20年使い続けたペンタックス645をデジカメに持ち替えて3年。どうしてもデジカメの画像に愛情を持てず、毎回、毎シャッターごとに自分の写真に悪態をついていました。それまで20年近く、今この光の加減なら、どんな色合いに発色し、陰はどんな黒さになり(その黒さの中にどんな風に諸々が写り込み)、どんなコントラストで光が広がるのか、フィルムと色温度やレンズの特性を考えながらシャッターを押し続けてきたものが、そういうものが一切なくなったのです。いつどんな写真を撮っても画一的な面白みのない画面にしか見えませんでした。以前のように楽しく写真を撮ることがなくなりました。もっと上位機種のデジカメを買おうと思ったことも何度もあるのですが、愛情の持てないものに何十万円も費やすのは自分の趣旨ではない、と、買い替えるのはスッパリやめました。
最近ちょっとだけ、自分の写真に愛情を持てるようになってきたかな、と、思える時があります。
今日のもそんな一枚。
今までの気に入らない写真はデジカメが悪いんではなく、自分がデジカメを使いこなせるようになるまで3年かかったか、と。そんな気持ちです。
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ところで、この道を撮りながら歩いていると、地元の小学生さんが後ろをくっついてきます。ニコリともしてくれないんですが、た、楽しいのかな?(^^; そのうちにだんだん打ち解けて、仲良しになりました。・・が、すごい勢いで坂を走り上がっていくよ、オバサン息切れして追いつけないよ(^^;
私は昭和30年代以前の、車道ができる前の、人々がまだ自分の足で歩いていたころの「道路網」を明らかにしたくて、車社会の現代人が忘れてしまったものがそこにあるんではないかと思って、古い道を探したり当時の人々の往来を聞き取ったりしているんですが、考えてみると、車の免許を持っていなくて車の運転とは無関係な小学生なんて、まさに「自分の足で歩く」最たるもんではないですか。自分の足で行けるところが世界、というか、世界は自分の足で行くもの。逆に、車では入れないような所とか、見過ごしてしまうようなこういう古い街道は、子供たちの「庭」であって「遊び場」なんです。
あちこちの古老から、子供の頃は山を越えて何キロも先の学校に通ったという話を聞く度に、さぞかし大変だったろうなーと思っていたんですが、今日会った小学生がすごい勢いで走り上がって行ってしまうのを見たり、山道で鬼ごっこをして遊んでいるのを見たりすると、意外と昔の子供たちはいい勢いで登下校していたのかもしれないなと思うのでした。
小学生さんとは、次はさらに古い道の先まで一緒に歩く約束をして別れました。古老に聞き取りしながら古い街道を見つけていくのは楽しかったみたいです(^^) 私もちょいと次が楽しみです。
あけましておめでとうございます。こちらも遅いご返信で申し訳ありません。熊野の山中は高度経済成長期にも開発されなかった(!)ために、かつての暮らしの中にあった里道・山道が、タイムパックされたみたいに残っています。車とは無関係だった時代の道が、車社会に疲れた私たちを癒してくれるってのがすごいなあと思ったりします。なかなか更新できませんが、またいい道の写真が撮れたらアップしたいです。もう見ていただけてないかもしれませんが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。