ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

記憶そうしつ

2011-03-05 | 心理

 10年前、自分は大学の研究者でした。形態形成と言って、「どうして指は5本なのか」「どうして親指から小指という指の並びができるのか」「どうして手足の甲と手のひら足の裏の違いができるのか」というのを、様々な突然変異のハツカネズミを使って、遺伝子の発現を調べていました。当時外国の人も含めて、5つか6つの共同研究を抱えていたと思います。思います、というのは、そのすべての記憶がないからです。私は大学を突然辞めましたが、極限に追いつめられてボキッと折れるように辞めて、その時とその前何年分かの記憶のほとんどがないのです。

 一昨日、10年前に共同研究をしていたという外国の研究者がメールを送ってくれました。今になって共同研究の論文が出版されそうだという連絡でした。ところが、私は全然わからないのです。メールにあった教授の名前を見たとたん、「あっ、この名前知ってる!ものすごくよく知ってる!私はかつてこの名前に、ものすごくたくさんメールか手紙を書いた!」というのが甦り、自分がその名前宛にパソコンで何かわくわくしながら打っている・・という短いフラッシュが頭の中を駆け巡るのですが、思い出せないのです。その人が誰なのか、どうして自分がその人を知っているのか。

 論文の中には自分が送ったデータや写真が含まれています。が、それも思い出せない。確かに私が当時使っていたフォントで、確かに私の作ったものだとわかるのですが、他人のもののような、知らない自分を見るような不思議な気持ちです。

 論文を読むのはもっと大変です。「ものすごくよく知っている!」はずなのに、初めて見るような単語ばかり。おそらく自分が書いて送った文章をそのまま使ってくれたと思える英文さえ、他人のものを読むような感覚です。それは自分のデータだと「わかる」のにです。そのため読むのもたどたどしく、ものすごく時間がかかります。

 よくドラマなんかで、記憶を失った人が思い出そうとして頭を抱えて悶絶したり、「痛い痛い痛い!」と叫んだりするじゃないですか。本当に痛いのです。思い出そうと頭を振り絞るほど、本当に頭の上の方が痛いのです。論文を読みながら、思い出したいと思えば思うほど、頭を抱えて悶絶します。

 そのうちに、なんだか涙が出てきました。当時、私は自分が研究者で一生を終えるのだと信じて疑いませんでした。研究仲間もたくさんいた、ということも頭ではわかります(色々な顔や断片的な場面がたくさんフラッシュします) その人たちやその世界がたくさんあったのに、毎日全エネルギーかけて研究をやっていたのに、それらをまるきり失って思い出せないなんて。

 よく認知症が進行しつつある人が、目の前にいる奥さんや旦那さんを「この人を自分はよく知っているのに、誰なのか思い出せない」と言って悔し泣きするじゃないですか。その気持ちです。

 ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」という本の中で、無理な手術で天才になった主人公が、再び知能が落ちて行く過程で、昨日まで当たり前のように解けた数式が、今日は解けない、ということに愕然とするシーンがありますが、まさにその「愕然」の心境です。

 そして、これが、自分が今生き延びているということなんだなあと思いました。
 当時、私はだんだん追いつめられて、自殺というより、自分を殺したい、という衝動が激しくなってきて、「このままでは自分を殺してしまう」と自分で精神科へ行ったくらいです。それで、最終的に大学も辞め研究者も辞め総てをカットアウトするというやり方で乗り越えたのですね。それまでやってきたことも、それまでの人間関係も、全部断絶して、身一つの頼りない状態でポーンとアンダーグラウンドに放り出された時、それでも身一つが残った分だけ、死んじゃうよりはずっとマシじゃないかと思いましたが(死んでしまったら、身一つさえも残らないわけで)、記憶を失うことも、潜在意識が選択した解決手段の一つだったというわけです。

 それでも45ページもある英語の論文を読んでいるうちに、途中から読むスピードがアップしました。というのを自分で感じながら、読むことで、個々の単語の意味とか、それらを研究していた人たちのこととか、ちょっと甦ってきたのではないかと思いました。
 記憶はまだ頭の中にあるけれど、出力に失敗しているだけなのか。
 それとも、当時は極限の精神状態で過ごしていたため、記憶の入力に失敗しているのか。

 現在は、ストレス度チェックで結果が「4」ていう心理状態なんですけどね、100のうちの・・・・。(自分で笑ってしまった(笑))
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