稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(10)

2022年03月07日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(1)
天海と三浦氏の名刀・海老鎖切(えびじょうきり)

江戸崎不動院に入寺以前、天海は「随風(ずいふう)」
と名乗り、会津黒川城内の稲荷堂の別当をしていました。

天海は、元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ち
の後、甲斐の武田信玄の元に身を寄せたと伝えられ、
会津出身の優秀な僧侶が甲斐国にいると聞きつけた、
会津黒川城主の芦名盛氏に招かれたといわれています。

その後の天海の動向を伝える記録として、宮本茶村が
編纂した『安得虎子』という書物に「会津旧伝」(№36)
があり、そこに、天正17年(1589)6月5日に芦名義広と
伊達政宗が摺上原で戦い、芦名方が破れ、黒川へ退き、
義広の実家の佐竹氏の元へ落ちて行ったことが記され
ています。

更に、「会津旧伝」の頭註に、「天海僧正伝」には、
天海(随風)が三浦介時継が佩用した太刀を帯び、
伊達方の追撃の兵を一喝してこれを退かせた!

という記述も紹介されています。

「大僧正天海書状」『三浦文書』影写本(№40)
には、天海が先祖と仰ぐ三浦氏伝来の宝刀五腰の内、
自らが所有する「海老鎖切(えびじょうきり)」
同じ三浦氏の血を引き、紀州藩家老の三浦将監為時に
譲る
とした文書も伝えられています。



天海は、仏教のあらゆる教義や思想、修法に通じていた
と伝えられることから、修験者のように刀を帯びる
こともあったのかもしれませんね。

そして、身に帯びるは、先祖伝来の宝刀…

そして、それは「天海」の出自が三浦氏を祖と仰ぐ、
芦名氏の一族だった
ことから、
天海のアイデンティティーを示す、とても大切なものだったのです。

天海が愛蔵した「伝家の宝刀」、どのようなものだった
か、大変気になりますね!
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