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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

人の時間と神の時間

2008-11-09 | 写真
27年ぶりに奉納されたいしゃなぎら結願祭 石垣島石垣字宮鳥御嶽


 視点を変えないといけない、というのを、八重山の方に行く度に痛感します。北海道だの本州だの本土から南の島の人々の暮らしを見ても、あくまで外から眺めているだけであて、実際に現地にいかないとわからないことがありすぎるのです。

 ひとつは、私なんかは船も持っていなければ、たいして泳げないので、「陸の上からの視点」でしかものを見られないのですが、八重山に行ったら、そんな陸視点なんかぶっ壊されます。私たちが自動車に乗るように、船に乗って海に出てみれば、海の上にも陸と同じように道があって崖があって迂回路があってお花畑があって・・・・・陸しか見えてない時には水のない小さい島に閉じ込められていたら住みにくいだろうなあ~としか見えなくても、一旦海に出て陸の方を見てみれば、そっちには水のないマラリアのない住みやすい島があり、あっちには水と木のある水田や船を作れる島があり・・・と世界は広がっていくのです。陸地の中心から陸地の広がりだけを眺めるのではなく、海を中心にして陸地の岸だの浜などを眺めることの大切さを痛感します。

 今回もうひとつ「あ~~」と思ったことがありました。
 私たちは沖縄久高島のイザイホーという有名なお祭りが12年ごとにしか行われないことに驚き、貴重さを感じ、12年後というスパンはお祭りを伝える人や演じられる人がいなくなってしまうのではないかと、ものすごく危惧しているのですが(実際1978年を最後にいまだに行われていない・・・・)、12年、いやそれ以上のスパンで行われているお祭りは、八重山に来たらそんなに珍しくありませんでした・・・・(汗)
 石垣市登野城の結願祭は寅年に行うので、再来年に12年ぶり開催です。私が今回見た石垣字のいしゃなぎら結願祭は27年ぶりでした。今後は12年ごとの開催を目指すそうです。他にもどこだったか、12年ぶりときいた記憶が・・・。八重山では十二支が暦で非常に重要なので、その一めぐりである12年で、神様への奉納の時が巡ってくるのです。
 そもそも石垣字ではなんで27年ぶりだったかというと、本来結願祭というのは、様々な願掛けについて願が叶ったことを神様に報告・御礼をし、また次の年からの願を叶えてくれることをお願いする行事です。それまでは、お宮を建て替えたり、何か作ったりなど、特別なことがあった時だけやっていた。昭和56年にお祭りをして以来、特別なことがなかったのでそのままになっていた。今年急に、もう27年になるのでやっては?という話が起こり、今回の実現に至ったのだそうです。

 私たちは12年なんて言ったら、次はもう生きてないかもしれないし、記憶も薄れて次の世代に伝えられないかもしれないし、と焦ってしまいますが、それはあくまで「人の時間」であって、「神様の時間」で生きている人々にとっては、少しも珍しい時間ではないのでした。八重山の人々とて、12年きっちり行事やお祈りを保ち続けるのは並みのことではないと思います。それでも、人の時間から離れて、神様の時間を中心に考えたら、12年なんてゆるいゆるい、12年でハクハクしてしまう人間なんてちっちゃいものなのです。

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オホホ登場!

2008-11-08 | 写真
オホホホホホ! オホホホホホホホホ!


 西表島の干立(星立)の節祭り(シチ)には、「オホホ」という仮面神(・・神なのか?)が登場して大人気です。八重山のほとんどの村では「ミリク」という豊穣と子孫繁栄をもたらす仮面神が大事に崇められているのですが、そのミリクの行列に乱入する形でオホホが現れます。

 ミリクは”弥勒”であって、「弥勒が布袋和尚としてこの世に生れ出でてきた!」という弥勒信仰がベトナムから伝来したものと言われています。確かに白塗りの巨大なホテイさんのお面に黄色い高貴な法衣といういでたちなのですが、八重山では島によっては女の神様で(その男顔で!)、旦那までいて(!)、たくさんの子供たちを連れて、海の彼方から豊作豊穣を連れてやってくる神様という、本来の仏教とは似ても似つかぬものになっているのです。初めてミリクを見た時は、外来の宗教を取り込んでさらに変形させてしまう八重山の底力に怖ささえ感じたものです。

 一方オホホは、まっしろなお顔に尖った高い鼻、腰には煙草入れを下げて、なぜかブーツ履き(!?) いきなりお腹の辺りから札束を取り出して、ミリクと子供たちや観客の女性にさかんにちょっかいを出します。背負った風呂敷包みの中身もぎっしり札束。オホホはお金で女性や子供たちを連れていこうとするが、誰もついていかない、ということになっています。お金の力では、豊穣も子孫繁栄も得られないという教訓だそうです。

 ・・・・・がっ、オホホ人気は予想を上回っていました。
 ミリクよりも大人気!?(あわわ!)
 札束を振りながら踊って、踊って、まるでオホホオンステージです! 飛び出してきて一緒に踊るおばあちゃん。最後にオホホがダトゥーリッターという道化役の女性二人に連れられて退場した時は、ついに拉致される女性が現れたか!?と焦ってしまいました。子供たちも争うように札束を拾っ・・・・・(こら!!) オホホ目当ての観光客の方も多かったのではないかと思われます。


すいません遊んでみました(汗) 実際にオホホが喋るわけではないです


 煙草入れやブーツなどの衣装や、裏声で「オホホホホホホ」しか言わないのは言葉が通じないからだということになっていて、オホホは異国から船でやってきたオランダ人、というのが定説になりつつあります。というのは、1600年頃に確かにオランダ人が漂着した記録があり、同じ漂着船かどうか私はわかりませんが、オランダ人が村の娘を拉致したという話が残っています。また、当時はいろいろな異国船が東シナ海を行き交っていて、「ウランダピトゥ(オランダ人)」というのは異国人の総称であったともいいます。新城島の文献を読んでいたら、そちらにもオランダ船漂着の記録(村人が助けて、役人が連れていったそう)があったので、同じ漂着のことがいろんな島に伝説になって伝わっているのか、異国人の漂着が何度もあったのかわかりませんが、外国人が来ていたことは事実のようです。

 お隣の祖納の節祭り(シチ)にはオホホは登場せず、かわりに頭からすっぽりと黒い布をかぶった女性が出てきて歌うアンガー行列があり、さらに船でないと行けない(陸路のない)船浮にはもっと面白い伝説が残っていました。船浮の節祭り(シチ)では、3人の女性が一緒に1枚の黒い布を頭からすっぽりと被って登場するのだそうです。
 むかしむかし、オランダ人が漂着した時、3姉妹の二女がオランダ人の一人と恋仲になった。しかし両親や村人がその恋を許すはずもなく、姉と末の妹は中の妹をオランダ船に送り届けようと、闇夜に3人で黒い布を被って浜へ走った。黒い布を被るのは、夜の闇に隠れるためだけでなく、中の妹を異国にやったらもう二度と会えない、死出の旅立ちを見送る弔装束の意味もある(船浮観光・船浮資料館/池田克史さんのお話)
 ・・・のだそうです。

 村ごとに違う形で伝わっている(でも必ず節祭りの時に登場する)のも面白いのですが、もうひとつ凄いなあと思ったのは、皆さん必ず自分の村の節祭りに出るので(前のブログで書いたように、コミュニティ内のつながりはとても大事にされていて、非常に厳しい)、同じ日に行われる他の村の節祭りのことを一度も見たことがないのだそうです。(秋田県男鹿のナマハゲでも同じことを言っていました) 今でこそ、文献や映像で他の村が何をやっているのか見ることができるけれども、それ以前は、自分の村の行事しか知らない、そんな中で何百年も伝えられて、村ごとの独特の形式が出来上がっているのでした。



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八重山から帰ってきました

2008-11-07 | 写真
西表島干立の節(シチ)祭  八重山はこの時期がお正月です


 長いことブログを放置してしまいましたが、八重山諸島から帰ってきました。西表島、石垣島、宮古島、小浜島、新城島に行ってきました。11月に入っても沖縄方面は軒並み30度以上、北海道は場所によってマイナス5度前後。向こうでは暑くて暑くて死にそうで、毎日洗濯しないと汗だくで着る服がなくて、セミが鳴きしきっていて、蚊に刺されだらけの日焼けしてまっくろのひどい状態で帰ってきたら、あまりの寒さにふるえ上がりました。

 八重山には毎年行事の撮影に行っていますが、本土での取材ではあまり感じない疲れを感じます。それは、ただ村の中にいるだけでも、他人の庭に入り込んでいるような、すごく個人的な親類行事に親類じゃない人間が紛れ込んでしまったような、所在ない感覚がどうしてもつきまとうのです。実際に、八重山方面にはいまだに外部の人間は見てはいけない強烈なタブーを伴うお祭りがたくさんあります。それは外部の人にとってはかえって神秘性を増す結果になり、よけいに村外の人や研究者の興味を惹きつけてしまうことになるのですが。
 私は宮古島で、村の人さえ絶対に見てはいけない行事の話をきいて、村の人さえ見られないんじゃあ~と妙に納得しました。村での日々の(・・というより爺さま親から代々の)生活の中で築き上げた先輩後輩の上下関係の中で厳しく選ばれた人しか参加できない行事もあります。
 ただ単に観光客を締め出して内輪なことをやっているんじゃなくて、それぞれのお祭りに村ごとの厳しい意味や戒律があって、厳粛にそれに従っているのであって、それを(観光客であれ取材であれ研究者であれ)外からホイホイ「見せて~」と入り込めるものではないのです。村々が長い歴史の中で生き延びるために築き上げてきた厳しい人間関係や固いコミュニティの形態が見えてくるに従い、単に見ていいか悪いかというレベルを越えて、重々しく身が引き絞られる思いです。
 なので、「見てもいいよ、写真撮ってもいいよ」と言ってもらえる行事であっても、やっぱり余所者の所在なさには変わりないのです。

 時々、祭りなんだからもっと一般にも公開しろ、写真も公開しろ、なんて言う意見を聞くことがありますが、本土の都会が考える自治体としての「村」と違って、八重山の集落は、それ自体が一つの「家族(親類一族)」と考えればわかりやすいんじゃないでしょうか。実際に、今も村人&村出身者全員が親類という所もあります(本土でも、ちょっと田舎の方は今もそうでは?) その親類一族の、お葬式とか、赤ちゃんが生まれる時の儀式とか、年に1回の家族会議やお楽しみ会を、関係ない人間が覗かせてもらっているようなものだと。たとえばそのお葬式の作法がものすごく民俗学的に変わっていて、学術的に貴重だからと言って、ご臨終の人の顔をストロボをたいてパシパシ撮ったり、一々話しかけて質問したりしたら、みんな怒り出すでしょう? それと同じくらい(もしくはそれ以上に)、神様を呼んで神様と対話することは、村の人にとって命に関わる深刻真剣なことで、たとえ「祭り」と名前がついていても、勝手に入り込んだり写真を撮ったりできるものではないのです。


ウガンハーリー 海の向こうから神様のお供をして来ていただきます


 とはいえ、数十年前の文献を見ると、八重山の不思議なお祭りの写真がたくさんたくさん載っています。それが、現在みたいに厳しくなったのは、あんまりにも「余所者」が殺到しすぎたんじゃないかと思うのです。もうお隣は台湾というような、日本の端っこの村でも、文献を調べれば、どこから手をつけていいか眩暈がするくらい出てきます。しかも、計算式の答えや科学実験の結論みたいにスパッと明快に書かれているわけでなく、研究者それぞれが自分なりの「解釈」を論じているので、論文をたくさん読んでもやっぱりわからない。それで、実際に自分の目でお祭りを見よう、ということになるわけですが、見てもやっぱりわからないのですね。人間の心や信仰や無意識の世界観や生活感覚を読み取ろうというわけですから、そう簡単にわかるもんじゃない。それでも、本土の都会ではすでに意味をなさなくなってしまった日本人の日常の中にある様々な習慣や信仰の作法や、無意識に持っている日本人らしさの「もと」のようなものが、八重山の人々の日常の中には見え隠れして、惹かれていってしまうのです。
 かくして、研究者や八重山フリークは繰り返し通い、さらに毎年毎年新しい若いのが湧いては押し掛け、確かにそれは村の人もうんざりするだろうな、と自分のことも含めて思うのです。

 それは、「写真を撮る」自分の立場を厳しく問い直すことでもあります。そんなに人が殺到して、迷惑がられシャットアウトされながらも写真を撮り質問を繰り返してきた場所に、さらに自分が行って取材をする意味は何か。
 行事の記録写真を撮るだけなら、すでに取材され、報告書にまとめられている写真と何も変わらない。
 本や雑誌で見た「すごい写真!」と同じシーンを自分も撮りたいと思うだけなら、それは、有名なシーンを自分のカメラの中にも所持したいという、単なる所有欲でしかない。
 私が求める、人の心とか、人々が神や世界のことをどう捉えているのかとか、信じる人々の前には紛れもなく”実在する”神様の存在感とかを、「撮れたか?」と問われると、「うーん・・」としか答えようのない今回の取材行です。

 



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第7回サライ大賞BOOK部門賞をいただきました

2008-10-18 | 写真
今回自分はカメラを持参しなかったので、送っていただいた写真をありがたく出させていただきます。画面左は童門冬二先生、右は終始ご機嫌だった立川談志師匠、そして、今となっては奇跡としか思えない貴重な写真を多数残された田島謹之助先生です。


 先日14日に受賞式があり、なんと第7回サライ大賞のBOOK部門賞をいただいてきました。
 「知床開拓スピリット」(柏艫舎)は、ただひたすら、人が生きてきたという事実がなかったことにされたくないという一心で書いた本です。生きてきた人たちは自分たちのことを誇りに思ってほしいし、周囲の人たちは、今やお隣のおじいちゃんおばあちゃんとして生きているもと開拓者の方々のことを誇りに思ってほしい、というのがひたすらの願いでした。
 それで、5月には、開拓地で育った2世の皆さんが初めて知床に集結して、これからは毎年同窓会を開くことを決め、9月には今度は行政側(斜里町)が門間家の保存と活用を決定し、開拓の歴史も伝える知床自然センターのツアーも始動し、私の願いは、これ以上望むことはないというくらいぜ~んぶ叶って、すごいすごいと目を丸くしていたら、今度は自分が賞をいただいてしまいました。
 選んで下さった方々にも、まずその以前にこの本の存在に目を止めて下さった方々にも、もと開拓者の方々にも斜里町の方々にも柏艫舎の方々にもいやもういろんな方々にひたすら感謝です。これでもう少し本が広まれば、取材に協力して下さった皆さんへの恩返しになるかしらん?

 東京では、めまぐるしい情報の中心で活躍していらっしゃるたくさんの方にお会いして、ずいぶんと刺激をもらってきました。がぜん次回作のやる気が出ました(笑) エネルギーをもらって、自分もまたその気になって取り組むのは楽しいですね。ありがたいです。
コメント (13)
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当直の合間の畳の上

2008-09-11 | 写真

 意外に自分、まだまだ没頭したりするんだなあ?と最近思ったのが、この写真。当直の合間、患者さんに呼ばれない時間に、宿舎の畳の上で作業中の巨大な地図です。
 これは昭和30年代までの、まだ国道などの車道がはりめぐらされる前の、5万分の1地形図を拡大コピー、A3サイズ20枚分を張り合わせたものです。場所は次の原稿でとりかかっている、紀伊半島の中央部です。これの上に座り込んで、さらに、当時の「荷馬車も通れるメインの道(青)」「人が歩く里道(ピンク)」「ほとんど山道(黄)」(当時は今のような車道はない)を塗り分けていきます。
 すると、現代からは想像もつかない、車がなかった時代の人々の往来の様子や、村々のつながりが如実に浮かび上がってきます。
 当直中は病院外に出られないですが、へたな所に出かけるよりはるかに興奮するぜ(笑)

 以前、このブログの「西熊野街道」で書いた奈良県十津川村樫原のかつての様子も、ありありと見えてきました。(下の地図:昭和30年代)
 私が「樫原すげー(汗)」と思った最初は、現在のゼンリンの住宅地図(これも、現在撤去されてしまった住宅や村などの位置を確認するのに重要な資料)で、1コとなりの地図、またその隣の地図、さらにそのまた隣の地図・・・と次々ページをめくっても、他にまったく家や集落が出現しないという、とんでもなく山の上に孤立した集落だったからです。な、なんでこんな所に村がある・・?と、実際に行ってみたりもしました(十津川の山々がぐるっと見渡せる山の上で、視界は地面より空の面積の方が多くて、夕日が綺麗だったよ)
 その樫原の位置は、昭和30年代では下の地図の通りです。
 おわかりでしょうか?
 道は、良い(広い)順に、青>ピンク>黄でなぞってあります。
 こんな山の上に村があるのは、かつての街道沿いだったなど、何か理由があるはずだ、と思って調べ始めた樫原ですが、本当に街道沿いでした。
 現代では、樫原から小森(当時の十津川村役場)の間のメインルートは消え、国道168号線が谷沿いのピンクの道だった所を通っています。役場も、168号線沿いまで降りてきました。明圓、沖之口、九鬼、尾越、河之平といった山上の集落は消失し、樫原(と田之本がくっついた集落)だけが山上に取り残されたのでした。
 現代の私たちから見ると、どうしてこんな所に人が住んでいる?- - - 住める?と思ってしまうような山の上にも村があって、車がない時代でも人々は実際に生活を築き上げていて、人間ていうのはそれだけの力があって、「すげー」と感嘆してしまうような村々が他にもまだいっぱいあります。
 で、それを今書いているのですが・・・・・・・



追記:青でなぞった山上のメインルートが曲がりくねっているのは、アップダウンがないように、同じ等高線上を辿っているからです。荷馬車や木材などが運ばれるので、上がったり下がったりしないようにできている。登山が目的の山道とは違うのです。
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7/2(水)NHK総合「お元気ですか日本列島」

2008-07-02 | 写真
知床、岩尾別開拓地の馬頭観音。岩尾別神社の境内(跡)にあります。


 先日5/31(土)の「おはよう北海道」は道内のみの放送でしたが、
 明日7月2日(水)、NHK総合テレビ「お元気ですか日本列島」14:05~14:55の間のどこかで、もう一度全国放送されます。
 内容は栂嶺の写真、知床開拓のことなどで、8分弱くらいです。北海道外の方、よろしければ御覧になっていただけると嬉しいです。
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熊野の取材に行っていました

2008-06-19 | 写真
これも、今回感動したものの一つ。今まで何度も前を通り過ぎてきた地蔵さんですが、地元の方に教えられて初めて、道しるべ地蔵であることがわかりました。「右ハ玉置山、十津川、左ハささび」と標されていました。当時「ささび」=篠尾への道がひとつの街道であったこともはっきりしてきました。


 また一週間弱、紀伊半島の方に行っていました。引き続き、アスファルト道路が通る前の(車社会になる前の)人々が徒歩で往来していた道の調査です。世界遺産になった熊野古道とは別に、熊野三山の奥の院である玉置神社への表ルートとも言うべき道があって、イノシシやシカの足跡でかろうじて道の形を保っている状態なのですが、集落の方に1つ1つお話を伺っていくと、その度にすごい発見があってものすごく感動します。やはり地元のことは地元の人にきかなければわかりません。それも、その場所できかなければわからないのです。

 今回一番感動したのは、今まで何度も何度も繰り返し通ってきた林道のすぐ下に、まったく知らないままにかつての古い道と橋があり、その橋のたもとに、幹まわり3メートルはあろうかというとんでもないトチの巨木が佇んでいたことです。草をかきわけて降りていったら、植林された木々の間に黄緑色にびっしりコケむした大きな橋を発見して感動したのですが、トチの木はもっと衝撃でした。そのトチの木だけで、周囲が暗くなるくらいのすごさです。集落に戻ってからきいても、「そんなに大きな木があったかな」「ああ~あれはトチの木だ。名前は特についてないよ」とそっけない返事です。村の方々が通らなくなって30年、トチはさらに成長したのかもしれません。木の根元には崩れかかった石組があったので、こういう木には必ずや何様か祀られていたはずだと思ってきくと、林道ができた時に「誰も通らなくなって手を合わせなくなってしまうから、お地蔵さんを林道の上に移した」とのこと。私がいつも、車で通り過ぎる時に手を合わせていた林道沿いのお地蔵さんは、このトチの木のお地蔵さんだったのでした。古いものを発見する感動だけでなく、よくわからないままだったいろんなものが、パズルの断片の凸と凹が突然に合うようにつながっていく感動です。このトチの木の橋の周囲には、今のこの眼で見ればはっきりわかる田んぼの跡が限りなく広がり(森林になってしまっていて、林道から見るだけでは全然気がつかなかった・・・)、当時ここまで棚田が広がっていたこと自体も驚きですし、橋も道も広くゆるやかなのは、それが「紀ノ国」の木材を運び出した木馬道(きんまみち)だったのです。そして、この木馬道として棚田の中を上がっていくのが、今や幻となってしまった「玉置街道」なのでした。
 (フィルムの現像はまだですが、トチの木がうまく写っていることを祈って・・)

 ところで、感動というのとは違うのですが、今回驚いたことをもう一つ。
 何を驚いたかというと、今もまだ神武東征が根深く染み付いている部分があったことです(???) いえ、熊野三山含め熊野という土地の重厚な歴史や存在意義が神武伝説(日本書紀や古事記)をベースに成り立っていることは確かなんですが(日本国の建国の意味も、天皇制も) がっ、神武東征とは神武が熊野を侵略したということでもあるわけで、侵略虐殺された土着の者、という観点から今も神武を恨んで(???)いる人がいることにびっくり仰天したのでした・・・・・・・・・・・・・・
 熊野(の人)は伊勢(の人)が大嫌いなんだそうな。
 ・・・・・・・・そういう見方で見たことなんてなかったよう。(熊野と伊勢なんて、伊勢路で繋がっていっしょくただと思っていたよう)
 神武天皇なんて実在したかどうだかもわかんないし、一体何千年前の話・・・!?と私なんかは思ってしまうわけですが、うーん。
 そういう考えを持って周囲を見ていたら、大変じゃないですか? ものすごく、生きにくくないですか?
 それとも、そう思うことで「合点」がいって生きやすくなるような事々が、その人の日常にはあるのでしょうか??
 侵略者と被侵略者という見方が今も実在すると思えば、同じ国内、どころか同じ三重県の中でもそうなんだから、日本と朝鮮や中国etcはもっと根深いのだろうなあと、思わず思ってしまうのでした。

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(スランプ)その後

2008-06-10 | 写真
山在峠の宝筺印塔(大峯奥駈道、和歌山県)


 日々追われているうちに、スランプはだんだんウヤムヤになってきました(^^; たぶん、多くの「ものを創る/産み出す」作業をしている人は、似たようなスランプを繰り返し経験しているのではないかと思います。ものを作り出す作業というのは、究極の「個人の主観の世界」だと思うからです。よく、写真家と医者と両立して大変じゃないかとか、何が違うのかとかきかれるのですが、そりゃもう全然違う。全然相容れないから、うまく両立しているのかもしれません。
 私は病院でも、自分の処置や判断の未熟さを振り返っては「私は医者に向いてないんじゃないか」「まだまだ腕が足りない」「自分はもう医者やめる(泣)」としょっちゅうなっているのですが(^^;、それでも、医者は間違いなく他人から必要とされ、意味があると思ってもらえて、ぐるぐる廻る社会の一員として存在できて、自分の「外」から飛び込んで来るトラブル(=患者さんの怪我や病気)に一つ一つ対処すれば間違いなく先へ進めるので(そこにはすごい知識と集中力と腕を要求されるけれども)、医者だけやっていればどんなに楽かと思うこともあります。一方写真は、自身がゼロから考えて産み出さないといけない、誰かが必要としてくれているわけではない、社会の中でべつにいなくても誰も困らない、自分にオーケーを出す精神力がないと先に進めない(けど自身の評価が最も厳しい)、という内面戦争状態です。自分が停止したら、すべてが止まってしまうのです。

 と言いつつ、最近流行っている心理テストで、16コの形容詞を思い付くまま並べて、隣り合う言葉どうし連想する言葉を書き、またその隣り合う言葉から連想する言葉を書いて・・・最後に書き出された言葉が現在のその人の状況を示している、というのがあるじゃないですか。
 それをやってみたら、私が導き出した言葉は「それでも世界はうまく廻っているもんだ」でした(笑)
 というのを見て、自分でも笑って、安心もしました。あれやらこれやら悩んでも、結局のところ、世界はそれでも成るように成る~、と思っているようですよ。
 ちなみに相方と一緒に心理テストをやったのですが、相方が導き出した言葉はズバリ「夏休み」。現在の相方は頭のてっぺんからつま先まで「夏休みをどうしよう~(悩)」で出来上がっているようです!(笑)
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たまになるのですが

2008-06-06 | 写真
これでも自分のポリシーにのっとって写した、植林された森の中に遺る村落遺跡、私が探して追っている写真の代表なのですけれどね。和歌山県、熊野川町。


 ひどいスランプになってしまいました。
 いや、仕事はふだん通りこなしていますが。端から見ればたぶん何も変化はないでしょう。
 が、ものを作る人は時々なるのかもしれません。
 時々起こるのですよ。
 自分が撮ったものすべてが、まったく良いと思えなくなる時が。
 こういう時は、自分が撮った写真を見ようとしません。気に入った写真をプリントアウトして、次の原稿の計画を練るために壁にぺたぺた貼っているのですが、それも目に入らないフリ。頑張って見つめてみても、その写真の何が良いのかさっぱり不明です。
 自分が撮った写真を見て「よしよし、○○のことはちゃんと撮れてるぞ」と頷きながら、未来に向って原稿だの取材だの計画を練っていくので、それが「よし」と思えなくなった瞬間、1枚1枚の自分の作品の意味付けを失って、いっぺんに"未来"がなくなってしまいます。"現在"の自分がいる意味も、まるっきりパー。
 どーーんと鬱です。
 こうやって時々、自分のすべてをぶっ潰します。
 「駄目だ駄目だ駄目だ、こんなんじゃ。」
 それは自分の中にあるポリシーとか理想とか条件とかがマックスまで高じてしまった反動なんだと、頭ではわかるのですけどね。
 人様が私の写真額を注文して下さって、その納品という嬉しい作業をやっている時でさえ、自分の中では「駄目だ、駄目だ」が嵐のように起こっているので、誰かが「良い」と言ってくれるかどうかが問題なのではなく、あくまで自分の中の事象であることは確かです。
 ダメ出しを続けて自分の写真を見ないようにしていると、ふっと客観性が生じて他人のもののように見えて来る時があります。そういう時、「いや、そこまで駄目でもないんじゃ?」と思い直すことがたまにあります。その「たま」に助けられてまた続きを撮り始めたりするわけです。
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見ました(^^;

2008-06-02 | 写真
 
村境の橋のたもとには、村を守る庚申さん。和歌山県、西敷屋にて。



 土曜日は失礼しました。斜里町の病院の職員さんがダビングして下さって、NHKの土曜リポートを見ることができました。ありがとうございます。

 (自分が出てるのって恥かしいもんですね・・・・)

 その後いろんな方から「画面に光を入れるように撮ってるんですね~~」と言っていただいて、自分でも新鮮でした。
 ふだん、ひたすら無意識の中で撮っていて、----たぶん、こう撮ろうとか、シャッター速度は、絞りは、フィルターは、光線の時間帯は・・・と、ものすごい勢いで頭をめぐらせているはずなんですが、それらは全部意識下のもので-----、今回自分が取材される側になって指摘されて初めて、ああ~~確かに自分の写真てこ~だわ~~的に自覚することができました。
1)逆光が多い
2)タテの写真が多い
 ・・というのが、NHKディレクター山口さんの鋭い指摘であります。
 「人間の営み」を撮ってる限り、それは光に包まれたものであって、明るみに満ちた記憶なのです。ので、(普通は逆光にならないように撮るのが鉄則なんでしょうけど)私は間違いなく太陽の真向かいから、しゃがんで、空を見上げるように、思いっきり被写体が太陽を背負うようにして撮ります。それで、自分で思い返してみるに、森の中にいると、成長した樹の凄さ、大きさ,空へとのびる枝のすごさ、空の広さ、輝く太陽などが凄まじくすばらしいわけで、どうしても被写体+その上に巨大に果てしなく広がる木々や空や太陽・・と入れるので、縦アングルの写真が多くなるんじゃないでしょうか。なんて、言われなかったら考えなかったですたぶん(^^;
 そういうのを気付かせてもらえただけでも、本当にありがたい話で。

 暗闇に明るく浮かび上がる被写体、よりも、
 まぶしい光の中に埋もれる被写体、を撮りたいですね。

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5/31(土)NHK総合テレビ「おはよう北海道」

2008-05-29 | 写真
 今回こそギリギリにならないように、お知らせしてみます。
 先日の岩尾別小中学校の同窓会の様子や、私の知床取材の様子、知床の開拓の歴史についてなど、NHKさんが取材撮影して下さいました。5/31(土)NHK総合テレビ「おはよう北海道」(7:30~8:12)の番組内で紹介されます。北海道内の放送ですが、よろしければ、道内の方、ぜひ御覧になってみて下さい。
 いや、ほんの数分のためにここまで撮るのか!?というのを、今度は取材される側として痛感したので(何を作るにしても、1つの完成物の裏側には膨大な苦労と労力があるのですね!)、・・・実はまだ明日以降も撮影は続くのですが、苦労して下さっている方のためにもどうか(^^;

 上の写真は、岩尾別の農地跡に残っているトラクターの残骸・・?と思っていたら、実は当時の「最新鋭のジャガイモ掘り機」なのだそうです。先日、ここのご一家の方と一緒に旧開拓地を訪れて初めて知りました。土ごと掘った馬鈴薯をベルトコンベアで後方に送っていくと、土だけふるい落とされて、馬鈴薯が最後尾に集められる仕組みです。・・・んなものが、知床の、知床五湖のすぐ隣に今も転がっている、ということを、やっぱり何とか多くの人に知ってほしいですね。


 そして、「廃屋」を見たら皆さんは何を感じますか?
 その崩れかかった残骸を見て、「無惨」とか「怖い」とか思うでしょうか。
 上の写真は知床五湖のすぐ近くに残る、開拓時代の住宅の廃屋です。
 が、ここで育ったご兄弟が指し示しているのは、今もこの廃屋の梁を支える大黒柱に刻まれた、当時の兄弟たちの「背くらべ」の傷と、各人の名前です。当時すでに大きかった上のお兄ちゃんは、恥かしいからそんなことはしない(笑) でも、小さかった5人の子供たちがめいめい彫った名前が、今も読み取ることができます。反対側の壁には、子供たちが描いたダーツの輪っかが・・(笑)(しかも2つも)
 私たちは現在の「廃屋」の姿だけを見て、勝手な想像をめぐらしたり、恐怖やノスタルジーを感じるかもしれないけれど、実際には、そこにはごくいたって普通の、子供たちが笑って遊びまわる生活があったということです。
コメント (1)
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写真展報告

2008-05-24 | 写真
 本当なら開催前にサイトやブログに紹介して宣伝しないと意味ないのですが,写真展が終わって,やっと書き込む気持ちの余裕ができました.ケータイの写メですが,紀伊国屋札幌本店さんの会場の様子です.

 今日は引き揚げた写真の片付けと,すっかり溜め込んでしまった(・・締め切り過ぎまくりの(汗))他の写真の仕事をやっていました.
 と,そこへ道新さんから電話が.
 今日の夕刊の「まど」というコーナーに,先日の岩尾別小中学校同窓会に関連した小さな記事(コラム)が載っていました.岩尾別小中学校は,現在の岩尾別ユースホステルのすぐ目の前,観光客の方々がたくさん訪れる「知床」のどまんなかにあった学校です.(そんな所に学校があったなんて,現在の観光客の誰も思わないでしょう!) こうやって,次々に記事にしていただいて,知床開拓の実際のほんとの所が,たくさんの人に伝わっていくのを見ると,本当にありがたいなあぁと思います.


 前回資料館では本の販売ができなかったのですが,今回は書店さんですから,心おきなく並べていただきました.・・・というか,売れたんでしょうか・・・??(大汗)


 渡辺先生やハリポタなんかと一緒に並べてもらって,本望であります.

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「知床開拓スピリット」写真展 5/22(木)明日までです

2008-05-21 | 写真
 
人さまから送っていただいた写真です。


 毎回謝ってばかりおります。今回本当に、告知が後回しになってしまいました。(今日も病院のPCからで、サイトトップやイベントページを更新できないでおります)
 紀伊国屋札幌本店2Fギャラリーにて、5/17(土)から開催させていただいている「知床開拓スピリット」写真展ですが、明日でいよいよ最終日となりました。私自身がこんな状態ながら、柏艪舎さんが送ってくださった案内ハガキや、紀伊国屋さんのポスター等を見て、絶えず来場してくださる方がいらしてありがたい限りです。本当にどうもありがとうございます。会場のテーブルにずいぶんたくさんの絵葉書(自由にお持ち帰りいただく用の写真)を用意したつもりだったのですが、今日行ってみるともうすでに無くなっていました。
 今日は本だけでなく、写真額そのものを注文してくださる方がいて、非常にありがたかったです。嬉しいですね! のですが、写真の生プリントの原価自体がすっさまじく高いので、こちらがオロオロしてしまいます。
 5/18(日)は写真展後、知床の開拓地の中心にあった岩尾別小中学校(離農のため昭和42年にやむなく廃校)の同窓会第2部 in 札幌となり、知床のど真ん中で育った○年前の少年少女たちと、再び大盛り上がりでした。こうやって、知床の人々が再び集まって、未来へ繋がっていくなんて、夢のようだし、取材を続けてきてよかったと思いました。
 ともかくは、明日一日、ラストスパートがんばってきます。

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本日スライドトークやります:「知床開拓スピリット」写真展 in 紀伊国屋札幌本店

2008-05-18 | 写真
 すみません!!! 昨日から紀伊国屋札幌本店ギャラリー(札幌駅南口を出て右:大丸札幌店の西隣)にて「知床開拓スピリット」写真展を開催しています.(5/22(木)まで)
 サイトでの告知が間に合いませんで!! 先週は知床開拓スピリットの主人公の皆さまである,開拓者の2世の方々の同窓会が知床であり,その報告もしなくては!なのですが,ちょっと落ち着いてからになりそうです.

 本日5/18(日),紀伊国屋札幌本店2Fギャラリーにおいて,15時からスライドトークをします.現在の知床の写真と,かつての開拓時代の知床の写真合わせ,150枚くらいをどんどんご披露する予定です.
 紀伊国屋さん自体が駅前で,周辺にいろんなお店があり,ギャラリーの隣にもコーヒー喫茶があったり,ストロベリーシェークがテイクアウトできるお店があったり,本がお好きでぶらぶら散歩したい方には良い場所です.お暇があります方はぜひ.
コメント (4)
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FMノースウェーブ

2008-05-03 | 写真
開拓者の方々が離農後移り住んだ以久科の公民館の桜です。移住当時はまだ植えられていなかった桜も、だんだん育って、たくさんの花をつけるようになりました。(昨年、斜里町にて)


 最近ブログまでまわらない日々が続いています。
 事後になってしまいましたが、先程FMノースウェーブの「北海道人」というコーナーに出演させていただきました。こういうお話をいただけて、ひたすらもう、ありがたい限りです。本を注目していただけるというのも嬉しいし、これで一人でも多くの人が、開拓者の方々が好きで離農なんかしたわけじゃないこと、頑張ったおじいちゃんおばあちゃんたちのことを知っていただけると思うと、やっと安心した気持ちが湧いてきます。さらに、イチオシでいつも拝見しているヒロさんに直接お会いできて感激(ただのミーハー(笑))

 のですが、生放送終わって、自分では凹んでしまいました(^^;
 ええと、

1)知床には人の暮らしがあったということ、
2)離農は政策であって、開拓者の方々は少しも逃げ出したわけじゃないこと、
3)何もないことが当たり前の時代&土地で、何から何まで自分達の手で作り上げていった人々がいたという事実から、私たちはたくさん学ぶことがあること
 →北海道はもっともっと元気になれること
(ついでに、5/17-22に紀伊国屋札幌本店で知床の写真展をやること)

 ・・・なんてのを話そうと心に決めていたのですが、いやその、知床じゃなくて自分のことに話題がふられると、用意なんかしてなかったし、何を喋ってるのかしっちゃかめっちゃかで。

 正直、自分が今まであれやらこれやら手を出して定まらなかったことを、自分では恥かしく思っているのですよ。
 おそらく、自分では今まで何度も、人生をリセットしようと悪あがきしていたのかもしれません(自分の中では) でも、端から見れば、相変わらず一続きの私がそこにおるわけで、現実にはリセットなんかできていないのでしょう。
 すでにこの年齢でそういうことを言ってること自体が恥かしいし、かといって、過去のことを聞かれても(自分の中でもまだちゃんと消化されていないので)うまく答えられないのです。

 ああ恥かしい(笑)
 知床や熊野や写真のことは何でもきいて下さい(カモンカモン)
 でも、私についてはナシの方向で(懇願(笑))

コメント (1)
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