稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(5)

2022年02月24日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(5)

前回は、不動院の元々の境内地が現在の江戸崎中学校の
敷地とその周辺一帯が含まれていたこと、伊勢台には
地域の信仰が寄せられ、それが何時までさかのぼるか、
現時点では不明であることなどをご紹介いたしました。

今回は、不動院の開山僧の幸誉法印の出身寺院である
比叡山無動寺と霞ヶ浦沿岸の寺院の関係について触れ
たいと思います。

実は不動院と同じように、比叡山無動寺の僧が(中興)
開山となっているお寺が、茨城県内にもう一つあります。

それは…尸羅度山西蓮寺(しらどさんさいれんじ)
(行方市)です!


西蓮寺は、鎌倉時代の弘安年間に、無動寺の慶弁が再興
したと伝えられ、境内には、弘安の役の戦没者を追悼す
るため巨大な「相輪橖」(そうりんとう)が建立されて
います。この相輪橖は、国の重要文化財です。


江戸崎不動院が、室町時代の文明年間ですから、鎌倉時代
に無動寺の僧が入寺した西蓮寺は、より古い時代に開かれ
たお寺だったと考えられます。

地元の方なら、不動院と西蓮寺は、霞ヶ浦(当時は香取海
と呼ばれる流海)の南西と北東の対岸とピン!とくるかも
しれませんね。

これらの場所は、江戸時代の霞ヶ浦48津の南北津頭の
置かれた近隣にあります。

今回、不動院と西蓮寺の歴代住職の記録をよく調べてみ
たところ、一組の師弟関係を新たに発見しました。

不動院5世の静久と西連寺17世の静海です。
不動院の記録では、静久は不動院住職を勤めた後、支院
の一つに江竜院に隠居し、そこで亡くなったことになっ
ていますが、西蓮寺の記録では、西蓮寺20世を次第して
いるのです。

この他にも、静海が三井寺で書写した写本を、静久が
筆写し、その本が叡山文庫に残されていることが分かっ
ており、静海と静久が師弟だったことは、ほぼ間違いあ
りません。

実は、西蓮寺は「杉生流」と呼ばれる天台教学が古くか
ら伝えられた学問所だったと考えられています。
そして杉生流は別名を「無動寺流」ともいいますので、
無動寺の慶弁が西蓮寺に入寺していることからも、
肯定できるかと思います。

そして西蓮寺は、杉生流の学問所として鎌倉時代以降、
現在の霞ヶ浦沿岸地域で中心的な役割を担ったと思われます。

現在の稲敷市内でも、阿波・安穏寺が本尊の銘文から
南北朝期の貞治6年(1367)までには西蓮寺の教化を受けて
いたと推測され、小野逢善寺8世弘尊も師匠である
安穏寺亮栄の教化を通じて、その法流を受けていました。

このようにして見ると、出沼西蓮寺が稲敷地域に与えた
影響は、大変大きなものだった、と言えるのではない
でしょうか。


西蓮寺の院号、「曼殊院」は京都にある門跡寺院の名を下賜
されたと伝えられています。このようなことからも、
西蓮寺の寺史は注目されています。