの、兵が召還され兵が帰京するや朝廷は純友討伐に積極的になり、藤原文元・子高襲撃犯として追討の令が出された。
朝廷も東西同時の事変に困惑したが、将門の事変を解決した自信の勢いで純友討伐に集中することが出来る様になった。
一方純友は四百艘で出撃し、伊予国、讃岐国を襲い放火。備前國、備後国の兵船百艘を焼いた。そこから長門国を襲撃って、官物を掠奪した。
二カ月後大宰府と追討の兵が純友軍と戦い、これに純友軍が敗れ、周防国も襲われている。さらに土佐国幡多郡も襲撃をした。
天慶四年(941)純友軍の幹部の藤原恒利が朝廷軍に降り、それを期に朝廷軍は純友軍の本拠地日振(ひぶり)島を攻めてこれを破った。
純友軍は西に敗走、大宰府に入り占領する。純友の弟の藤原純乗は九州は柳川を攻め、大宰府権師の橘公頼の軍に浦池で敗れた。
一方朝廷側は小野好古率いる官軍が九州に到着し、官軍は陸路から、海路から攻めた。純友は大宰府を焼き、博多湾で迎え戦った。
純友軍はこの戦いで大敗し、八百艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れるが翌月には警固使橘遠保に捕えられ、その後獄死したと伝えられている。

※この頃相応する様に将門と純友が中央に不満を持って反旗を簸(ひ)るが下については、地方に活路を見いだそうとするもの、都から下級役職として赴任させられたものが、赴任先の富豪受領者や国衙との軋轢に、また赴任先の地方の官僚脱落者らの不満を吸収し勢力を増大させて一気に都の対する対抗勢力になった。
また地方の治世に手薄で支配の及びにくい不備を突かれた型となって表れて事変が噴出したようである。
双方の事変は赴任先の親族が少なからず関わり、将門の場合関東に活路を見いだした土着した親族の者との支配構造に争うが周辺を巻き込んでいった感があって、事態が大きくなるにつれ中央に対抗勢力に変化していった。
また純友の事変は、取り締まる者が、捕えられる側にまさに下剋上の世界である。何れにせよ地方の不満勢力を吸収し朝廷の対抗勢力になって行ったようである。
とりわけ掾が土着した役人との利権争いに、鎮圧に差し向けられた官人や兵らの鎮圧後、御用済みで放置、行き場を失った浪人が純友に活路を求めて集団化し海賊に変化した。時代に阻害された者の吹き溜まりの様なものだった。
またこう言った動きは「もののふ」武士の台頭となって領地を持って国主になっていた基になったのかも知れない。

★平将門(?~940)平安の武士、桓武天皇の曾孫の高望(たかもち)王(おう)の孫。鎮守府将軍平良将の子。身内の女を廻る争うで、叔父国香を討つ、坂東で新星の王朝を打ち立て、関東の諸国を除目し領地を与える。当初不満を持つ土着の豪族の反目を吸収しつつ勢力を拡大して行った。
★興世王(?~940)平安期の地方官『将門記』によると武蔵国権守の時に、同国足立郡司の武蔵武芝と対立し、平将門との調停で和解した。
新任国守百済貞連と対立して将門の下に身を寄せる、将門の常陸国府の襲撃後、坂東各国襲撃を促し将門新星即位後の受領除目で上総介となった。
◆受領は本来は国司の交替に際し、後任の国司から職務の引き継ぎがあって、完了した証明書を受け取ることで「受領」とされて来た。
国司が遙任の時は介、権守が受領となった。また留守所が成立し受領は常駐せず、目代を派遣して代行させるのが一般的である。
また家司が受領を代行することもある。

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