日日是好日

「アナザー・カントリー」について、実に主観的に書き散らしてます。
たまに身辺の雑記も。

昨日の能

2016-10-15 10:08:04 | 
「松風」


観てよかった。

まず、橋掛かり。
シテの松風と、ツレの村雨が、距離を置いてじっと見つめあう。

恋敵同士が(二人とも行平が愛した女)が対峙しているようでもあり、
また同じ想い分け合っているようにも見える。
逆に、一人で済む愛人役が、二人に分裂したようにも。

あるいは、一人に、松風に、行平が憑依しているのか。


舞台は正面に移る。

太鼓と笛をバックに、
村雨は何やら落ち着かない。
だが松風は、作り物の松をじっと見つめて、微動だにしない。
人間としての強さか、
はたまた人形のように魂がないのか。

ドキッとしたのは、
松風が汐を汲むシーン。
袖が松に引っかかったんですよ。
松が倒れるんじゃないかと心配になった観客は、
私ひとりじゃないはず。

あれは事故だったのか。
あるいは、行平(松風は松を行平と見誤る)への執着の現れか。


そして舞。

松風は時として男になり、女になる。
男としての強さ、弱さ。
女としての強さ、弱さ。
両性具有ともなる。
もともと能役者はすべて男で、
それが女の役を割り振られ、
また男の狩衣と烏帽子を着て舞うのだから。
性的な「ゆらぎ」には、めまいがします。

座ったきりの村雨は常に「女」だから、
その対比が生きてくる。

最後には性を超越した存在となり、
僧に回向を頼む。

えかったなあ。


次の能は、ぜひ、脇正面の席を取りたいです。

こないだの能

2014-12-24 22:55:09 | 
※私は能前の「お話」が嫌いで、わざと聞かないことにしています。
解釈が乱れているかもしれませんが、あくまで私見なので。


小督:
どの能でもそうですが、まず注目してしまうのが、
衣裳のきらびやかさの順列。
宮殿の勅使は、金箔のきんきらきん。
シテの仲国は地味。
嵯峨野の里人も、里人にしてはかなりいい服を着ている。
そして、小督の局と、その侍女。
どっちが局?とわからぬほどに二人とも豪奢です。色も、おそらく故意に合わせてオレンジ系統。
つまり金がかかっている順に、
小督と侍女>勅使>里人>仲国、となる。
都会の小金持ちが、田舎の大金持ちのところに、貧乏人を派遣した格好です。ただ小金持ちの上役は前天皇の院なので、高貴さだけは誰にも負けません。

仲国は変な棒きれを持って、小督を訪ね歩く。
仲国と小督の間は、最初は木戸と柴垣に遮られていますが、問答するうちに、それが文字通り取り払われます(後見が舞台から下げるのです)。
仲国と小督と侍女が、おなじ器に入るのです。
これがいいんだなあ。三位が一体となり、平均化される。三人ではなく、一人が三分割される。
豪華な衣装は女性二人だけのものではなく、仲国のものともなる。仲国が宮殿から背負ってきた想いは、小督の想いともなる。
懐の文を交換するという動作で、『文以外の何か』もまた、交換が行われるのです。
仲国は貧相な棒ではなく扇を持ち、舞を舞う。仲国の舞でもあり、また小督の舞でもある。両者が合わさったために化学変化を起こし、発火した熱の発露かもしれません。

登場人物は最後に橋掛かりから退場します。小督はフィジカルにだけでなく、メンタルな意味でも、仲国に「付いていく」ように見えました。



国栖:
壬申の乱がバックボーン。
ただしのちの天武天皇はまだ子供で、伯父に追われて吉野に逃げこんだことになっています。伯父・甥が逆になっているわけだ。個性を剥いで受け身にするための手法でしょう。
可哀そうな子供である王子を、親切なおじいさん(前シテ)とおばあさんがもてなし、庇ってあげます。

中入り後すぐ、天女が入場し、ほのぼのと祝いの舞を舞います。
この天女がね、ずいぶん幼く見えるのですよ。王子が小学生ならば、中学生ぐらい。
子供の、拙い舞い。技術がどうとかいうのではなく、『前座』であることを観客に強調するような天女の年齢設定です。

そして「やっぱり」という感じで、後シテがおどろおどろしく登場する。
この後シテは、前シテの「親切なおじいさん」と同じ人です。
保護者であったはずの老人が一転、今度は荒々しく舞う。
優しいだけではダメ、暖かなだけではダメなんだ。いい子いい子と愛撫されているだけの子供では、お前はこの先生きていけない。この戦いに勝利し、いずれは一国を背負って立つべき身なのだから。
つらいこと、苦しいことが、王子の将来には山積みなのだと、そう言い聞かせるような舞いでした。

天女が『保護されるべき子供=過去』の象徴ならば、
権現(だったかな)は『道を切り開く成人=未来』です。


席は自由席で、私には珍しく正面で見られました。
高いシートなんですが、意外と死角が多いんですよね。
いつもの脇正面は、時として人物の背中ばかりが見えるが、それでも満遍なく見渡せる。橋掛かりも近いし。前には舞台、左側には橋掛かりで、「舞台に抱かれている」ような心地よさがあります。
やっぱり私は、脇正面が好きです。


昨日の能

2014-11-15 23:34:13 | 
「仏原」
ツレに祇王(祇王姉妹)がいたら、
また違ったのだろうな。
仏御前は一人で、三人分の業を背負っている。
対してワキの僧にはワキヅレが二人いる。
三人にじっと見つめられ女を押し殺し、
そして中入り後にはじける。

「車僧」
珍しく、ワキが主役。
「旅の僧」とちがって、被り物も衣装もきらきらしい。
ワキが文字通りワキに退いていないと、
なぜか能が軽くなる。
ワキは観客の記号なので、
「あんたが主役!」と言われているようなもの。
それを「うれしい」と思うか、
「そんなことを確認するために、能楽堂に来てんじゃない」
とふてるかは、観客しだいなのだろう。

目黒へ

2014-10-05 23:27:21 | 
秋刀魚食べにじゃなく、能鑑賞。

「通小町」も良かったけど(少将?のみじめっぽさが)、
「紅葉狩」は派手だった。
シテの美女の舞が、途中で急テンポになる。
猫がはがれおちましたよ、猫が。
夢幻じゃないせいか、能じゃなく、フツーの演劇を見ているようでもありました。
「あれは美女じゃなくて鬼女」と神主が告げてすぐに退場するところなど、
ほとんどテレビです。

能は、観る人によっていかようにも解釈できる。
「紅葉狩」というこの能。
あの鬼女は鬼女ではなくて紅葉の精霊で、
「紅葉狩」は紅葉を鑑賞するのではなく、本当に紅葉を狩っていたのかも。


残念だったのは、見所のマナーの悪さ。

他のものだったら(クラシックのコンサート、オペラ、おそらく言わずもがなの歌舞伎)
ひそひそ程度の私語は許されるのかもしれない。
でも、能はね。能は、そうはいかないんですよ。

でっかく書いとこう。

能を観ながらの私語は厳禁!!!

When you appreciate Noh, you must never talk with a person!!!

ま、安い席だったというのもあろうが。