歴史の足跡

フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」の会」もよろしく。

『河内王朝と継承の謎』④川村一彦

2014-04-09 05:14:25 | 例会・催事のお知らせ
応神天皇(誉田別尊(ほむたわけのみこと))父王仲哀天皇の第四子で母は神功皇后である。皇宮は軽島(かるしま)の豊明宮で天下を治められた。在位四一年、没年一一一年巨大な誉田山古墳に葬られた。
神功皇后が新羅を征伐した年、遠征先の筑紫の蚊田(かだ)で生まれたとされる。応神天皇に関しては神功皇后の編で述べているが、麛坂(かごさか)王(おう)、忍(おし)熊(くま)王(おう)の反乱の制圧で王朝交代したと推測される。
戦前には皇室の万世一系が国是であったので、王権の交代は公表はできなかったからであり、研究者の自由な立場から、『古事記』『日本書紀』に出てくる神話の時代から神武天皇、欠史八代を経て、三輪王朝の時代より実在の可能性を検証しつつ、なぞらえる根拠の事項はないかと模索をしてきた。
後継者争いが単なる兄弟の王族内の争いであった、と言うことは別にして、神功皇后と応神天皇のように、ヤマトに帰還すると先帝の兄皇子二人が軍を挙げ待ちうけている事変については、身内争いでない旧勢力と新興勢力の戦いと位置づけられるであろう。
その後に於ける継体天皇の不自然な皇位継承は、歴然とした別の系統の王朝交代と思われている。
八幡宮の祭神は応神天皇である。八幡神が歴史に登場するのは『続日本紀』であり、記事に伊勢神宮と奈良大神(おおみわ)神社と並んで八幡が記載されている。
日本の神社十二万余社の内、四万社余りが八幡宮の総本社、宇佐に祭られている宇佐八幡宮である。
この九州は、神功皇后の九州の征伐と新羅派遣の基地の関係があり、関わりの深さを窺える。その後神仏習合の影響を受け「南無八幡大菩薩」として日本国中に広まって行った。
また源氏の守護神である義家は、「八幡太郎」として武勇の祈念神仏であるが、祭神は応神天皇、神功皇后、比売大神(ひめおおかみ)の三神であり、祭神が仁徳天皇、仲哀天皇、玉依姫(たまよりひめ)に入れ替わる八幡宮もある。
『日本書紀』には、新羅を討ち九州からの帰還の際、浪速に向っている時に船が回り出した。そこで武庫に還って占ったところ、天照大神・稚日女尊(わかひるめのみこと)・事代主命(ことしろぬし)・住吉三神が鎮座する土地を指示するお告げがあった。このお告げに従ったため神々の保護を受け、大和の兄王の麛坂(かごさか)王(おう)、忍(おし)熊(くま)王(おう)の反乱に遭うものの、この戦いに勝利した。これにより応神天皇が正統性のある皇孫であることを『紀』では強調している。

『古事記』には、応神天皇(ホムタノスメラギ)が軽島(かるしま)の明宮(あきらのみや)で天下を治めたこと、品陀眞若(ほむだのまわかの)王の女と結婚されたことが記される他、多くの妃から二十六柱の御子が産まれている。
これらの御子の中から大雀命(おほささぎのみこと)が王位を継承されたことが記載されている。応神天皇の和風諡号(しごう)は、品陀和気命(ほむだわけのみこと)で河内王朝の始祖としての位置付けに、后妃の生んだ多くの皇子、皇女を詳細に記している。
応神天皇は、後継の問題で大山守命(おおやまもりのみこと)と大雀命(おほささぎのみこと)に「お前達は年下の子と年上の子とどちらがかわいいか」問われた。そこで大山守命は、「年上の子のほうが可愛いと思います」と答えた。
大雀命は「年上の子は成人しておりますので、気にかかることはありませんが、年下の子は成人していないので可愛く思われます」と答えると、「大雀命よ、お前の言ったことは私と同じだ」「大山守命に山と海部を管理し、大雀命に私の統治する国の政治をしなさい。宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)は皇位を継ぎなさい」と命じられた。これにより、三人の異母兄弟のうち宮主(みやぬし)矢河枝比賣(やかはえひめ)(丸邇臣出身)の生んだ皇子が皇位を指名された。
* 矢河枝比賣(やかはえひめ)は王仁(わに)の女で、奈良市の北部一帯を拠点とした大豪族である。王仁氏が天皇を迎えての大宴会の「歌」から、宇治から葛野、近江にかけて有した王仁氏の様子が分かると言う。
応神天皇が日向国から召された、美しく麗しい髪長比売(かみながひめ)が難波津に着いたのを見て、大雀命(おほささぎのみこと)は感動され、武内宿禰に頼み、天皇に「私に下さるように」取り成しを求め、天皇の許しを得た結果、髪長比売は皇子に与えられた。
*この辺りの記述、女を与えられた話は、応神天皇と仁徳天皇の同一人物ではないかと言う説の根拠の一つして考えられる。
「百済の朝貢」説話には、応神天皇の御代に、海部(あまべ)、山守部、伊勢部を定めたこと、また剣池(つるぎのいけ)を作ったこと、新羅の人々が渡来したこと、武内宿禰はこれらの人々を率いて、参渡(まいわた)りの堤池として百済(くだら)池(いけ)を作った。
百済の国王の照古(せうこ)王は、牡馬(おま),牝馬(めま)一頭ずつを阿知吉師(あちきし)に託し献上してきた。天皇は照古王に太刀、大鏡を献上した。
*この阿知吉師(あちきし)は阿直史等の祖先である。
この頃百済との交流があった。「渡」は百済を指す。百済池か奈良北葛城郡付近。
「大山守命の反逆」説話では、応神天皇が崩御された後、大雀命が天皇の指示に従って天下を宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)に譲られたが、皇子の大山守命は、皇位を自分が継ぎたいと思い、弟皇子の宇遅能和紀郎命を殺害しょうと秘かに軍勢の準備をした。
大雀命は、兄王が軍勢を準備しているのを知って使者を出し、弟宇遅能和紀郎命に告げた。弟王は直ちに伏兵を宇治川の岸辺に置き、その山の手に絹の幕を張りめぐらし、幔幕を上げて仮宮に見せかけた。
その中に弟王に見せかけた替玉を坐らせ、御座所が良く見えるように飾り、船に仕掛けを設け、兄王が川を渡る時、船に潜んでいた弟王が船を傾かせ、兄王を滑らせて川の中に落とし、川辺で潜む弟王の軍勢が一斉に攻撃した。兄王は川に流されて訶和羅(かわら)埼まで流れ着いて沈んだ。大山守命の死骸は那羅(なら)山に葬った。
この謀反以後、大雀命と宇遅能和紀郎命が互いに皇位の譲り合いをしている際、宇遅能和紀郎命が亡くなられ、大雀命が皇位についた。仁徳紀には自殺したとされている。

『日本書記』応神天皇(ほむたのすめらぎ)は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の第四子で、母は気長足姫(おきながらしひめ)尊(のみこと)という。母神宮皇后は新羅を討たれた年、筑紫の蚊(か)田(だ)でお生みになった。
「武内宿禰兄弟説話」には、武内宿禰と弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)の争いがあって、弟は兄を欺いて天皇に讒言し、「武内宿禰が天下をねらう野心があります」と告げたため、天皇は武内宿禰を殺すことを命じた。
武内宿禰は嘆いて「手前は元より二心がない……」武内宿禰に似た臣下の壱岐の真根子(まねこ)と言う者が身代わりに死に、秘かに筑紫に逃れ、船で南海を回り、紀伊の港に帰り、朝廷にたどり着き、罪のないことを弁明した。
天皇は神祇に祈り「探湯(くがたち)」を命じ、甘美内宿禰(うましうちのすくね)と武内宿禰が探湯を行い武内宿禰が勝った。
*「探湯」は熱湯に手を入れ、ただれた者を邪とする。
「弓月君(ゆつきのきみ)、阿直岐(あちき)、王仁(わに)」説話に、百済王は縫衣(きぬぬい)工女(おみな)を奏上した。来米(くめの)衣縫(きぬぬい)の祖先である。弓月君が百済からやってきて奏上して「私は自国の一二〇県の人民を率いてやって来たが、新羅人が邪魔をして加羅国に留まっています」といった。そこで葛城(かつらぎの)襲津彦(そつひこ)を遣わしたが、三年経っても帰ってこなかった。
百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉じた。平群(へぐりの)木菟宿禰(つくのすくね)・的(いくはの)戸田宿禰(とだすくね)を加羅に遣わして「襲津彦が帰ってこない、お前立ちが行き新羅を討ちなさい」と命じられ、木菟宿禰らは兵を率いて新羅の国境に臨み、新羅の王は恐れその罪に服した。そこで弓月の民を率いて襲津彦とともに帰ってきた。
*この説話は古事記に出てくる百済の朝貢に似ている事項である。百済国との交流が盛んであったのか。
「兄媛の嘆き」説話には、天皇が難波の大隅宮に居られた時、妃の兄媛(えひめ)が西方を望み嘆かれた。兄媛は吉備臣の祖先の御友別(みともわけ)の妹で、故郷を懐かしみ父母に会わせて欲しいと天皇に願い出た所、天皇は許しを出された。
その後天皇は淡路島で狩りをされ、淡路から吉備に行かれ、小豆島で遊ばれた後、葦守宮(あしもりのみや)に移り住んだ。吉備の御友別(みともわけ)が食事で天皇をもてなした。それで吉備国を割いてその子供たちに治めさせた。川島県(かわしまのあがた)を稲速別(いなはやわけ)に、これが下道臣の祖先である。
次に上道県に中子の仲彦に、これが上道臣(かみつみちのおみ)、香屋臣(かやのおみ)の祖先である。次ぎに三野県(みののあがた)を弟彦に、三野臣の祖先である。その他にも天皇から賜った者が吉備国の元となった。
「武庫の船火事」説話に、古船を焼いて全国に配ったところ五百の船が献上され、武庫の港に集められた。ところが新羅の使者の船が武庫に居て、そこから出火延焼で多数の船が焼けた。新羅王は驚き、工匠(たくみ)を奉じた。これが猪名部の祖先である。

「仁徳天皇」
『古事記』第十六代天皇、仁徳天皇はただ一人の「聖帝(ひじりのみかど)」と記され、父は応神天皇で母は品陀眞若王(ほむだまわかのおう)の女、仲姫命(なかひめのみこと)、第四子であり名は大雀命(おおささぎのみこと)という。
大雀命は高津宮で天下を治めた。葛城の曾都毘古(そつびこ)の女、石之(いはの)日売命(ひめのみこと)を皇后として、生まれた皇子は、大江(おおえ)の伊邪本和気命(いざほんわけのみこと)、墨江(すみのえ)の中津(なかつ)王(おう)、蝮(たぢひ)の水歯別命(みづはわけのみこと)、男浅津間(おあさづま)若子宿禰(わくこのすくね)命の四人、髪長比売(かみながひめ)妃から生まれた御子は二人、八田(やたの)若郎女(わきいらつめ)妃から生まれた御子は生まれず、宇遅能(うぢの)若郎女妃からも生まれず、御子は会わせて六人である。
「聖帝の御世」の説話には、渡来した秦氏を使い、茨田(まむだ)堤、茨田の屯倉(みやけ)造り、和珥池(わにのいけ)、依網(よさみの)池を造り、難波の堀江を掘って、治水をし、小橋江(をはしのえ)を掘り、住吉の津を定め開発を進められた。
高い所に立って「民の釜戸に煙が上がっていないのを見て」民の貧しいこと知り、三年間租税を免除された。それ故、宮殿は荒れ果て雨漏りしたが、修理もされずに凌のがれていた。
三年後国見に立たれ、国中に煙が立ち昇ったため、民に課税された。これを讃えて「聖帝の御世」というのであう。
*和珥池(わにのいけ)は富田林付近と奈良池田町辺り。依網池(よさみのいけ)は大阪東住吉区か松原市辺り。茨田堤(まんだのつつみ)は寝屋川辺りと、大阪鶴見にも茨田横堤の地名がある。
「皇后の嫉妬と吉備の黒日売」説話では、皇后石之日売命は、嫉妬されることが多く、天皇が召される妃たちを宮殿に入れなかった。天皇は、吉備の海部直(あまべのあたへ)の娘の黒日売(くろひめ)が、容貌が美しいので天皇がお召しになったものの、黒日売は皇后の嫉妬の深さを怖れて、国元の吉備に逃げ帰ってしまった。天皇は淡路島に行った折、黒日売会いたさに島伝いに吉備に行かれ、暫しの間、黒日売との日々を楽しまれた。
その後、皇后石之日売命が酒宴に奉る御綱柏(みつながしは)を採りに紀伊国に行かれた折、天皇は八田若郎女(やたのわきいらつめ)を召して大宮の中にいれられた。この際の皇后の嫉妬から、お二人は不仲になられたが、「聖帝」と言われた天皇も女性には積極的であったようである。
*『日本書紀』に記された応神天皇の「兄媛の嘆き」の説話と、『古事記』にのる仁徳天皇の「皇后の嫉妬・黒日売」とは共通する箇所があって、仁徳天皇と応神天皇とが同一視される由縁になっている。

『日本書紀』では、仁徳天皇の皇位に就かれる経緯について、古事記とほぼ同じ様な筋書きが描かれている。
「民の竃に煙」説話は、民の暮らしに対する天皇の心配りを説き、「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民が根本である」と、人民と君との苦しみや富は共有することを強調され、名君であることを知らしめている。
「池堤の構築」説話も、古事記とほぼ同様、治水工事の模様が詳細に描かれ、神の占いや「人身御供」も出てくる。新羅人の朝貢が有って、この工事を完成させた他、高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉じた記事がある。
この年に高麗国の客をもてなされ、軍臣百寮を集めて高麗が奉じた盾、的を試したが、多くのものが射通することが出来なかった。ただ的臣(いくはのおみ)の祖先の盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の盾を射抜いた。
その後治水工事は、宇治の栗隅県(くるくまのあがた)、河内一円に堤を築いた。
上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦の四箇所の原を潤し、四万項(しろ)余りの田が得られた。
*この工事は治水も新田開発も有ったのだろう。この頃に新羅、高麗国の交流と朝貢があったと伝えている。『古事記』では渡来した秦氏を使い工事が進められたと記されている。『日本書記』には朝貢の「鉄」が出てくるので、盾、的と描かれているが、工事用の土木用具も含まれていたであろう。
新羅の朝貢が、前回より六年なかったので促した所、新羅人は恐れ入って貢物を届けた。調布の絹千四百六十匹、その他の品物合わせ八十艘であった。
「皇后との不仲と八田皇女の立后」説話は、「八田皇女(やたのひめみこ)を召し入れ妃としたい」と仁徳天皇が皇后に申したが、皇后は承知されなかったので、皇后が遠出をされた隙に宮中に入れられた。このために天皇と皇后とは不仲になり、皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)は葛城の故郷に帰り、二度と宮中には戻らず、筒城宮(つづきのみや)で亡くなられた。
皇后は奈良山に葬られ、三年後、八田皇女が皇后になられた。
「鷹甘部(たかかいべ)の定め」の説話は、紀角宿禰(きのつぬのすくね)を百済に遣わし、始めて国郡の境の使い分けや郷土の産物を記録することを行った。そのとき百済王の王族酒君(さけのきみ)に無礼があったので、紀角宿禰(きのつぬのすくね)が百済王を責めた。百済王は恐れ入って酒君を鉄の鎖で縛り、襲津彦(そつひこ)に従わせて進上した。
「新羅・蝦夷との紛争」の説話には、新羅が朝貢しなかったこと。上毛野君の祖先竹葉瀬(たかはせ)の弟を遣わして、貢物を奉じないことを問われた。その途中で白鹿を獲た。帰って天皇に奉じた。
しばらくして竹葉瀬弟の田道(たじ)を遣わされ「もし新羅が抵抗したら兵を挙げ討て」と命じた。新羅人は毎日挑戦をしてきたが、策をもって新羅軍を潰した。その後蝦夷(えみし)が叛いた、田道を遣わして討たせた。蝦夷のために破られ伊峙(いじ)の水門(石巻)が死んだ。その後蝦夷が襲ってきて人民を脅かすので、田道の墓を掘った。中から大蛇が出てきて蝦夷に食いつき、蛇の毒で多くの蝦夷が死んだ。
その後五年後、呉国(くれのくに)・高麗国(こまのくに)が朝貢した。
天皇が崩御、百舌鳥野(もずのの)陵(みささぎ)(堺市大仙町)に葬られた。

「履中天皇」『記紀』には、父は仁徳天皇、母は磐之媛(いわのひめ)尊、大兄去来穂別(いざほわけの)尊(みこと)といい、皇后石之日売(いはのひめ)(記)若郎女(わきのいらつめ)、皇妃黒媛(くろひめ)、皇宮磐余(いわれの)稚桜宮(かざくらのみや)、在位六年、陵墓は百舌鳥(もずの)耳原(みみはらの)南陵(堺市石津ケ丘)。拠点は大和、河内の住吉。丹比(たじひ)で即位してからは,羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘黒媛をめぐり、弟住吉仲皇子(なかつみこ)と軋轢が生じ、皇子は臣下に助けられて大和の石上(いそのかみ)神社に難を逃れる。弟の瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)〔反正天皇〕の救援で助かり、住吉仲皇子は仲皇子の下臣に殺させる。謀反に加わった、阿雲連(あずみのむらじ)濱子(はまこ)、倭直(やまとのあたい)吾子籠(あごこ)を罰し、天皇を救った者など、蘇我満智(そがのまち)、物部(もののべの)伊莒弗(いこふの)、平群(へぐりの)木菟(つくの)、円(つぶらの)大使主(おおみ)ら四人を国政に参画させた。仁徳天皇の没後、後継を廻り兄弟同士の後継者争いが次々と表面化していった。

「反正天皇」記紀に父は仁徳天皇、多遅比(たちひの)瑞歯別(みつはわけの)尊(みこと)と称し、母は磐之媛、皇后津野媛(つのひめ)、皇宮丹比(たじひ)柴籬宮(しばがきのみや)。在位五年、四二年、陵墓百舌鳥耳原(もずのみみはらの)北陵(みささぎ)(堺市北三国ヶ丘)。
説話には、名前にあるように多遅比(たちひ)瑞歯別尊に入れられる。「歯」が生まれたとき既に生えていて長さ一寸、幅二分、上下が整い、身長が九尺二寸半、淡路島で誕生し宮都は丹比柴籬宮(しばがきのみや)とされ、葛城一族の影響が多かったと見られる。反正天皇に関しては記述、資料が少なく実在性の薄い天皇とされている。

「充恭天皇」雄朝津間(おあさづま)稚子宿禰(わくこのすくね)尊。父は仁徳天皇、母は磐之媛、皇后忍坂(おしさか)大中姫(おおなかつひめ)、在位四二年間、皇居遠飛鳥宮(とおつあすかのみゃ)、陵墓恵我(えがの)長野原(ながのはらの)北陵(大阪府藤井寺市国府)。
葛城地方の影響のあった天皇で、病弱のため、皇位の継承を固辞していた。後継の皇子中でも評判は芳しくなかったようだが、在位四二年間の政治の手腕は評価され、治世の事績も氏族の姓の乱れを正すため、甘樫丘(あまかしのおか)に「深湯瓮(くかべ)」を据えて,臣下の名乗る氏姓の真偽を判定した。「盟神深湯(くがたち)」(応神天皇時代に行なわれた)の神判である。
その後の皇位継承で、太子の木梨(きなし)軽皇子(かるのみこ)が決まっていたが,同母兄妹の近親相姦で人心が離れ、弟穴穂皇子(あなほのみこ)が継ぐことになるが、兄の皇子は『記』では伊予に流され、後を追った軽大娘(かるのおおいらつめ)と共に自死したという。
*強大な権力と争いに兄皇子が負けたのであろう。

「安康天皇」『記紀』に、充恭天皇の第二子、穴穂尊(あなほのみこ)、母は忍坂(おしさかの)大中姫命(おおなかひめのみこと)、皇后中蒂姫(なかしひめ)命、没年五六歳、在位四年、皇宮石上(いそのかみ)穴穂宮(あなほのみや)、陵墓菅原(すがわらの)伏見(ふしみ)西陵(奈良市宝来)。石上に宮居を構えた初めての天皇と記され、在位年数は短く、石上周辺の豪族和珥氏と深い関係ではないかと言われている。
天皇が弟の大泊瀬皇子に皇女を世話した際、根使主(ねのおみ)の虚言を信じて大草香(おおくさか)皇子を殺してしまった。その後皇子の妻中蒂姫(なかしひめ)命を皇后にするが、後に皇子の七歳の息子目弱王(まよわのおおきみ)に事実を知られ、天皇が寝ている際、目弱王に殺される。死んだ天皇には世継ぎがなく、その後王権は次々に変わって行く。

「雄略天皇」『記紀』に依れば、充恭天皇の第五子、大泊瀬(おおはっせの)幼武尊(わかたけるのみこと)、母は忍坂大中姫命、皇后は草香(くさかの)幡梭姫(はたひひめ)皇女。没年六十二歳、在位二十四年間、泊瀬(はっせの)朝倉(あさくら)宮、陵墓丹比(たじひの)高鷲原(たかわしのはら)宮(大阪府羽曳野市島泉)。『宋書』『梁書』にも倭の五王に最も有力で実在視されている天皇で、周辺国を攻略し勢力拡大した形跡が残されている。国内の説話も多く残されていて、眉輪王(まよわのおおきみ)、葛城円大臣(つぶらのおおおみ)、市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)(仁賢天皇・顕宗の父)、御馬皇子(みまのみこ)らを積極的に粛清し、志貴(しきの)大県主(おほあがたぬし)、吉備上道臣(かみつみちのおみ)、下道臣(しもつみちのおみ)、伊勢朝日郎(あさけのいらつこ)らの反乱謀反を鎮圧したと伝えられる。天皇の資質として「名君」「暴君」の両面を兼ね備えていた。
説話には引田部赤猪子の若い頃に美しい乙女に何時か宮廷に召抱える約束を八十年後、老いた老婆となって天皇に会う話や、葛城山で一言主神と出合った話など記されている。

「清寧天皇」父、雄略天皇、白髪武広国(しらかのたけひろくに)押稚(おしわか)日本根子尊(やまとねこのみこと)、母は葛城韓姫(かつらぎのからひめ)、没年四十一歳、在位五年、皇宮磐余(いはれの)甕栗宮(みかくりのみや)、陵墓河内坂門原陵(大阪府羽曳野市西浦)『古事記』に依れば雄略天皇の皇子の白髪(しらにの)大倭根子(おほやまとねこの)は磐余の甕栗宮で天下を統治された。
この天皇には皇后がなく、皇子も生まれなかった。説話には生まれながらに「白髪」であったと言う。母は葛城円大使王で娘韓媛(からひめ)を雄略天皇が暴力的に、無理やり入廷させて生ませた皇子と言われた。その後の皇位継承で問題を起こす元となった。

*大和盆地の巻向付近には、崇神王朝(三輪王朝)の王権交替説が強く残されているが、それは今までの万世一系の論理を覆す説である。
その推論に従えば、応神天皇(河内王朝)以後、河内を中心に治水、土木工事がなど盛んに行われたと『記紀』にも述べられているが、河内に実在するあの巨大古墳群、羽曳野、古市の応神天皇陵と、堺の仁徳天皇陵と指定される大仙古墳遺跡については、その巨大古墳造営の記述が全く見出せない。
また天皇の妃の記録として、各地の豪族の女性についても『記紀』に記される他、大陸との交流、新羅、百済、高麗の朝貢の様子も記されている。さらに国内に様子については、蝦夷の反乱を窺わせる記述も掲載されている。
前述の通り、仁徳天皇の没後を境にして、皇位継承を廻り、兄弟同士の争いが熾烈に繰り広げられたと考えられるが、このような争いから、二十五代武烈天皇を河内王朝の最後として、応神天皇五代の末裔とされる継体天皇に皇位を簒奪されるという、王権の交替があったのではないだろうか。そして、この継体王朝になったため、多くの人力を総動員させた河内王朝のシンボルともいうべき、巨大古墳造営の記述が抹殺されたのではないだろうか。多くの謎を残す古墳群である。





17代
履中天皇(339~405)            飯豊青皇女

15代     16代    18代               24代
応神天皇(200~310)   仁徳天皇(290~399)   反正天皇(352~410)   市辺押磐皇子    仁賢天皇(449~498) 

25代
23代      武烈天皇(489~506)
顕宗天皇(450~486)
20代
安康天皇(401~456)          皇女  皇女(手白香皇女=武烈天皇の妹)
19代
充恭天皇(374~453)
21代
雄略天皇(418~479)   清寧天皇(444~484)
26代
吉野毛二俣・大郎子・乎非王・汗非王        継体天皇(450~531)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿