稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(4)

2022年02月18日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(4)

前回は、不動院と慈覚大師円仁のゆかりが、室町時代の
天文年間にさかのぼるかもしれない、というお話でした。

今回は、不動院の境内のお話です。

現在の不動院は、江戸崎商店街の並びから少し上がった
仁王門と、伊勢台と呼ばれる小高い台地の中腹に位置する
不動堂や客殿などがある境内からなります。

しかし、これは明治時代の上知令とその後の一山焼失の
後の姿なのです。

江戸時代までの不動院の境内は、現在の江戸崎中学校の
敷地とその周辺一帯という広大なものでした。(№26)

伊勢台と呼ばれる台地には、江戸時代には伊勢の神を祀
る神明神社があり、地域の人々の信仰が寄せられていま
したが、こういった信仰がどこまでさかのぼるのか、
現在では詳しく分かりません。

ただ寛文元年(1661)ないし同4年(1664)正月に
不動院15世信解院行海が霊告により、不動堂前北東の隅
より、小さなお不動さんの朽損仏を発掘したというのです。

行海は、このお像を肌身離さず持っていましたが、残念なが
ら失われてしまったので、新たに2尺(約60㎝)ほどの
不動明王を作り、本尊のお前立としたといいます。

この再興されたお像は、「不動明王立像(大聖不動尊)」(№72)
と考えられています。その光背に朱文字でことの顛末が
記され、また『常州江戸崎不動院記』の「前立不動尊由緒」
には、このことについて記されています。


ここから察するに、不動院の旧境内地からは不動明王と
された朽損仏が出土し、より古い時代の寺院や神社など
宗教施設の痕跡があったのではないか、と推測されるの
です。

残念なことに、不動院の旧境内地は、昭和26年(1951)
に江戸崎中学校建設のため大規模な造成がなされ、伊勢台
が有していたであろう地域の古い信仰の痕跡は、
失われてしまいました…。

今後、何かの形で、伊勢台や不動院の古い時代の様子が
明らかになることを望みます。



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特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(3)

2022年02月18日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(3)

前回は、江戸崎不動院のご本尊、不動明王が無動寺相応や
慈覚大師円仁とのゆかりのある仏像と考えられてきたこと
に触れました。

不動院は、何度も火災に遭っているようで、江戸時代より
も古い古文書が残っていません。ですから、相応や円仁と
のゆかりについても江戸時代の記録に頼っているのですが…

室町時代の天文24年(1555)に不動院は、絹衣相論
(№30、31、32、33、34)について、本山である比叡山
延暦寺に訴え出ています。


この時、不動院の代理として京都の真言宗寺院に書簡を送
ったり、朝廷に訴状を送ったりしたのが「月蔵坊」と呼ば
れる比叡山東塔東谷の坊院の一つです。

この月蔵坊、比叡山の中でも歴史と格式を備えた坊院だった
ようで、円仁が住んだとも伝えられ、東塔東谷には、円仁
の墓所があるそうです。

天文12年(1543)8月25日、山寺立石寺(山形県山形市)
は、比叡山延暦寺根本中堂の不滅の法灯を分灯し、持ち帰って
いますが、比叡山とのパイプ役となり、指南などしたのが、
この月蔵坊で、立石寺とは円仁を紐帯とする結びつきにより、
このような役を担ったと考えられています。

このように考えますと、江戸崎不動院が「絹衣相論」の訴え
を起こした時、何の縁もゆかりもない月蔵坊が動く、という
ことが考えにくいと思われるのです。

そして、江戸崎不動院も山寺立石寺のように、共に円仁の
ゆかりをもち、歴史と格式のある寺院だった、と推測される
のですが…。

ひょっとすると、江戸崎不動院の慈覚大師円仁とのゆかりは、
室町時代の天文年間にはそのような伝えがきちんと整えられて
知られていたのかもしれません。

先述の通り、不動院は火災で古い記録が失われていますから、
今後、他の場所で新たな史料の発見が望まれますね。

参考文献 山口博之著『山寺立石寺 霊場の歴史と信仰』




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特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(2)

2022年02月18日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(2)

前回は、江戸崎不動院が文明2年(1470)に比叡山
無動寺の、幸誉法印権大僧都を開山として創建されまし
たが、その当時のご開基さまがわからない、というお話
をしました。

実際に文明年間のそてれが不動院の草創なのか、中興
開山なのか、決め手となる文書資料や出土遺物が無い
ため、はっきりしたことは分かりません。

前回紹介しました、「医王山過去帳」(№2)や『不動院
記録』に収録された「先師代々位牌写」№3)には、幸誉
法印が護持してきた不動明王についての説明がありますの
で、今回はその由来について触れたいと思います。

(№2)も(№3)も、不動院開山僧幸誉が持参したのは、
無動寺開山僧・相応作の不動明王と記しています。

そして、弘化4年(1847)の『不動堂石坂鋪石勧化記』
(№5)や明治17年(1884)『不動堂再建募縁記』
(№6)には、本尊の不動明王が慈覚大師円仁親刻の尊像
と記されています。


比叡山無動寺といいますと、千日回峰行の荒行で知られて
いますが、その本尊が相応作の不動明王です。
また、慈覚大師円仁は、日本天台宗を起こした最澄の高弟
で、比叡山延暦寺を本寺とする山門派の祖となった人物です。

このように不動院の本尊である不動明王は、相応和尚や円仁
とのゆかりを持つものと考えられてきたようで、比叡山、つ
まり山門派の霊験あらたかな不動明王として信仰されてきました。

(№5)では、慈覚大師円仁の親刻、無動寺相応和尚所持と
していますが、この説明ですと両者とのゆかりが説明できそう
ですね。

ただし、現在の不動院のご本尊さま(№1)は、鎌倉時代の作と
されていますので、相応和尚や円仁とは時代が異なるようです。


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