歴史の足跡

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歴史は語る・31・長岡遷都

2014-10-14 06:32:34 | 例会・催事のお知らせ


三十一、長岡遷都

延暦三年(784)桓武天皇は山城国乙訓郡長岡に視察を命じた。長岡京遷都をめざし動き始め、翌年はこの地で朝賀を迎えたいと慌ただしい。
視察には藤原小黒麻呂と藤原種継と同行に官僚と警備の者を連れての視察であった。
早速、突貫工事が始められた。この宮のへの造営のために動員された諸国の百姓は三十一万四千人と言われている。
取り敢えず、その年の内に天皇の遷(せん)居(きょ)が行われた。この時に華々しく采配し活躍したのが種継ぐと言われている。
その後十年かけて造営がされたが結果打ち切られて平安京に向けて変更された。
長岡京については本格的遷都ではなく平安京への復都として陪都(中国では別に都が造られた)であると見解が分かれ、規模にしては平城京や平安京より小さく、立地条件も芳しくない。
そんな長岡京造営の最中、延暦四年(785)九月二十三日、夜造営中の陣頭指揮に当っていた中納言式部卿の藤原種継が、体に二本の矢を射ぬかれて翌日死去する事件が起きた。
種継は藤原家式家の孫、清成の子であった。天皇の信任厚く内外の事皆決めると言われるほどの寵愛ぶりであった。その時桓武天皇、娘朝原内親王の伊勢神宮に斎宮として向かい、その途中の平城京まで見送りに行って、付近で狩りを楽しんでいた所、急遽長岡京に引き返した。
犯人は大伴継人。継人は鑑真和上を日本に連れ帰る功績があった。連座して直前に死した中納言大伴家持(おおとものやかもち)も死後除名と言う屈辱な仕打ちを受けた。
事は継人と共に佐伯(さえき)高成(たかなり)の自白に寄れば、そもそも家持が大伴、佐伯氏の糾合し早良皇太子の了解を経て起きた事象であった。
早良親王と種継は普段から仲が悪く、この事件で早良の責任は免れず、東宮を出た早良は9月二十八日の夜中、乙訓寺に幽閉され、自ら食事を絶ち十日間ご淡路島に移送される途中に絶命をした。実際は食事も出さず衰弱死したと言う。
そ の後、長岡京では安(あ)殿(て)親王が皇太子に、同母弟の神野親王(後の嵯峨天皇)が誕生し、同年に藤原旅子を母として大伴親王(後の淳和(じゅんな)天皇(てんのう))が誕生した。
所が長岡京は中途半端な形で未完成な状態に追い打ちをかけるように、延暦十一年(792)六月と八月に風水害に見舞われ、その洪水に皇太子安殿新王まで病床に伏し、その前に旅子、新笠、乙牟漏など続けて無くなって、不吉な兆候として早良親王の祟りとささやかれ、長岡京に見切りをつけ平安京への遷都を模索するのであった。

★藤(ふじ)原種(わらたね)継(つぐ)(737~785)宇合の孫、清成の子。母は秦忌(はたのいみ)寸(き)朝元(あさもと)の女。仲成、薬子の父。各役職を歴任し四十七歳にして中納言、造長岡京使に任ぜられ、造営を主導した。
その功に正三位に叙せられた。桓武帝が行幸中に、右大臣藤原是公と共に造営長岡京で留守中の夜中に大伴継人に・竹良に箭(や)を射られて負傷し翌日死去した。尋問の結果早良親王も関与していたことが露見し皇太子が廃されて憤死(ふんし)した。
◆長岡京*延暦三年(784)から10年間。山城国乙訓郡・京都府長岡市・大山崎町に営まれた。遷都の理由に「水陸の便」とされ桂川・木津川・宇治川の合流地点で、淀川に注ぐ、桓武天皇の妃高野新笠が渡来人と意識し、皇統正当化のために、積極的に中国の思想を取り入れた。
遷都は反体制直を抑え込む為に、計画的に執り行われた。和気清麻呂を摂津(せっつ)太夫(だゆう)に任命し、後期難波宮を解体し、新都を公表し、直後に造長岡使を任命をした。
難波宮を移築し、翌月には大極(だいごく)殿(でん)で朝賀の儀式をするほどの速さで進められ、造長岡使長官に藤原種継ぐが暗殺されるほど抵抗が強かった。
平城京の宮城門が移築される頃には一段落したが後期造営直後から夫人、皇太后、皇后の死から、早良親王の祟りを恐れるに及んで廃都を決定し、建設から10年後平安京に天皇は移る。造営工事に費やされた延べ人数は31万4000人が和雇(わこ)された。

※桓武天皇の遷都は平城京の天武系の払拭と、心機一転の思いがあった。それに井上内親王から高野新笠へ皇后が変わっての抵抗も見逃せない。早良親王、他戸親王と恨みを残す皇位継承の柵(しがらみ)があって、桓武は長岡京で渡来人の協力を得ようと試みた。
桓武天皇の遷都の協力者の藤原種継の暗殺は何より遷都反対の根強さの現れであった。桓武帝は早良親王の怨霊と言う幻想に怯えながら、更に平安京に向かって秦(はた)氏(し)の協力を求めて遷都を模索する桓武天皇であった。

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