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『欠史八代の真偽の検証』川村一彦

2014-04-15 05:02:33 | 例会・催事のお知らせ
欠史八代の真偽の検証                       

古代史に謎の空白の時代が“欠史、二代綏靖天皇、三代安寧天皇、四代懿徳天皇、五代孝昭天皇第、六代考安天皇第、七代孝靈天皇、八代孝元天皇、九代開化天皇の八代の記述に架空の王朝だったのではと古くより知られている。陵墓や宮跡に該当しない不自然な記述があって、古くよりその存在に疑問視されていた。その反面、限られた文面から推測するに当たり、補足された豪族、氏族の記述に広範囲な大和は葛城を中心にした豪族、氏族と都、陵墓などの系譜を考慮して、ヤマトの中心より距離を置く葛城王朝ではないかと思われる。
国津神(大物主神)との融和の記述がある。特に播磨国、丹波国の関係の深さを窺いさせる記述もあり、后にも遠く尾張国の豪族との婚姻関係もあって、その基盤は我々が思っているより確かな王権が存在していたかも知れない。

第二代綏靖天皇「神哼名川耳天皇」(かむぬなかわみみのすめらぎのみこと)
 高岡宮 (御所市森脇)  八四歳 (橿原市)
神武天皇の亡くなった後、神武天皇後の皇位継承は複雑に変動する。イワレビコの亡き後、皇子のタギシミミ(多芸志美美命)は義母のイスケヨリヒメを妻にしてその三皇子を亡き者にしょうと画策する。これを知ったイスケヨリヒメは皇子達の危険を歌に込めて伝えた。歌を聴いた三人の皇子は危機回避のため先手を打って、タギシミミを討つことになった。
中兄カムヤヰミミ(神八井耳命)が末弟カムヌカハミミ(神沼河耳命)に促され太刀を手にタギシミミの館に忍び込んだが、手が震えて殺害が出来なかった。カムナカハミミは兄から太刀を受け取ると、タギシミミを討ち取った。この勇敢な末弟の働きに中兄のカムヤヰミミは皇位を末弟タケヌカハミミは皇位を継承した。末子相続制によるものか、記紀の皇位継承に兄の例が少ないようだ。
欠史八代は謎多き時代ではあるが、各氏族が列挙され日本が古代を知る上に貴重な資料である。
「古事記」綏靖天皇(カムヌナカハミミ)は葛城の高岡宮において、天下を治め、磯城県主の祖先である、カハマタビメを妻として生まれた皇子、シキツヒコタマデミノ命一柱である。
天皇84歳で崩御。
* 師木県主、奈良県磯城郡を本拠とした古代豪族。*茨田連、河内国は茨田郡に因む氏族名*。*手島連、摂津国豊島郡に因む氏族名。*意富臣、大和国十市群飫富郷を本拠地とする多臣。「古事記」の撰者の太朝臣安万侶も同祖。*小子部連、雄略紀に少子部連蜾蠃(すがる)の伝説が見える。多朝臣と同祖。*坂合部連、姓氏録の大彦命の末裔とある。*火君、肥国に因む氏族。大分君、碩田国(豊後国大分郡)*阿蘇君、肥後国阿蘇郡に因む氏族。*筑紫三家連、筑前国那珂郡三毛郷に因む氏族。雀部臣、姓氏録に多朝臣と同祖。*雀部国造、未詳。*小長谷造、小長谷若雀命(武烈天皇)の御名の因む氏族名。祁直、大和山辺郡都介郷の因む氏族。*伊余国造・科野国造、伊予国。信濃国の豪族。*道奥の石城国造、陸奥の磐城国(福島東部)豪族。*常道の仲国造、日立国那珂郡の豪族。*長狭国造、安房国長狭部に因む氏族名。尾張の丹波臣、尾張国丹羽郡に因む氏族名。*島田臣、尾張国海部郡島田郷に因む氏族名。多朝臣と同祖。
「日本書記」「神哼名川耳天皇」(カムヌナカワミミノスミラギミコト)は神武天皇の第三子です。母は媛蹈鞴五十鈴媛命で事代主神の長女である。父王神武天皇が亡くなられて葬儀が終わって兄カムヤイミミノミコトは権力をほしいままに振る舞い、弟の皇子二人を亡き者にせんと策略を立てた。
その企ては秘かに知らされ、先帝の陵墓の造成が終わるのを待って、弓、鏃(やじり)箭を作らせて「今こそ好機、密事は二人で・・」と二人の兄弟で進入したが中兄のカムヤイミミノミコトは手足が震えて弓矢が引けない、弟の兄に代わって一発で胸に命中。このこと以来中兄は恥じて、弟に従った。
「自分はお前は兄だが気が弱く天位はお前が受け継ぎ、自分は神々を祀りを受け持つ」神哼名川耳天皇として葛城に都を造られた。高丘宮と定め、先の皇后を皇太后とした。五十鈴依姫を立てて皇后として、その間に磯城津彦玉手看命が生まれ、綏靖天皇は45歳で亡くなられ、畝傍山の北側に葬られた。
◎ 欠史八代のうち比較的に記述が多いとされている、その後継争いについては先妻の 皇子カミヤイミミノミコトと後妻に皇子二人の皇子との戦いで末御子カムヌカハミミが皇位を継ぐが、その経緯は赤裸々に裏面を物語れている。
即位後、綏靖天皇は葛城に都定め、関係が深くなったと思われる。「古事記」と「日本書紀」では兄、中兄、弟の筋書きは概ね一緒だが王朝内の役人の様子は日本書紀には述べられ、古事記には補足として当時も氏族、豪族を記載されており神武没後の臣の背景が分かりやすくなっている。
☆ *片塩の浮穴宮、宮址は大阪中河内の地とも大和は大和高田とも言われている。*県主波延、「日本書記」には磯城県主葉江とある。磯城一体を本拠とした豪族。*大倭日子鉏友命、後の懿徳天皇。*須知の稲置、「須知」は伊賀の国名張郡名張郷で、名張市薦生のあたり。「稲置」は姓の名称。那婆理の稲置鼻張りし辺り。
*三野の稲置、伊賀郡身野の地、名張市東部、豪族。淡道の御井宮、反正天皇が淡路宮で生まれた時、瑞井の水を汲んで身体を洗った。*蠅伊呂泥・蠅伊呂杼ともに孝霊天皇の妃となった。*畝傍山のみほと、「みほと」女陰の意。

第三代安寧天皇「磯城津彦玉手看天皇」(しきつひこたまてみのすめらぎのみこ)
 乳孔宮 (大和高田市)四六七歳 (橿原市)
「古事記」シキツヒコタマデミノ命は片塩の浮穴宮で天下を治めた。カハマハタビメの兄の県主ハエの娘を妃として、生まれになった御子はトコネツヒコイロネノ命、オホヤマトヒコスキトモノ命、シキツヒコノ命の三柱の中、二子の皇子が皇位を継承した。安寧天皇は四九歳で崩御、御陵は畝傍の山の美富登にある。
「日本書記」安寧天皇は綏靖天皇の嫡子である。五十鈴依姫命で母は事代主の次女である。二一歳皇太子になられ、八年後に綏靖天皇が崩御、倭の桃花鳥丘上陵(橿原市大字四条字田井ノ坪)都を片塩に移した。浮孔宮と言う。翌年淳名底仲媛命と立てて皇后とする。第一子息石耳命、第二子大日本彦耜友天皇(懿徳天皇)
* 磯城津彦命は猪使連の始祖である。

第四代懿徳天皇「大日本彦耜友天皇」(おおやまとびこすきとものすめらぎのみこと)
 曲峡宮 (橿原市)  七七歳 (橿原市)
「古事記」オホヤマトヒコスキトモノ命は軽の境岡宮において政治を執る。師木県主の祖先のフトマワカヒメノ命、イヒヒヒメノ命を妻として生まれた皇子はミマツヒコカエシネノ命、タギヒシコノ命の二柱でミマツヒコカコカエシネノ命が継承され天下を治めた。
天皇は御年四五歳で崩御、御陵は畝傍山の真名子谷の近く。
* タギシヒノ命は血沼之別・多遅麻の竹別・葦井の稲置ノ祖先である。
「日本書記」大日本彦耜友天皇は安寧天皇の第二子母は淳名底仲媛命という。事代主の孫、鴨王のなである。安寧天皇が亡くなられ、畝傍山の南の御蔭井上陵に葬れた。都を軽の地に移した。天豊津媛命を立てて皇后とした。観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)が生まれる。
観松彦香殖稲天皇皇太子として十六歳で立太子。懿徳天皇は七七歳で崩御、畝傍山南繊沙上陵に葬られた。

第五代孝昭天皇「観松彦香殖稲天皇」(みまつひこかえしねのすめらぎのみこと)
池心宮 (御所市)  一一四歳 (御所市)
「古事記」ミマツヒコカエシネノ命(孝昭天皇)葛城の棭上宮において天下を治める。尾張の連の祖先のオキツヨソノの妹、名はヨソタホビメノ命を妻として生まれた御子はアメオシタラシヒコノ命、次にオホヤマトタラシコヒコクニオシトヒノ命その弟タラシヒコクニオシヒトノ命が後の天皇となった。天皇崩御九三歳、陵墓は棭上の博多山。
☆ *アメオシタラシヒコノ命は*春日臣、大和国は添上郡春日郷奈良市春日野町辺り、大豪族で5世紀頃以降には妃、后を度々出した。*大宅臣、添上郡大宅郷に因む氏族、春日臣と同族。*粟田臣、山城国愛宕郡粟田に因む氏族。*小野臣、近江国滋賀郡小野を本拠とする氏族。*柿本臣、柿本人麻呂を出した氏族、大和国が本拠としていた。*壱比章臣、大和国添上郡櫟井に因む氏族。*大坂臣、大和国葛上郡大坂郷に因む氏族。*阿那臣、近江国坂田郡阿那郷に因む氏族。*多紀臣、丹波国多紀郡に因む氏族。*羽栗臣、尾張国葉栗郡に因む氏族。*知多臣、尾張国智多郡に因む氏族。*牟耶臣、上総国武射郡に因む氏族。*都怒臣、未詳*伊勢の飯高君、伊勢国飯高郡に因む氏族。*壱師君、伊勢国壱志郡に因む氏族。*近淡海国造の祖先。*葛城の棭上宮、日本書紀には「池心宮」宮址は奈良御所市池ノ内。*大倭帯日子国押入命、後の孝安天皇(日本足彦国押人天皇) 
「日本書記」観松彦香殖稲天皇は懿徳天皇の太子である。母皇后は天豊津媛命は息石耳命の女である。都を池心宮(棭上)世襲足媛を立てて皇后とした。

第六代孝安天皇「日本足彦国押人天皇」(やまとたらしひこくにおしひとのすめらぎのみこと) 津嶋宮 (御所市)  一三七歳(御所市)
「古事記」オホヤマトタラシコクニオシヒトノ命(孝安天皇)は葛城は室の秋津島宮で天下を治めた。この天皇が、姪のオシカヒメノ命を妻とされ、御子は、オホキビモロススミノ命、次ぎにオホヤマトネコヒコフトニノ命の二柱、皇位を継承されたのはオホキビモロススミノ命が天下を治めた。天皇は137歳で崩御。御陵は玉手岡の上にある。
*葛城の室、御所市大字室。*秋津島宮、アキツシマは元来大和の一地名、また大和国の異称になった。忍鹿比売命、「日本書紀」にある孝安天皇の兄の天足彦国押人命の娘。玉手岡は御所市玉手の地。
「日本書記」日本足彦国押人天皇は孝昭天皇の第二子で母は世襲足媛という。尾張連の祖先を持つオキツヨソの妹である。一二三歳で崩御、陵墓は掖上博多山上陵。

第七代孝靈天皇「日本足彦太瓊天皇」(おおやまとねひこふとにのすめらぎのみこと) (田原本町)廬戸宮 一二八歳(王子町)
「古事記」オホヤマトネコヒコフトニノ命(孝霊天皇)は黒田の廬戸宮において天下を治めになった。この天皇は、十市県主の祖先の大目の娘の、クシハラヒメノ命という名の妻を娶り、生まれた御子はオホヤマトネコヒクニクルノ命の一柱である。また春日のオホヤマトクニアレヒメノ命を妻として生まれた御子はヤマトソモモソビメノ命、次ぎにヤマトトビハヤワカヤヒメ命、次ぎにヒコイサセリビコノ命、ハヘイロドを妻として生まれた御子は、ヒコサメマノ命、次ぎにワカヒコタタケビツヒコノ命で生まれた御子5柱、皇女3柱である。天下を治めた御子はオホヤマトネコヒクニクルノ命。
* ヤマトマトクニアレヒメノ命とワカヒコタタケビツヒコノ命に二柱は播磨の氷河の野埼に斎瓮をすえて上を祭った、播道臣の祖先、吉備の平定、下道臣、*ヒコイサセリビコノ命は越国の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿済直の祖先である。*廬戸宮の宮址は田原本黒田と宮古の間。*十市県主、奈良県十市郡(磯城郡西部)の豪族。*大倭根子日子国玖琉命、後の孝元天皇。*大吉備津日子命、岡山市吉備津に大吉備津彦神社がある。
*氷河の前、兵庫は加古川大野にある丘を氷丘という、丘の下を流れる川が加古川「氷河」と呼んだ。*道の口、西道(山陽道)の入り口。*下道臣、備中国下道郡を拠点する豪族。*笠臣、備中国小田郡の笠岡辺りを本拠にした豪族。*牛鹿臣、播磨国飾磨郡の牛鹿(姫路市付近を本拠にした豪族。*利波臣、越中国礪波郡を本拠にした氏族。五百原君、駿河国廬原郡を本拠地にした氏族。*角鹿済直、越前国敦賀郡一帯の海部の伴造。*片岡馬背坂、奈良県北葛城郡王子町南部馬背坂近くにあるという。
天皇は一〇六歳で崩御。御陵は片岡の馬坂の上。
「日本書記」日本足彦太瓊天皇は孝霊天皇の太子である。母は天足彦国押人命の娘である。孝霊天皇は106歳で崩御、陵墓は玉手丘上陵、奈良県御所市玉手字宮山。

第八代孝元天皇「大日本根子彦国牽天皇」(おおやまとねこひこくにくるのすめらぎのみこと) 境原宮 (橿原市)  一一六歳 (橿原市)
「古事記」オホヤマトネコヒクニクルノ命(孝元天皇)は軽の堺原宮において地点かを治められた。穂積臣らの祖先のウツシコヲノ命の妹のウツシコメノ命を妻として、生まれた御子は、オホヒコノ命、スクナヒコタケヰゴコロノ命、ワカヤマトネコヒコオホビビノ命の三柱である。
またウツシコノヲノ命の女を妻して生みになった御子は、ヒコフツオシメコトノ命、また河内のアヲタノ命一柱、天皇の皇子は五柱である。そのうち皇位を継がれたのはワカヤマトネコヒコオホビビノ命が天下を治めた。
* 兄のオカビコノ命の子はタケヌナカハワケノ命は阿倍臣の祖先である。*ヒコフツオシメコトノ命が尾張連の祖先である。:ヒコイナコジワケノ命は膳臣の祖先である。紀伊国造の祖先のウズヒコの妹のヤマシタカゲヒメを妻にして産んだ子が武内宿禰である。*武内宿禰に子は会わせ9人。*ハタノヤシロノ宿禰は波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海・長谷部君・の祖先である。*コセノヲカラノ宿禰は許勢臣・雀部臣・軽部臣。*葛城の長江のソツビコは玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣・の祖先である。*ワクゴノ宿禰は江野間臣の祖先である。*穂積臣、物部氏と同族関係の氏族。*大毘古命、北陸道に派遣された。*建沼河別命、当東海道に派遣された。*阿倍臣、大彦命を祖先とする大氏族。同族は東国や北陸道に分布。*膳臣、共膳を司る氏族。*味師内宿禰、ウマシは美称。大和国宇智郡は本拠とした氏族。*山代の内臣、山城国綴喜郡内郷に因む氏族。*建内宿禰、武内宿禰の末裔。*星川臣、大和国山辺郡星川郷を本拠とした氏族。*許勢臣、大和国高市郡巨勢郷を本拠とした氏族。蘇賀石河宿禰、蘇我氏の祖先。大和国高市曾我の本拠地の氏族。*平群都久宿禰、生駒平群を本拠とする氏族。*都奴臣、周防国都農郡を本拠地とした氏族。*坂本臣、和泉国和泉郡坂本郷を本拠とした氏族。*葛城長江曾津毘古、葛上郡高宮長柄にあたる。*玉手臣、葛上郡桑原郷玉手と本拠地として氏族。*的臣、武内宿禰の末裔。*江野間臣、加賀国江沼郡を本拠地とする氏族。
* 「日本書記」大日本根子彦国牽天皇は孝霊天皇の太子である。母は細姫命で磯城県主大目の娘である。孝元天皇は五七歳で崩御、御陵は片丘馬坂量で奈良県王子町王子。都は境原宮。

第九代開化天皇「稚日本根子彦大日日天皇」(わかやまとねこひこおおびびのすめらぎのみこと) 率川宮 (奈良市)  一一一歳 (奈良市)
「古事記」ワカヤマトネコオオビビノスメラギノミコト命(開化天皇)は春日の伊耶河宮で天下を治めた。この天皇は丹波の大県主のユゴリの娘タカノヒメを妻として生みになった御子はヒココムスミノ命の一柱。継母のイカガシコメノ命を妻として生みになった御子は丸邇臣の先祖である、ヒコクニケツノ命の妹ノオケツヒメノ命を妻として生みになった御子はヒコイマス王一柱である。
葛城の垂見宿禰の娘を妻ワシヒメとして生み名になった御子はタケトヨハズラワケノ王一柱である。
*御上の祝、滋賀県は野洲の御上神社に仕える神職。*天之御影神、御上神社の祭神。*息長水依比売、息長氏の本拠地。水に携る巫女である。*丹波比古多々須美知能宇斯王、四道将軍の一人、「丹波の道主命をもて丹波に遣わす」*品遅部君、品遅部の伴造、誉津別命〔垂仁天皇〕の為に設けた御名代の部民。*佐那造、伊勢国多気郡佐那を本拠地にした氏族。*当麻勾君、大和国当麻郷を本拠地として氏族。*日下部連、河内国日下を本拠地とした氏族。葛野之別、山城国葛野郡を本拠地とした氏族。*蚊野之別、近江国愛智郡蚊野郷を本拠地にいた氏族。*耳別、若狭国三方郡彌美郷を本拠地とした氏族。*河上の麻須郎女、河上は丹後国熊野郡河上郷の地。*三河の穂別、三河国宝飲郡を本拠地とした氏族。*安直、近江国野洲部を支配した氏族。*本巣国造、美濃国本巣を支配した氏族。*長幡部連、常陸国久慈郡太田郷の氏族。*吉備の品遅君、備後国品冶郷の伴造。*阿宗君、播磨国揖保郡阿宗の氏族。*忍海部造、忍海部の伴造、丹後国竹野郡を本拠地とした氏族。*依網の阿毘古、依網は摂津国住吉郡大羅郷「阿毘古」は原始的姓。*伊那河の坂の上、奈良県油坂。
「日本書記」稚日本根子彦大日日天皇は孝元天皇の第二子、母は欝色謎命という。穂積臣の祖先を欝色雄命の妹である。開化天皇は63歳で崩御、春日率川坂本陵に葬られた。奈良市油坂。

天皇名     宮    現在地   在位年数 御陵   没年
第二代緩康天皇 高岡宮 (御所市)  三三年 (橿原市) 八四歳 
第三代安寧天皇 乳孔宮 (大和高田市)三九年 (橿原市) 六七歳 
第四代懿徳天皇 曲峡宮 (橿原市)  三四年 (橿原市) 七七歳
第五代孝昭天皇 池心宮 (御所市)  八三年 (御所市) 一一四歳 
第六代考安天皇 津嶋宮 (御所市) 一〇二年 (御所市) 一三七歳 
第七代孝靈天皇 廬戸宮 (田原本町) 七六年 (王子町) 一二八歳
第八代孝元天皇 境原宮 (橿原市)  五七年 (橿原市) 一一六歳 
第九代開化天皇 率川宮 (奈良市)  六一年 (奈良市) 一一一歳
上記の没年が五人の天皇が一〇〇歳以上で考えられない年齢である。
これは神武天皇からの数字合わせであるが、何故それまでして天皇の存在を創作しなければならなかったかは、特別な政変を隠蔽し八代を組み入れなければならない事情があったのか、謎が残る。
こうして欠史八代の天皇の在の記述を考察していく中で、架空、創作と指摘されている各天皇の詳細な情報の欠如は何らかに理由で語ることが出来なかったの、また便宜上神武天皇の「辛酉干支」による紀元前六六〇年による辻褄合わせによるものか(天皇の在位の長期)また葛城王朝かの疑問による敢えて削除し別の事柄を付け加えたものか、いまだその不明点は推測の域を脱せず、憶測のみ先行する。
しかし各天皇の記述の補足するが如くの、氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされ、吉備国、近江国など近隣諸国と大和の豪族、氏族の関係は葛城王朝を微妙な変化があったのでないかと思われる。   
これらの記述はこの欠史八代の時代後の解明に有効な文献と、参考資料である。















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