どうもお久しぶりです。redieです。
あんまりにも支離滅裂に書かれていたので、書きなおしてみました。
こんなところに書くことじゃないかもしれませんが、少し前に父が亡くなりました。
長い闘病生活を送っていたのですが、たくさんの人のおかげであまり苦痛もなく旅立つことができました。
我が家は兄弟仲も親との仲も悪くないので、気落ちをしているが普通なのかもしれませんが結構明るかったりして驚かれます。
東京都は斎場が混んでまして、通夜までに時間が空いてしまったりして、自分は忌引き中だっつーのに職場行って普通に仕事してました。
罰あたりですが、父親も悲しんでくれるのはいいけど、悲しみにくれる家族なんぞ見たくもないでしょう。
姉も同じことをしようとしたらしいのですが、職場から「馬鹿言ってんじゃねえ」と怒られたそうです。
まあ、こっちのほうが普通の反応でしょうね。
間違っても、故人の不幸を喜んでいるわけでも、軽視しているわけではありません。
悲しいは悲しい。それは間違いありません。
ですが、それはそれとして別に考えるような、我が家はそんな家柄なのです。
葬儀が終わった後で、「いいお葬式だった」なんて普通は言わないでしょう。
我が家では実際に言っていました。
死が近い家というと不吉なイメージかもしれません。
とにかく人の死に比較的冷静です。日常会話の中にも死があり、冗談にさえします。
もっとも、家族以外には良い顔されませんが。
たぶんよそ様にしてみれば非常に不謹慎なのだと思います。
ですが、綺麗ごとを装ってまるで死を汚いものであるかのように蓋をするのに、くらべればよほどマシです。
テレビや映画には死が蔓延しているのに、リアルな死を遠ざけようとする風潮や思考がこの国にはあります。
それが普通かもしれません。でも、そんな普通はどうでもいいのですし、自分は要りません。
リアルな死はいつでも横に座っているのに、それを心に置かないで生きることは真面目に生きていることだとは思いません。
さて、ご立派なこと?書いてなんですか、これでようやく自分が不健康になれます。
親不孝?そんなん昔っからですよ。
親孝行できたといえる、子供なんぞ世の中そんなにいませんしね。
まーそんな感じで事後処理が忙しいのなんのって、ヤレヤレです。
じゃ、とりあえずこんなところで。
追記:
「どんな死に方になろうともそれはその人の寿命。」これが我が家の考え方です。
納得できない人も多いでしょうし、納得してもらおうとも思ってません。ただの考え方です。