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ちぎれ雲

熊野取材中民俗写真家/田舎医者 栂嶺レイのフォトエッセイや医療への思いなど

「魔」を封じる謎のこより

2010-01-30 | 写真
 平尾水分神社(奈良県宇陀市)のオンダ祭りのことを毎日小学生新聞(1/22)に書いたので、それについてもうちょっと。

 このお祭りは、オンダ=御田祭りということで、苗代をつくって"幸福の種(稲籾)"を播き、鳥を追い、育った苗を田んぼに植えるまでを神様の前で演じる予兆行事です。
 が、私が先日からちょこちょこ書いている修正会の性格も持っているのですね。先日取材した野迫川村のオコナイも、北今西集落のオコナイは別名「おんだ」と言われ、弓手原集落のオコナイは「修正会」と言われているように、私は時々、おんだと修正会の線引きがどこにあるのかわからなくなります。
 平尾のおんだ祭りの修正会らしい所は、最後にやっぱり"鬼"が出て来ることです。
 いえいえ、いわゆる鬼ではなくて、ここでは「若宮さん」という不思議な力を持った人形なのですが。

 私は若宮さんは怖~~かったです。喜んで取り囲んでいた子供たちは怖くなかったのかな。
 まっくろな翁の面に、こよりでぐるぐる巻きになった布だけの身体がくっついています。自分の身体の病気の部分とか、痛いところと同じ部位のこよりを若宮さんからほどいて、自分の身体の同じ部位に結び付けると病が治る、というのです。若宮さんは祭りの最後に、村人たちの病を癒すためだけに登場します。私も重いカメラの持ちすぎで悪くした右ヒジに、もらったこよりを結びました。

 が、実は同じような所作は、今まで度々目にしてきました。
 秋田県のナマハゲやヤマハゲでは、彼らが落としていったケデ(簑)の藁を、皆が競って拾い、身体の痛いところに巻き付けたり、頭に貼付けたりします(頭が良くなるんだそうな) 彼らが身につけていたケデ自体に神聖な力があるとされ、年が明けると、ケデは神社の柱やご神木に巻き付けられて、その後1年間村を守る鎮守の神になるのです。
 石垣島の白保の獅子舞や、川平のマユンガナシィが落としていったクバのかけらもそう。
 そして、奈良県五條市のだだ堂の鬼走りなど、修正会に登場する鬼の身体に巻き付けられている「こより」がそうなのです。

 修正会の鬼は、ほぼ例外なくミシュランのタイヤマンか、ボンレスハムのように、ぎゅうぎゅうに縛られています。これは一体なあに?
 私がよく思い出すのは、大分県で見た修正鬼会の鬼たちです。寺での修正会が終わった後も、鬼たちは魔や厄を追い払う神となって、一晩中かけて集落全戸を1軒1軒まわり、明け方頃やっと寺に戻ってきます。でも、寺に戻ってきた鬼はまだ、魔を封じる力をビンビンに撒き散らす荒ぶる神なんですね。それを皆で一斉に飛びかかって押さえつけ、「鎮め餅」という鬼を鎮めるためのお餅を無理矢理口の中に突っ込み(!)、そして、鬼の身体を縛り付けていた白い紐(こより)を刃物で切る。紐が切られて、初めて、鬼役の人は"人間"に戻るのです。

 私は、紐やこよりは、鬼(神)の力を発揮させる、もしくは、その内に封じ込める力を持っている、と理解しました。若宮さんが身体中にぐるぐる巻きにつけているこよりも、鬼神の力を内在し、魔=病を封じ込める不思議な力を持ったこよりなのです。
 

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世界は広い

2010-01-22 | 写真

 この写真は、「第3回妖怪展」に出品させていただいたり、過去にサイトのトップページにも出したりと何度も使っている写真です。私はこれがとても好きで、全紙のフレームに入れて、自分の仕事部屋の壁にいつも掛けてあります。この写真を見るたびに思うのは、

 世界は広い

 ということです。どれだけ熊野に没頭していても、知床や斜里にうんうん呻きながら狭い世界の中で仕事を続けていても、ふっとこの写真を見上げれば、今自分が悩み苦しみながら集中力を傾けている諸々とは、もっと全然違う世界がこの世にはあるのだ、ということを何度でも思い出させてくれます。
 今とりかかっている世界とは、考えていることも、目指す方向も、考え方のベースになるものも違う、もっと生き方の違う大勢の人たちがいて、その世界があるのだ、ということを。

 まだ若い頃、死んでしまおうかと思うくらいうんうん唸って悩んでいても、車でどこかに突っ込んでやれ!と出かけた先の世界は、まあ見事なほど美しく、木々も空も飛んでる蝶々も何もかも素晴らしくて、感動だらけで、その広い美しい世界があるうちは生きていよう、と、その度に帰ってきました。

 大人になった今はもう死んじゃえ!なんてのはまっぴら御免ですが、今もまだ、目を上げてみれば、世界は広いのだということに何度でもはっとさせられ、何度でも打ちのめされます。自分が知らない世界が・・知りきれない世界が、歩ききれない世界が目を上げた先にはまだまだどこまでも広がっていて、たくさんの人がいて、たくさんの暮らしがあって、その人々ならでばの生き様や信仰や、その土地がつくりあげた風景が、どこまでも、どこまでも連なって広がっているのです。

 世界は広い

 狭い世界に閉ざされ囚われていることはありません。
 ものごとに集中しすぎて世界がどんどん狭くなっていく時、私は何度でもこの写真を見上げます。

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生活の中の神々と、政教分離

2010-01-21 | 写真
八重山では神社はなく、御嶽。
ツカサ(神司)がこの世と神様との仲立ちをしてくれます


 北海道の砂川市が空地太神社に市有地を無償で使わせているのは違憲だという判決が出ました。
 正直なところ、空地太神社を近所の氏神さんとしてしてきた砂川の人々は、政治と分離すべき「宗教」だ、と言われてもピンと来なかったのではないかと思います。開拓時代から続く心の依りどころとしての「お参りする場所」「皆が集う場所」ではあったけれど、何の神様なのか(極端な話、神道なのか仏教なのか別の宗教なのか)正直なところ関係なかったのではないかと思うのです。

 全国あちこちの民俗行事を取材させていて思うのは、生活に根付いて何百年も続いてきた信仰は、正直「神道」「仏教」といった区分は無意味になっているということです。先日取材した弓手原のオコナイでは、村人の神主さんが神様を神社からお寺にお連れして、お坊さんを呼んで行事を行ってもらい、終わると再び神様を神社にお帰ししていましたし、大屋町のまいそう祭では、仏教の追儺にあたる行事を宮司さんがやっていました。
 人々は神(神でも仏でもお釈迦さまでも精霊でも、この世の理を司る目に見えない存在)と自分たちとの間を取り持ってくれる存在(宮司さんお坊さん神父さん等)と方式(祭祀や行事など)を必要としているのであって、特定の具体的な宗教を目指しているのではないと思うのです。

 昔から生活に根付いてきた宗教には枠がありませんでした。
 むかしむかしは人々は万物に神様を見いだしていました。道端の石ひとつにも、木々の枝1本にも手を合わせる日本人の心です。私は日本人が誇れる素晴らしいことだと思っています。いわゆる「八百神」です。
 陰陽道の方位神と古来からの来訪神がごっちゃになっている所もたくさんあります。神様を生活に取り入れていく過程で、結構ごちゃまぜになるのです。
 そして、明治になるまでは、たいていの神社と寺院は「神仏習合」でいっしょくたでした。一つのコインの表と裏みたいに、もともと違う神様(だったと思われる)も仏教では○○菩薩の姿でこの世に現れ、神道では○○神の姿でこの世に現れた、と、少々都合の良い解釈をして同じ神様として信仰していたのです。

 ところが、江戸幕府が滅びて明治時代になると「神である天皇の復権を」ということで、明治元年にさっそく「神仏分離令」という法律が出されるのですね。今まで神社とお寺と一緒に建っていたのが、お寺は壊され、お坊さんは追い出されて、「古事記」「日本書記」をベースに天皇を頂点(神)とする『日本神道』が日本のスタンダードになっていくわけです。
 私は奈良県十津川村の取材をよくしますが、江戸時代から勤王思想の強かった十津川村では、明治になって本当に1コ残らず(!)寺院が破壊され、仏像も谷底に放りこまれ古文書もみんな焼かれて、今や恨み言を連ねたくなるくらい、過去のことがわかんなくなってしまいました。

 恨み言は仏教方面のことだけではありません。
 明治39年になると、今度は「神社合祀令」ってのが出されて、村々でおまつりしていた小さな祠とか、いわゆる「八百神」や、「山の神」も「土地神」も基準に満たない規模の氏神さんまで、ぜーんぶ大きな「神道」の神社に統合しろということになってしまった。ひどい話で、これもまた私が取材を進めている和歌山県や三重県では、9割近くが合祀令でつぶされてしまったのですね。今や、「このお社には何神様がまとめて入っているんですか」「もとはどこにあったんですか」と、一々聞き出さなくてはなりません。本来いわゆる「神道」とは別ものの、その土地の歴史や文化の中から生まれてきたいろんな神々が、明治の政策で日本神道に吸い込まれていったのです。

 今回の判決や、世間に流れる空気の中には、明治の日清・日露戦争から始まって、第一次、第二次大戦に至り、「天皇を頂点(神)とする『日本神道』が全国民を『神=天皇のために死ぬこと』へ煽り強制した」ことへの強い反省、というか、もはやアナフィラキシーに近いような激しいアレルギー反応が底にあることは間違いないでしょう。「政教分離」は大原則であると思うけれど、明治以降に全神社を統合していった日本神道と、地元生活に密着した「神様への思い」や「祈り」は、もうちょっと分けて考えた方がいいのではないかと思いました。

 つまりのところ、ご飯を食べる前に食べ物に向って手を合わせる行為や、おまじないのレベルの話から、山仕事に入る前に祠にお参りしていく話や、地域の氏神さんをお参りするレベルの話まで、どこで線引きしていいのかわからないのです。それを「宗教」と言われると、うーんそうかな、そうなのかも、と頷くしかないのです。

 八重山には「神道」も「仏教」もないです(マジです) 鳥居はあるけれど、「何か奉納したかったので鳥居を奉納した」のだそうで、まったく神道じゃないです。けれど、たぶん日本の他のどこよりも神への気持ちが強く、日常生活の(というより、人の一生の)何から何まで神が関わっていて、それこそ政治の根底にもしっかり神様が根付いているわけで、こういう場合の「政教分離」はどうするんだろう、などなど、思わず考えこんでしまった話題でした。

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但馬の国のまいそう祭り

2010-01-18 | 写真
養父市大屋町宮本の「まいそう祭(まいそうまつり)」
村人皆が、鬼が持った神の木箱を松明で叩いて厄払いします。


 「昔昔、ここは泥の海でした。」
 と言われて、「んんん?」と思ったのが始まりでした。
 ここ兵庫県養父市大屋は、どう地図を睨んでも、「泥の海」とはほど遠い山奥だからです。
 しかも「まいそう祭」は見るからに修正会の追儺行事と思われるのに、仏教は無関係で、「船」の伝説がくっついている。

 そう思って地図を見ると、兵庫県北部は、日本海に向って円山川が但馬の国を縦断しています。
 確かに河口付近が山がちで「瀬戸」で閉ざされている。
 そして、周辺の山から急勾配の川がたくさん流れ込むにもかかわらず、下流は極端にゆるやかなため、近世になってもなお氾濫を繰り返している(護岸工事が繰り返されていますが、豊岡市の堤防に上って見晴らすと、確かにすごい天井川!)
 ・・・確かに3000年くらい前までは、辺り一面は「泥の海」=巨大な潟湖だったというのは本当みたいです。(すぐ隣の丹後には同じような湖と思われる「久美浜湾」があるし、円山川河口にも楽々浦(ささうら)という湾としての地名のついた入江がある)

 一方、「満潮時には十何キロ上流まで余裕で潮が上がってきた」という円山川は、かつて日本海を行った北前船が京や大阪に物資を運ぶのに、中国山地をショートカットするルートとして最適だったのではないか?(途中の分水嶺は、江戸の貨幣のもとになった生駒銀山だし、人が行き交わないわけがない!?) きっと「船」での水運が盛んだったに違いない!?と思うわけですよ。

 さらに、円山川河口の瀬戸を切り開いたのは天日槍(あめのひぼこ)という、日本書記や古事記に出て来ていながら唯一日本人じゃない(渡来人の)神様だということになっています。面白くなってきました。渡来文化となんか関係あるかしらん。

 というわけで、
1) (本来「追儺行事」だったと思われる)「まいそう祭」は、どうして「船をモチーフとした行事」になったのか?
2) 「まいそう祭」は「まいそうや、まいそうや」=「もう一艘や、もう一艘や」と船を探す行事ということになっているが、ひとつ谷を隔てた反対側の村で船が見つかったとされる → そちらの村とはどんな関係があるのか?
3) 円山川の水運はどの程度実現していたのか、していなかったのか? (実際、江戸時代から近世まで、人々のどんな往来があったのか?)
4) 円山川河口の瀬戸を切り開くことで但馬平野が創られたという伝説はどこから始まったのか? 天日槍(あめのひぼこ)はどう関係しているのか?

 というのを調べに、大屋町宮本の御井神社のまいそう祭を取材させていただきに行っていました。大屋側の宮本でお話を聞くのはもちろんですが、個人的には「船が見つかったとされる」建屋(たきのや)側に重点を置いて聞取りをしていました。そして、豊岡市図書館で古文書の整理をしている先生に、円山川の水運について教えを乞うてきました。

 民俗行事を取材するということは、ただそのお祭りのハイライトを撮るわけではなくて、その場所が一体どういう場所であるのか、・・・どんな歴史を背負っていて、どんな人たちが暮らしてきて、どんな人たちがそこを行き交ってきたのか、その土地ならではの信仰とはなにか(信仰とはつまり、人が神様をどう捉えているか=人間というものを、命というものをどう捉えているか、気候のことや植物が育って行くことや、世の中がまわっていくしくみ、「理」をどう捉えているか、ということです)・・・を、理解することです。

 1)~4)とも、自分の中ではおおよその謎は解けました。が、もうちょっとちゃんと理解するためには、4月のお走り祭もしっかり自分の目で見ないといけないと思いました。

***

 江戸時代から三百何十年か庄屋をやってきたというお宅の古老のお話を聞いていたら、玄関先に無造作に古文書が積み上げてあるではありませんか。「うちの古文書に、この集落のことが出ていないかと思って読んでいるのだけれど、生野の代官所に提出する文書ばっかりで・・」とぼやいています。そう、ここは「天領」、生駒銀山の代官所の管轄内だった集落なのですねえ。
 どちらにしても、数日でその土地を理解しようってのが間違いですね。まだまだ出かけて行って、自分の足で歩かないとだめそうです。


宮司さんはなんと91才(この後姿で!)
神棚の下に、鬼の面が捧げられているのが見えます。

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2010年の初買

2010-01-14 | 写真
 北海道に帰ってくると,今年初めて購入したものが届いていました.
 うへへへ,と喜んでいるのですが,たぶん誰にもわかってもらえないであろうこの喜び(笑)

 北海道の戦後開拓を推し進めるにあたって土壌を調査したアルバムで,全部生写真だ,それも昭和24年!!



 うーん,2010年の初買はさい先いいぞ♪
 こういう資料が私めがけて来てくれたかと思うと超嬉しいぞ(笑)

 もちろん斜里町内の写真もあります.
 「斜里町以久科地区泥炭地帯 農家自家湧水状況」と示されたこの写真.


 以久科は今でも斜里岳の伏流水が湧いていますね.
 コンクリートの土管をどんなふうに使っていたのかがよくわかります.流水路も木できれいに作ってあって,排水部分も分けていて,うまいこと使いますね.


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弓手原のオコナイ

2010-01-13 | 写真
御幣をお宮に送るオワタリ(弓手原のオコナイにて)


 年が明けて1月2日は奈良県野迫川村弓手原の「オコナイ」という行事を撮影させていただいていました.
 今年の年明けは全国的に雪が吹き荒れた年でした.
 高野山の奥の院を越えて西側の山塊に入っていくと,空もまっしろ,地面もまっしろ,左右も霧氷でまっしろ,という世界に入っていきます.チェーンをはいてスピードの出ない車でゴトゴトと沢の奥へと下っていくと,急に周囲がひらけて,古くからの家々が立ち並ぶ集落に出ます.雪だらけの集落は,かまくらをつくったり雪ですべったりする子供たちの笑い声がキャッキャッと響き,祭祀のいでたちの若者で溢れています.
 が,「ふだんは子供も若者も一人もいないんだから」と,村の人は言います.この祭事のためだけに,都会へ出ている若者が子供たちを連れて帰省しているのでした.祭事を絶やすまいという村人の努力で行われている行事なのです.

 実は,昨年は「若者が集まらなくて,できなくなった」と言われて,泣く泣く取材をあきらめたものです.比叡山の鬼追式と同様,2年越しの念願かなっての取材でした.
 「県の文化財に指定されているから,どうしても絶やさないでくれと言われている」と聞いて,ちょっと唸ってしまいました.というのは,例えば石垣島の宮良の祭事を思い出したからです.宮良は古くからの家々の数も減っていないし,後を継ぐ若者たちも,子供たちもどんどん生まれて,かえって分家して家が増えていて,若い連中がうじゃうじゃいて,今もきっちりと従来日本にあった「若者衆」のタテのつながりが(残そうとしているんではなくて,ごく自然にまっとうに)残っているんですね.年上が年下の面倒を見,その年下はさらに年下の面倒を見,そして,地域に認められた若者にはそれに応じた地位や役割が与えられる社会が,今もちゃんと続いているんです.アカマタ祭祀の時に,辻ごとにムチ(!)を持った若者が立っていて,人が神様に直接出会ってしまわないよう見張っているのを見ると,「観光客などよそものが排除されている」と思う人もいるようですが,本来それは,「まだ神のことをよくわかっていない地域の子供たち」が神様の前をふらふら横切ったりしないよう,地域の後輩に対しての指導なんですね.
 そんな集落では,祭祀を文化財に指定して守る必然性がないし,逆に,「神様のことを文化財にするなど,もってのほか.俺の目の黒いうちは文化財指定など絶対にさせない!」という状況になるわけです.
 宮良は良いとしても,今や全国的に過疎化が進む中で,どうやったら「残すために残す」のではない祭事の在り方があるのか,なんだか考えこんでしまったのでした.

 とはいえ,弓手原の方々は「これが村の誇りだから」と,正月必ず帰ってくるのでした.三が日が明けたらすぐ仕事始めに行けるよう,昔は1/4まで続いていた祭事を短縮してのことですが.
 弓手原のオコナイは1/2ということになっていますが,実際には祭事そのものはもう12/31から始まっていました.この行事をちゃんと理解したければ,大晦日から来て,見なければいけませんね.

 「野迫川村のオコナイ」はその年成人した若者たちで行われる,とよく記述されるので,成人式的な行事なのか?と思っていたのですが,「1月1日の0時にみんなが揃って1つ歳をとる(数え)」ので,元日に19歳になった(元服した)若者が中心となって執り行われる行事,ということであって,実際には「修正会」と「おんだ祭」と「厄払い」が全部一緒になったような行事でした.

 ところで,私が面白いと思ったものの一つは,(神主さんは村の方が年ごとに交代でなるのですが)"本神主"になる人は,その儀式の時にわざわざ海まで行って海水を浴び,一升瓶で海水を汲んでくるというのです.その海水が1年間,村の様々なお清めに使われるのです.
 私は,例えば八重山で新年には海の砂を家のまわりにまいたり,海の向こうから神がやってきたり,勝浦でも新年に海水をまいたりと,「海からの(神の)力」を使う所作に興味を持っていたのですが,弓手原という,海などもう無関係と思われるほど離れた内陸の集落まで,「海の神聖な力」を使っていることに仰天しました.今や竜神スカイラインができましたが,車道などない時代は高野山まで街道を歩いて5時間かかったといいます.高野山と反対方向,有田川に沿って海まで出ていたとのことですが,その距離を見れば,半端じゃない時間と労力がかかったことと思います.
 ・・・などと考えていましたが,ふっと,自分も含めて今も日常的にやっている「お葬式の後や,悪いものに出会ってしまた時は塩をまく」という所作も,おんなじなんじゃん?と思い当たりました.なんで塩をまくのか全然わかってなかったけれど,要は「海からの神の力」なんですねえ?? 違うかしらん???

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比叡山延暦寺 鬼追式

2010-01-10 | 写真
雪の降りしきる中,踊りまくる「無明鬼」


 改めまして,新年あけましておめでとうございます.
 北海道に帰ってまいりました.
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます.


 2009年の大晦日は,比叡山で鬼追式を撮らせていただいていました.昨年取材させていただく予定が,大晦日に雪で飛行機が欠航となって行けなかったので,2年越しの悲願となりました.この日も延暦寺に着いた後にすごい雪となり,実は2009年最後の買い物はチェーンだったのですが,助かりました.チェーンがなかったら,比叡山から降りてこれなかった所でした.

 私が修正会に興味を持ったのは,日本古来の来訪神である「鬼」と,仏教の中での煩悩を表す「鬼」をうまく捉えたかったからです.

 例えば「ナマハゲ」や「ヤマハゲ」「アマミハギ」の"鬼"は,最初から最後まで福をもたらす神様です(その「鬼」の力で災いを打ち払う)
 また,九州の「修正鬼会」では,仏教の力で"鬼"が召還され,その人智を超えた力で村落の災いを打ち払った後,夜明け頃,お寺で鬼の力が鎮められます.
 私が今回見させていただいた追儺式では,鬼は煩悩の具現化したものであり,仏法の力で調伏されるものなのですが,その後改心した鬼はまず最初の除夜の鐘を突き,そして人々に牛王宝印を授けていました.鬼の持つ"神としての力"はここでも健在なのですね.
 
 ところで写真の「無明鬼」は,「怒(赤鬼)」や「怠惰(黄鬼)」や「嘆き(緑鬼)」の鬼たちより格段にタチが悪く,改心した赤・黄・緑の鬼が3匹一緒にかかってもなかなか改心させることができません.
 「無明」ってなんぞや?
 フレッシュアイペディアに「おおー」と感動する解説があったので,リンクしておきます.
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E7%84%A1%E6%98%8E
(すみません,うまく出ない時にはフレッシュアイペディアで「無明」と入れて検索してみてください)

 さらに私が比叡山で新鮮だったのは,

 ・・・・とにかく親切!!

 何が親切かというと,本来鬼追式(修正会の追儺式)は根本中堂の内陣で行われている儀式で,参拝客全員に見えるものではありません.もちろん根本中堂内は撮影禁止.
 ところが,内陣で儀式が執り行われている最中もずっと,「今,炎を燃やしてご本尊に奉げています」「今,唱えております声明は・・・」と,逐一マイクで説明が入る.お経をあげてる最中なんだけど,マイクで説明してくれるんです.そして,内陣の儀式が終わると,
「根本中堂外の庭でもう一度皆さまに見えるように儀式を行います・・・」と.

 そう,私たちがよく写真で目にする比叡山の鬼追式は,参拝客に見てもらえるようにわざわざ「もう一回!」お堂の外でやってくれていたのだ!

 そしてもちろんお堂の外の儀式でも,「ただいま登場しました鬼は・・・」と,一つ一つ丁寧に,その鬼が何を表しているのか,何が起こっているのか,誰にもわかりやすいようにマイクでアナウンスが入るのでした.

 今まであちこちで淡々と執り行われていく行事を見てきましたが,ここまで参拝客に,行事の内容や,その表す意味や,仏教が何を教えているのかを,逐一丁寧に解説してくれる寺院はまったくもって初めてでした.(京都奈良では珍しくないのかもしれませんが,少なくとも私には)
 そして,お寺というものの本来の姿はこうなのかもしれない・・・お寺は本来,参拝客に仏の教えをひろめたり,視覚的・体験的な行事でその教えを具現化することで,子供にもじっちゃんばっちゃんにもわかりやすく,仏様の言葉を伝えていくのが役割なんんだものなあ・・・・と思ったのでした.参拝客の方が必死で仏様に追いついていくのではなく,お寺の方が参拝客に歩み寄ると言うか,丁寧にコミュニケーションをとろうとしている様子に,ちょっと新鮮な感動を覚えた大晦日でした.


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2010年も撮影と当直で始まりました

2010-01-04 | 写真

弓手原のオコナイ:お渡り
お堂にお迎えしていた御幣(神様)を、神社へ還しに向かいます


詳細は帰りましたら改めて。
ご挨拶もまた、帰りましたら改めまして。

(2010.1.8 画像再アップしました)

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謹賀新年 2010

2010-01-03 | 写真


昨年もまた感謝の年でした。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


 まだしばらく家に帰れないので、出先からあり合せのソフトで撮影したばかりのデジカメ画像を切ってみました。うまく表示されなかったらごめんなさい。
 取り急ぎ、まずは新年のご挨拶を申し上げます。今年も一年、皆様がお元気で健やかでいらっしゃいますように。

(2010.1.8 画像再アップしました)

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WEDGE 12月号 (と、毎日小学生新聞)

2009-11-25 | 写真
 今月12月号の「WEDGE」という雑誌に、知床開拓のことで取材していただきました。
 「知床開拓スピリット」が出たその一時だけでなく、今も変わらず関心を持っていただけるというのが、本当にありがたいと思います。これでまた、知床の歴史に関心を持ってくださる方や、ちょっと昔の(ほんの40~50年くらい前までの)まだ交通も経済も今みたいじゃなくて、人が自分の足で歩いて自分の手で生活していた頃に思いを馳せて下さる方が増えてくれると、ますます有り難いなあと思います。

 余談になりますが、最近、不景気で手作りが増えたとか、エコのために自転車での配送を開始した企業などのニュースを見ていると、高度経済成長やバブルに至る前の人々の生活に、日本はちょっと戻っていくのではないか、と考えます。"逆行"ではなくて、何でもお金を払って分業してやってもらう体制から、本来の人間一人一人の生きる力を"取り戻す"方向に、揺り戻しのようにシフトして行くんじゃないかと。だから、知床の森の中で何で自分たちの手で生活した開拓者たちや、今取材している熊野の、人々が自分の足で歩いていた頃の古い道などが、今一度見直される時代が来るんじゃないかと思っているのです。



 あと、遅ればせのご報告ですが、先月10/22(木)の毎日小学生新聞にまた記事を書かせていただいています。
「特集 沖縄のまつり ~秋の夜に不思議な神様~
      西表島 干立の節(シチ)祭(10月21~23日)
      宮古島 島尻のパーントゥ(10月22~23日)」です。ご興味のある方はぜひ。


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哀愁のサネモリ様

2009-08-18 | 写真
 明後日8/20(木)から始まる「第3回妖怪展」用につくっていた写真で、意外にウケていたこの怪しい写真。

 むかしむかし源平の合戦で、平家の斉藤別当実盛は、稲に足をとられて転んだところを討ちとられてしまいました。それを恨みに思った実盛は、ウンカとなって、毎年稲を食い荒らしに来るようになりました。それで人々は、実盛様を田んぼの外へ導いて、燃やすようになりました。

 稲に足をとられて首をはねられちゃう情けない展開も、稲を恨んでウンカになっちゃう飛躍も、だからといって実盛様を毎年毎年燃やしちゃうというのも、一応ストーリーとしては繋がるけれど、むちゃくちゃやねん!
 実盛様を燃やすとは、今も毎年6月から7月にかけて西日本一帯で行われている「サネモリ送り」(虫送り)のことです。みんなで藁人形のサネモリ様と松明をかかげて田の間を練り歩き、最後に松明についてきた虫とサネモリ様(=害虫代表)を燃やしちゃう。

 一説には、ウンカの顔をよく見ると実盛の顔をしているそうで。
 武将の頭のくっついたウンカ・・・怖っ。
 (いや、そうじゃなくて、ヘイケガニみたいに、ウンカの背中の模様がカオっぽく見えるっていう話なんでしょうけどね)

 斉藤別当実盛は、本当は源平合戦の時はもう72才の老人で、白髪を黒く染めて戦い、討ち取られた後の首実検でも、黒髪のせいですぐには本人だとわかってもらえなかった・・・(by 平家物語)という涙をさそう悲劇の主人公です。後世の人々がよよよ・・と泣いたはずなのに、どうして稲の害虫ウンカなんかにされてしまったのか?

 実は、うんと西の地方では、サネモリ送りではなく「サバー送り」だったり、サバー様とサネモリ様の両方が送られたりするのです。「サ」の接頭語は、「サオトメ」「サナエ」「サナブリ」などのように、稲作に関する語句であるとの指摘があって、どうも、サネモリ様はその語呂から、稲作と結びつけられてしまったようなのですね。
 実盛は死後祟ったという話もあるので、実盛の祟りと農作物の害が結び付けられていったのかもしれません。
 なんのかんの言って、藁人形のサネモリ様が乗る藁の馬の股間には、ナスとサツマイモで出来た巨大なイチモツがぶら下がっているので、やっぱりこれも、豊穣豊作と子孫繁栄を祈る行事ではあるのです。

 かくして、高齢をおして頑張った実盛おじいちゃんは、今年も田んぼの虫と一緒に村の外へ追い出され、燃やされ、あの世へ送られていくのでした。あっという間に燃えてしまうサネモリ様の姿に、ちょっぴり哀愁を感じる夏の夜です。


実際に、サネモリ様とともに導かれていくウンカ↑
(愛知県稲沢市祖父江牧川地区の虫送り)


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毎日小学生新聞「沖縄の夏祭り」

2009-08-13 | 写真

 毎日小学生新聞の「沖縄の夏祭り」シリーズに記事を書かせていただいています。
 お盆らしく、あの世から帰ってくるご先祖様も悪霊も~~って内容になってます。子供たち、喜んでくれたかな。

8月10日(月)掲載 「神様も豊穣も海を越えてやってくる」黒島の豊年祭
8月11日(火)掲載 「あの世からご先祖様が帰ってくる」石垣島石垣字のアンガマ
8月12日(水)掲載 「あの世の悪霊も迎える獅子たち」石垣島白保の獅子舞
8月14日(金)掲載 「男も女も神になる日」沖縄本島国頭村安田のシヌグ

 ちなみに私は今日から各地の盆行事の取材に行くはずが、頑固な腹痛に悩まされて断念。おとなしく原稿書いています・・・(^^;

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「第3回 妖怪展」2009.8.20(木)~25(火)

2009-08-04 | 写真
 「第3回 妖怪展」に参加させていただきます♪

 絵画、オブジェ、写真、百物語・・・・めいめいが考える「妖怪」を、形にしたものを展示していくユニーク&楽しい展覧会です。暗闇の中を懐中電灯を持って展示を見ていく「暗室展示」も大好評で、ついに第3回目開催となりました。
 私は昨年、第1回妖怪展と同じ時期に札幌市資料館で写真展をやって以来のお知り合いなのですが、今回ありがたくもお誘いいただいきました。自分の民俗・信仰のストックから数枚、写真を展示させていただく予定です。
 今回30人ほどが参加されるとのことで、意欲的な皆さんの「妖怪」をすごく楽しみにしています。
 現在真駒内アリーナでも「妖怪フェスティバル」やっていますが、妖怪大好きな方、「第3回 妖怪展」もぜひ♪

    「第3回 妖怪展」
    2009年8月20日(木)~25(火)
    10:00 - 19:00(最終日のみ17:00まで)
    パフォーマンスも毎日予定! 13:00 - 13:30、15:00 - 15:30
    場所:アートスペース201
       札幌市中央区南2条西1丁目7ー8 山口中央ビル6F

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「東京ではウケない」

2009-03-20 | 写真
 「知床開拓スピリット」の写真展を、東京や大阪でもやりたいと思い、都心の大きなギャラリーに申し込んだのですが、先日、戻されてきてしまいました。「こういう内容は東京ではウケない」というのがその理由です。
 写真がヘタだからと断られるのなら、いくらでも納得できるのですが、ウケないからと断られたのは、正直ショックでした。ウケる、ウケない、で考えたことはなかったです。

 野生動物の楽園知床、やっぱり開拓者も逃げ出す最後の秘境、とでも言えば、「東京ではウケる」のでしょうか???
 人々の"願望"や"そうであってほしいイメージ"に迎合した偽りしか「ウケない」のであれば終しまいです。
 偽りを打ち砕きたくて活動しているのですが、「ウケないから」と聞いてもらえなければ、本当の真実は何なのか伝えることもできないです。

 都心のギャラリーさんは製品を宣伝するという使命もあるので、消費者にウケる美しいものを展示しなければならないんだよ、あなたのやっているのは歴史のウラの部分だからね、とお世話になっている方がなだめて下さいましたが、いまひとつ晴れない気分です。

 人が生きてきたことを、「ウラ」の「ウケない」ものにしてしまう世界はすっきりしないです。それでも十分美しいと、私は思うんだけれどなあ。
 いつかオモテに堂々と出してやる、ちょっぴりそんな風に思った次第でした。

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今年は神年(カンドゥシ)

2008-11-10 | 写真
西表島干立の節祭り(シチ)の獅子舞


 前のブログで12年ごとのお祭りのことを書きながら、大事なことを忘れていました。
 今年の西表島干立の節祭り(シチ)も、12年ぶりの結願祭を兼ねていました!
 なので、例年のシチとは違って、結願祭の踊りも奉納される盛大なものでした。今年は子年、「神年(カンドゥシ)」と言って12年に1回の始まりの年だから、結願祭も行うと長老たちは話してくれました。この時奉納された「フタデ(干立)のトゥバラーマ」も、結願祭でしか踊られないため、村人もなかなか見られないと言います。12年に1回しか踊られないのでは、大事にする思いもひとしおでしょう。時間のスケールが人間基準じゃないだけでなく、一つ一つの踊りもあくまで人間が見るためのものではなく、神様のためのものなのです。

 それを言えば、前日の石垣島のいしゃなぎら結願祭で見た「神司の舞」も忘れ難いものです。結願祭が行われている宮鳥御嶽で唯一人、神様に皆の願いを伝え、神様の言葉を皆に伝える、神様に最も近い女性です。私はこの舞が他でも舞われるものなのか、結願祭にしか舞われない27年ぶりのものなのか知りませんが、神司ご自身にとっても一生でそう何度も舞うものではないように見えました。近くのお婆ちゃんが「ただの舞じゃないからねえ」と涙ぐみながら見ていたのが印象的でした。


石垣字宮鳥御嶽の神司、徳永スミさんの高貴な舞




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