歴史の足跡

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歴史は語る⑫阿倍比羅夫の東北遠征

2014-09-06 08:48:44 | 例会・催事のお知らせ
十三、阿倍比羅夫(あべのひらふ)の東北遠征

飛鳥に都を移して間もない頃、日本海への阿倍比羅夫の大規模な北方の遠征が挙行され、『書紀』に何篇かに渡って記事から、記述に多少の混乱があるようだ。
斉明四年(658)斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫は北伐に向かった。四月に阿倍比羅夫は軍船百八十艇を率いて、すでに服従していた津軽の蝦夷を水先案内にして齶田(秋田)に来航した。鰐田・渟代(能代)の蝦夷は比羅夫軍の軍勢を見て降伏をした。
その行程は越国守阿倍比羅夫が北陸地方の豪族であったので、地域に詳しく関係の深い氏族であった。日本海は、冬は荒れるが春から夏へは波も穏やかで、能登半島の七尾・伏木辺りで集合し、態勢を整えて渟足・磐舟港を前線基地として準備万端をして進軍、征伐隊は順調に顎(あご)田(た)・渟代を押さえた。
組織と戦力に勝る比羅夫軍に蝦夷は何の戦いも組織の無いまま降伏しこれを比羅夫軍は許した。蝦夷は鰐田の浦の神に懸けて朝廷に従うことを誓った。
比羅夫は蝦夷の首領に位を授け、渟代(めしろ)・津軽の二部を郡領に任命をした。最後に有馬浜(津軽半島)に渡り嶋(北海道)の蝦夷を招き、大いに饗応して帰還した。
翌年の三月に、比羅夫は二回目の遠征に出発した。飽田(あきた)・渟代の津軽の蝦夷を三五〇人余りと、胆振鉏(北海道南部)の蝦夷二十人を一カ所に集め大いに饗応して禄を授けた。この年の遠征は北海道まで及んだと思われる。
さらに翌年の斉明六年(660)の三月の三回目の遠征には、粛(しゅく)慎(しん)(あしはぜ)と言う未知の民族と遭遇する。
比羅夫は陸奥の蝦夷を水先案内人と大河(石狩川)の河口付近に着くと、渡嶋の蝦夷千人余りが対岸に集まって仮住まいをしていた。
二人の蝦夷が大声で、川向うから「粛慎の軍船が多数襲ってきて我々を殺そうとしております、朝廷に仕えます、助けてください」と言って助けを求めてきた。
そこで比羅夫は粛慎人と接触を試みるが失敗に終わり、ついに戦闘となった。比羅夫軍に加わった能登臣馬身龍という能登地方の豪族が戦死する。
結局粛慎は破れて自ら妻子を殺したと言う。五月には粛慎人四十七名が来朝し、飛鳥石の都にある須弥山像の下に服従の儀礼を行なった。凱旋をした比羅夫はヒグマの生け捕り二頭とヒグマの毛皮七〇枚を献上した。以上が阿倍比羅夫の北方の遠征の概略である。

また斉明朝時代には活発に外交が展開されて様で、国内的に比羅夫の北方遠征に新羅・百済に使者や唐まで蝦夷らを連れて行き、倭国の属国があって支配地を広く大きく見せたい虚勢が窺い知れる。

★阿倍比羅夫(生没不詳)七世紀の有力豪族、比羅夫の名は貝の名前。比羅夫の阿倍は氏の中でも大和国は磯上(いそがみ)郡辟(ぐんへき)田(た)郷を本拠とする家系の出身であったことを示す。七世紀後半は引田氏が阿倍氏の主流を占め、阿倍氏の主流は後の布勢氏に移って行った。
斉明四年(658)の東北遠征には輝かしい功績を残し、その結果大和朝廷は未知の世界を知ることが出来、一歩東北に勢力を広げた間があるが、その後の東北政策は苦難を極め、平安京に入って坂上田村麻呂の蝦夷征伐まで待たなければならなかった。
◆蝦夷(えみし)*古代の新潟県の北部から東北地方・北海道にかけ居住した先住民族の総称、中国では古代から漢民族が自らの国家・文化が優れたものとものとして世界の中心の中華思想があって、それに影響されて日本の大和朝廷は国家に組み込まれていない東北、北海道・新潟地方の民を夷狄(いてき)(野蛮な異民族)の一つを蝦夷として設定をした。
帝国型国家は地域・人民を天皇支配の内か外かに区別することで化内・化外(けがい)(王家の及ばない所)に分けて夷狄と諸蕃共に化外の属すると考えた。
◆粛(あし)慎(しんはせ)*粛慎(しゅくしん)は中国の古典に見る春秋戦国以前の東北の伝説的民族であるが、実体は「ポルッツエ文化」を担ったバレオ・アジアート系の種族と考えられ、分布範囲は中国東北部からロシア沿海途方に及ぶ。その末裔は粛慎として中国や高句麗と通交した。日本の蝦夷と違う民族集団とみられる。
この間に659年の遣唐使に北海道の蝦夷の男女を同行し皇帝高宗に謁見をさせている。この事は倭国もこのように服従する国々があると言う、アピールであった。興味を持った高宗は蝦夷に何種類の種族があるかと問うたと言う。
遠いものから「都加留・麁蝦夷・塾蝦夷の三種」と答えた。また五穀はあるか?
「ございません、獣を食べて暮らしております」また蝦夷を見た高宗は蝦夷の顔、体つきに興味深く思ったと述べている記述が『新唐書』『通典』に記録が留められていると言うことは、実際に斉明朝の次期に北海度の奥深くまで達していて、日本の記録は間違いがなかったと言えよう。

※粛慎人を見てさぞかし飛鳥人は驚き、ヒグマを見て尚驚いたであろう。
三年連続で蝦夷や粛慎と称される種族を遭遇し交流などを出来たのは、季節的に条件が良かったのと、海沿いを添って北上したことが成功の要因に思える。
飛鳥時代は東北は未知の世界、大和朝廷の支配の及ばない所、勢力圏を拡大したい思惑で阿倍比羅夫は派遣された。行く先々で出遭った未知の先住民と交渉を重ねながら大きな功績を残した。
しかも遣唐使は大国中国に見栄を張って誇らしげに従属民族を示した。歴史は日本一国だけに留まらず中国も絡んで交渉と国交を結んで行ったものである。


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1 コメント

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阿倍比羅夫の東北遠征 (佐藤正則)
2017-10-31 12:16:05
能登半島の七尾・伏木辺りで集合し、態勢を整えて渟足・磐舟港を前線基地として準備万端をして進軍 の根拠となる史料を教えて頂きたくお願い致します。
その通りと思っているのですが、根拠を見つけられず困っております。
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