稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

市内文化財巡りをしませんか!

2012年11月29日 | 日記


稲敷市内には多くの指定文化財があります。

指定文化財には建造物や彫刻、工芸品などいろいろありますが、
今回資料館では、国の文化財として指定・登録されている建造物
3件を見学に行きます。

実際に建物を訪れ、稲敷市郷土資料調査委員さんの説明を聞いて、
地域の歴史や文化に触れてみませんか!

まだ見たことのない方、ぜひご参加ください。







開催日時:12月15日(土) 午前9時30分出発~午後4時着予定

集合場所:歴史民俗資料館

内  容:横利根閘門 → 大日苑 → 平井家

定  員:15名

参 加 費:無 料 ※ 昼食代は各自払いでお願いします。

対  象:稲敷市在住者または在勤者

申 込 み:直接来館もしくは電話でお申し込みください。

稲敷市立歴史民俗資料館
      ℡0299-79-3211
    
※詳細につきましては、後日申込者にご連絡いたします。

江戸崎・管天寺の調査しました!

2012年11月18日 | 日記

11月18日(日)。

この日は、東京で今年最初の木枯らしが吹いた日でした。
ちょっと風がありましたが、資料館の寺院調査は元気に
「決行」です!

さて、この日は江戸崎・門前の管天寺の調査です。



管天寺は、江戸崎城を居城としていた土岐原氏が菩提寺として
開いたという曹洞宗のお寺です。



ですから、境内には江戸崎・土岐氏の墓所という一角があります。
この日も墓石の前には生花が献花されており、遠く天正の
頃にこの地域一帯に勢力をもっていた土岐氏の菩提が
守られていることに心がほっとするのを覚えます。

江戸崎・土岐氏は、当初土岐原氏と名乗っていたのですが、
後に美濃国の本家より惣領の地位を引き継いで
土岐氏を名乗ります。

この江戸崎・土岐氏の勢力拡大に伴い、管天寺も室町時代
後半くらいから寺院として大きく発展していったものと
考えられています。

しかし、天正18年(1590)に江戸崎城が芦名盛重の配下の武将・
神野覚助に攻められて落城した際、管天寺も焼失したと
伝えられています。

天正頃の管天寺は、現在の江戸崎・鹿島神社の辺りに寺門
を構えていたそうですから、戦火から逃れることはできな
かったようです。

また、その後も文化6年(1809)に江戸崎村中の600軒を焼失
した大火事、通称「大仏火事」において管天寺は再度焼失して
しまったそうです。

このように幾度かの火災に遭いながらも、その度に再建され、
現在まで法灯を守り通すには、様々な人々の努力と
地域の人々の気持ちが一つに集約された結果なのでは…
と思われます。

管天寺は稲敷地域の曹洞宗のお寺の中で、「別格寺」の扱いを
受けている特別なお寺となっています。

けれども天正頃の江戸崎城落城と管天寺焼失、
その後の再建までの経緯など…

江戸崎・土岐氏滅亡と芦名盛重の江戸崎入部と、その後の
江戸崎城下再建についてなど、大変興味深いことがらについて、
まだ分からないことも多いのです…。

この日は、古文書の調査と土岐氏の墓石の調査を行いました。





木枯らし1号の吹く寒い中、調査された郷土資料調査委員の方々
お疲れ様でした!


江戸崎地区に関しては、発見されている地方文書が少ないという
ことが、歴史の調査を難しくしているという側面もあります。

もし、古文書等の所在をご存じの方がおられましたら
是非、資料館までご一報願います!

『昔の道具』学習のシーズンです

2012年11月17日 | 日記

11月15日、柴崎小学校4年の皆さんが見学に来られました。
今年も『昔の道具』を勉強するシーズンです。

常設資料の他に、臨時で『昔~少し昔』の道具を
展示してお出迎えしました。

大抵は、私たちの今の暮らしに繋がる少し昔(昭和)の
暮らしの道具を見学されるのですが、今回は欲張りなことに
『すごく昔』の道具も説明をご希望でしたので、
第1展示室の考古資料からご案内です。

石や骨でできた道具から、ほんの少し昔まで使われていた
今とは少し違う道具まで、色々見てもらいましたが、
楽しく勉強できたでしょうか?


見学者の皆さん、好奇心も学習意欲も旺盛で、あまりに質問が多すぎて、
予定の時間内ではちゃんと答えられないこともあったかと思います。

今度はお休みの日にお家の人やお友達などと一緒に見学に
来てくだされば、ゆっくりと説明させていただきたいと思います。

資料館では、皆さまのご来館をお待ちしております。

神屋遺跡の発掘現場を見学して来ました!

2012年11月16日 | 日記

11月16日(金)。

この日は、今現在、急ピッチで進む圏央道の建設工事に
関連して発掘調査がおこなわれている、稲敷市清水の
「神屋遺跡」の発掘現場を、稲敷市文化財保護審議会の
研修会といたしまして、見学させていただきました。



神屋遺跡の調査は、今年の4月からはじめられました。
調査は、茨城県教育財団が担当しています。

この日は、神屋遺跡の調査主任Sさんに、遺跡を案内していただき、
遺物の内容などを説明していただきました。



神屋遺跡の面積は、8,333㎡で、その南側の崖下には
神屋南遺跡があり、そちらの面積は1,492㎡です。

調査員さんは2名で担当していて、作業員さんは40名弱
ほどだということでした。



雨が降ったり、色々な諸条件で調査ができなかったりと、
発掘調査の進行管理は、とても大変です!

遺跡の発掘調査は、圏央道にかかる部分だけを調査します。
ですから限られた条件の中、限られた区域の調査の中から、
その地域の歴史や文化の特色を考えよう、というちょっと
難しい手続きをすることになります。

神屋遺跡では、古墳時代から近世までの遺物が確認されて
いるそうで、竪穴住居跡が110軒、掘立柱建物跡が8軒、
大型円形土坑が3基、土坑に至っては450基ほど確認
されているそうです。



この神屋遺跡、よほど生活するのに便利な場所だったのか、
一つの竪穴住居が使われなくなった後、ほぼ同じような
場所に重複して建てられているのが、いくつも重なって
います。



調査主任さんの言葉をお借りしますと…
「足の踏み場もないくらい…」
竪穴住居跡や土坑などがアチコチに見られ、重なっています。



大型円形土坑からは、大きな須恵器の甕と一緒に黒く炭化
したお米が出土しているとのことでした。時代は平安時代
くらい。大きな穴と、大きな須恵器の甕、そしてお米…。
何やら面白くなりそうですね!



また、土器の他に鉄器なども出土していましたよ!

神屋遺跡の現地説明会は、来年、平成25年の3月頃予定
とのことなので、みなさん楽しみにお待ちくださいね!


最後のおまけに、現在の圏央道の工事の様子をちょっとだけ!



江戸崎・不動院の調査をしました!

2012年11月04日 | 日記

11月4日。

文化の日の翌日のこの日、江戸崎の不動院の調査をおこないました。


この日のお天気は、秋晴れの快晴でした!


調査は、仏像と文書資料とです。


木造地蔵菩薩立像を撮影しているところです。
今シーズンから導入したポータブル撮影台とLEDライトセットが威力を発揮します!
これがあるのとないのとでは、大違いなのです!!

今回、調査する仏像が多いのですが、現状の記録をきちんと残すため
可能な限り1点1点の仏像を撮影します。

これは先日の文化庁での研修でも言われていたのですが、仏像などが盗難に遭った場合、
写真も記録画も無く、それがどんな仏像だったのか、所有者も誰も分からない、
といった事態を避ける効果もあります。

ですから、大きな御像などは、正面、右、左、背面と4カット、坐像の場合には
像底を含めて5カットは撮影します。それ以外、特徴的な彩色や優れた技巧、
時代的特徴、制作集団の特徴などなど、必要な部分があれば撮影します。


仏像には、納入品といって胎内や御厨子の中に、お経や古銭、書付などを一緒に
入れることがあります。それらもちゃんと記録します。

↓江戸崎の不動院と言えばこの人!!
↓誰だかわかりますか?


そうです、このお方こそ戦国時代の終わり頃、江戸崎不動院の住職を兼務していた

随風(ずいふう)さんなんです!

え!え?随風さんって誰ですかって?

この随風さん、実はいくつかお名前をお持ちのようで、
南光坊(なんこうぼう)とか、慈眼大師(じがんだいし)とか。
後の世の人からは、「黒衣の宰相」なんてニックネームまでもらっちゃってマス!

しかして、その実体は…
徳川家康、秀忠、家光三代のブレーンとして、宗教的、マジカルな面から江戸幕府
260余年の礎を築いたとも言われる…

天海大僧上(てんかい・だいそうじょう)、その人です!!!

天海さんは、寛永20年(1643)に、108歳で亡くなったということですから、
とても長生きされた方のようです。

徳川家康が、慶長8年(1603)年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いたことは
日本史で習いますよね?

でも、この慶長という年号の頃は、本当にまだ戦国時代の真っただ中のような
荒々しい時代だったらしく、日本刀には「慶長新刀」という時代区分があるくらい
なのです。

しかし、世の中の統治者としては、それでは困りますよね。

荒ぶる戦国武将や浪人たちを鎮撫しつつ、都市整備や社会秩序を整えて、
平和な世の中を作らなければなりません。

天海さんは徳川三代に仕え、そういった戦国時代から江戸時代への橋渡しの
お手伝いをおこなっていったようです。

その象徴的な事績として、寛永2年(1625)、三代将軍家光の頃、上野の地に
天台宗のお寺、東叡山寛永寺を建立しました。

これは京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺に対し、江戸城の鬼門を守る東の叡山
としての意味をこめたものだそうです。

江戸時代、関東の天台宗においては、東叡山寛永寺を本山とする中央集権化
がすすみます。

そして、江戸崎田宿の不動院や小野の逢善寺などの関東壇林で修業した僧を
東叡山学寮に入学させ、その中の優秀な学僧が東叡山の指示にしたがって
地方の大きなお寺に入るというのが一般的になります。


そのオオモトを作った天海さんって、なんかスゴイ人って思いますよね?


※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米※米


この日は、もう一グループが同じ不動院で、古文書の調査をおこないました。

今年、95歳になられたご住職も、まだまだお元気で興味深そうに調査風景を
覗いておられました。

これからも稲敷の寺院調査は続きますので、宜しくお願いしたいと思います。