「不可視の両刃」放射線に挑む~英国大学院博士課程留学~

英国に留学して放射線研究に取り組む日本人医師ブログ

渡英前日

2016-09-11 | 留学するまでの色々
明日の今頃は、機上の人です。
明鏡止水の境地というべきでしょうか――不思議と心はひどく穏やかであり、ワクワクするような昂揚も、ドキドキするような不安も、何もありません。かつて米国に1カ月、英国に3か月研究滞在する前に感じた、動揺はありません。もし明日志半ばで息絶えたとしても、是非もなく受容できるような気がしています。

東日本大震災から今日で5年半が過ぎました。
現在もなお約14万4千人が避難しています。主に福島原発事故の影響でしょう。

いつか故郷に帰る人たちのために、私に出来ることは何か。私がすべきことは何か。

医学者として、放射線被ばく影響の研究をしようと思いました。私に出来ることなんて、それくらいしか見つからなかった。それが真に私が為すべきことなのかどうかは判りません。誰が保証したわけでもなく、ただ、自分で勝手に思っているだけです。自分の想いを押し付けているだけです。偽善なのかもしれません。
しかし、それでも、誰も何もやらないよりは、私だけでも命を賭してやった方が良いでしょう?
やらない善よりも、やる偽善をこそ、私は選択します。

いつか故郷に帰る人たちを支える科学的知見につながるなら。放射線医科学の発展に貢献できるなら。たとえ自分が報われなかったとしても、いつかどこかで誰かの喜びにつながるなら。幸せにつながるなら。笑ってくれるなら。
それでいい。
私は、それでいい。
もし願いが叶うなら、私が大切に想う人たちが、いつか故郷に笑って帰れるといいなって。在りし日の美しい光景がまた見えたらいいなって――ただ、それだけを願っています。

今後の研究の方向性も含めて、もう、ある程度の目途はつけておきました。
そのために布石を重ねました。論文にもある程度までまとめておきました。私と共同研究者たちでゴールへの道筋はもう概ね描いてあるのです。従来の放射線の教科書を書き換えるために、すべきことは判っています。そして、英国ベルファストで私がやるべきことも、ね。
あとは、私がやり抜くだけ。その為だけに、今、私は生きています。
とはいえ、もし明日私が倒れても、きっと、誰かがあとを引き継いでくれると思います。福島原発に近くて若い医療従事者不足に困窮していた公立相馬総合病院で、今日も後輩たちが頑張ってくれているように。誰かがあとに続いてくれるはずです。

だから、心配は要りません

若き死と、生きる道

2016-09-06 | 留学するまでの色々
母校の後輩が脳腫瘍で今年亡くなっていたということを、先刻、はじめて知りました。

まだ若すぎる天才の死でした。たった一度の人生を音楽に捧げたようです。今、彼が遺したピアノ作品が収められたCDを眺めながら、色々と思うところがありました。風の噂でそのような麒麟児が母校にいることは知っていました。闘病のことも。生前にお会いしたことはありませんが、医療従事者の端くれとして、治療が奏功することを願っていました。
さぞかし無念だったことでしょう。
「なぜ自分が」と、きっと、思ったことでしょう。
死を受け入れるのは困難だったに違いない。
それでも容赦なく死は訪れて、彼が遺した音楽は今日も続きます。

私はまだ生きています。
持病を抱えながら、ある意味すでに身も心もボロボロですが、それでもまだ燃やせる命があります。私の母校のモットーは「他者のための人になりなさい(man for others)」というものでした。思春期には反発さえ覚えたモットーでしたが、今はその教えが私の心の最後の拠り所になっています。
私は誰かのために生きる人になれるでしょうか。
命を燃やして戦うことで、いつかどこかで誰かが喜んでくれるなら。幸せになってくれるなら。
後で振り返った時、私が生きた意味も見つけられるでしょうか。

一期一会の世の中です。
八方美人に振る舞って、万人に好かれることなんて、とうの昔に諦めました。しがらみだらけで何も出来なくなるよりも、嫌われても、憎まれても、蔑まれても、それでも為すべきことを為そうと決意しました。
その道が正しかったかどうかは判りません。楽な道ではありません。
しかし、たとえ志半ばで倒れようとも、身も心も朽ち果てようとも。誰かのために戦えたなら、誰かのために生きられたなら。
後悔せずに済むんじゃないかって思うのです。

戦う理由

2016-09-06 | 留学するまでの色々
日付が変わったので、もはや昨日のことになりますが、母校の医学部に顔を出しました。
留学前のご挨拶と、共同研究の打ち合わせのためでした。もう卒業してからそれなりに時間が経っているのに、あちこちで「お久しぶりですね」と声をかけられました。私の顔と名前を覚えている方々が思いのほか多くて、驚きました。
母校から海を見ました。秋の海はキラキラと輝いていて、無性に懐かしかった。
学生時代の気持ちをすこし思い出した気がしました――福島に行く前の気持ちを。

母校からの帰り道に『シン・ゴジラ』を観ました。ずっと観たいと思っていました。
詳細はネタバレになるので省きますが、なるほど、なかなか痛烈な作品でした。エンディング後の日本がとても気になる内容でした。庵野監督なりに伝えたい事が色々あって、それらが上手く凝集されていると思いました。最後の尻尾も実に興味深いメッセージです。医師として、医学者として、放射線の専門家として観ると幾つかささやかな科学・技術的なツッコミどころはありますが、はっきり言って、近年観た映画の中では最も「観て良かった」と思える良作でした。
観ている最中、もちろん福島FUKUSHIMAのことを私は思いました。
人体への放射線被ばく影響をどう考えるべきか。少なくともCurrent bestな医学的対応を成し遂げるにはどうすべきか。色々考えていました。例えば、ある日突然ゴジラが現れて、放射性物質が撒き散らされて、故郷が帰宅困難区域になる。荒唐無稽ではありますが、その可能性だって完全にゼロではありません。もしかしたら、どこかの国が核弾頭搭載ミサイルを明日東京に打ち込むかもしれません。
本当にそれが起きてしまったなら、その後で「想定外です」で済む話ではありません。
我々はどこまで真剣に「放射能」に向き合ってきたのでしょうか?
やはり、誰かが戦わなければならないと私は思いました。周囲から理解されず、バカだの、チョンだの罵られたとしても、それでも誰かが戦わなければ。命を賭してでも挑まなければ。私の知る「あの先生」がそうであったように、私も……。

私は、我ながら、馬鹿な男です。
誰かのために尽くすには、自分が損になることしか出来ません。
誰かを幸せにするためには、自分がピエロになることしか出来ません。
いつだって、そういうやり方しか私には思いつきませんでした。

公立相馬総合病院に初めての研修医として挑んだ時もそうでした。
公立相馬総合病院は原発のすぐ近くで、しかし、中断することなく診療を継続してきた地域病院でした。しかし医療従事者不足に困窮しており、このまま誰かがやらなければ、相馬の未来はきっとないだろうと思った。相双地域で頑張ってきた病院を存続させるためには、誰かが働きかけなければならなかった。だから、自分がやることにしました。
他の医師がやるよりは、自分がやる方が良いだろうと思ったのです。本当は、自分のキャリアのことだけを考えれば、沖縄県立中部病院などで研修した方が良かった。すくなくとも臨床医としてのスキルはより充実したことでしょう。私はもっと優れた臨床医になれたかもしれません。
――それでも、相馬を選んだのでした。

今回の留学もそうです。
自分の臨床医としてのキャリアのことだけを考えれば、専門医研修を途中で投げ打って留学するのは「愚の骨頂」といえます。臨床医としての高みを目指すなら、あるいは楽して幸せになるためには、このタイミングで研究留学はありえません。
それでも、私は大熊、双葉、浪江、飯舘を直接見てきましたから。
患者さんと話して、仮設住宅の人たちと話して、一医師として彼らの哀しみに触れてきましたから。
だから、せめて私だけは「私に出来ることをしてあげたい」と思いました。出来るだけ早く英国に渡って勉強して、死に物狂いで研究して、世界の研究者と肩を並べて議論して、放射線医科学の教科書を書き換えるしかないと思ったのです。
そうやって、彼らのためにせめて一人くらいは命を賭けて戦う馬鹿がいてもいいんじゃないか、と。

昨日、母校に行って、『シン・ゴジラ』を観て、改めて私は「戦う」決意をしました。自分に出来ることはそれくらいしかないから。たとえ、たった独りでも。嗤われて、侮られて、蔑まれたとしても。これまでのように、これからも、私は戦います。

留学と不孝者

2016-09-04 | 留学するまでの色々
職業柄、人の死には慣れていました。今まで、幾人も幾人も静かに看取ってきましたから。私が医師として誰かを看取る時、涙を流したことはほどんどありません。自分にとって大事な患者さんたちであっても、そうでした。大声で泣き叫ぶのではなく、静かに堪えて耐えるという悲しみもありますから。それでいいと思っていたのです。

しかし、今日、私はそのことをひどく後悔することがありました。
死にゆく人を前にして、涙も見せない冷たさを、「慣れたから」だと言い訳したくはなかったのに。何と言えば良かったのか、今も判りません。私はただ黙っていました。私がかけるべき言葉は、きっと、あったはずなのに。今生の別れになるかもしれないのに。
何も言えなかった。
私は、死が目前に迫った祖父に、何も言えなかったのです。

まさか、留学開始の時期に、こんなことになるなんて。夢にも思いませんでした。それでも、今更留学を止めるわけにもいかないと考えている私は、不孝者というべきなのかもしれません。恩知らずの恥知らずなのかもしれませんが、「仕方ない」という言葉を免罪符にして。今は前に進むことが、いつか恩返しになると信じて。たとえ直接本人に返せなかったとしても。

じっと唇をかみしめます。

さよなら

2016-09-02 | 留学するまでの色々
昨日、相馬に別離を告げて、今日、仙台にさよならを伝えます。

昨日から、無職になり、渡英後に学生の身になります。区役所で転出届を提出して、仙台市民ではなくなりました。マイナンバーカードも返納しました。東北大学メールも使えなくなりました。

東北に来て色々あったことを思い出しながら、感慨無量の心地になりました。
取捨選択を繰り返しながら、ここまで至りました。答えを突きつけられ、悔恨することはあったし、満足したこともあったけれど、全て自業自得です。過ぎてしまったことは是非もなし。これからも自分なりに頑張ろうと思います。

正直、幸せになりたいと思ったこともありました。
相馬や仙台で本気で結婚しようかと思ったことは実は何度かありましたが、為すべきことと恋愛を天秤にかけて、結局、為すべきことを選んでしまったような形です。それを見抜かれていた気がする女性もいたし、留学中の負担や苦労を考えると「私と今すぐ一緒になるより、やはり他の男の人と一緒になった方が幸せになれるんじゃないだろうか」と思った女性には断腸の思いでそちらを勧めました(「おためごかし」と言われるかもしれませんが)。いずれにせよ、今の私には、まだ、誰かを幸せにしてあげることは出来ませんから。それでいいと思っているのです。
人生は一度きりです。
だから私は、せめて私だけは、震災後に相馬市の大野台の仮設住宅で過ごして「ああ、死ぬ前に一度、家に帰りたかったなあ」と無念のうちに亡くなられた飯舘村の方々のために戦おうと思いました。美しい故郷に帰りたかった人たちのために戦おうと思いました。そういう人たちを医師として最後に看取った者として。
だって、きっと、さぞかし悔しかったでしょう? 哀しかったでしょう?
その悔しさと哀しさを、私もすこしは判ったような気がしましたから。
なんとかしてあげたいと思った――その気持ちは、本当だったから。
為すべきことを為すためにはどうするべきか。色々考えて、やはり留学は避けて通れないステップだと感じました。出来るだけ早く、世界の研究者たちと肩を並べなければならなかった。私の臨床医としてのキャリアを犠牲にしてでも、ね。

もとより独りで戦うことには慣れています。
幸い、共同研究者の先生方、医局の先生方、相馬の人たちをはじめ応援して下さる人たちもいますから。これはきっと勝てる戦いだと思っています。何もかも犠牲にして、それだけの準備はしてきました。研究にもある程度の目途はついているし、博士号も取得出来るはずです。そして、留学後の進路も概ね決まっています。言葉や文化の違いによる不安はありますが、負ける要素はほぼありません。人事は尽くした感があります。
あとは天に任せるのみです。
留学は3年間の予定ですが、一所懸命に頑張って、良い成果を得たい。自分が報われなくても仕方ありませんが、せめて福島の惨事から新しい放射線医科学の知見を生み出せるように、その礎に貢献できるように。今は、ただ、それだけを祈っています。

さよなら。

リオオリンピック2016、イチロー、世界と戦って、そして勝つということ

2016-08-21 | 留学するまでの色々
リオオリンピック2016もそろそろ終了ですね。

パラリンピックもありますが、これまでのオリンピック選手たちの活躍は、テレビを持たない私もインターネットや新聞などの媒体を通じて知り、励まされる思いがしました。やはり、一つの目標に向かって、情熱を燃やして、全てを賭して挑むというのは素晴らしいことであり、自分もそうでありたいと思わずにはいられません。

最近、『イチローインタビューズ』(石田雄太著、文春新書)という本を読んで、2016年に世界最多安打記録を更新した「世界一の野球人」であるイチロー選手の人となりを知り、日本人として、日本を背負って世界と戦うということ、そして勝つということの辛さと苦しさと喜びを、改めて考えさせられる機会がありました。私もまた、いずれはその境地を感じてみたいと思いつつ、今はまだ「世界を知る」段階なのかもしれないと感じます。

馬鹿な私が放射線被ばく問題に本気で挑もうと思ったのは、実は「飯舘村」がきっかけでした。
私は福島に来て、あの黒いビニール袋を見て、仮設住宅に避難している飯舘村の人たちと接して、故郷を期せずして追われてしまった人たちの想いに触れました。
色々と考えさせられました。
そうしたら、自分の中で「これをなんとかしたい」という強烈な動機がふつふつと湧いてきて、それをなんとかするための「準備」として今回イギリスに行って学んで、帰国してから世界を相手に「やってやろう」と思ったのでした。もちろん、ある程度は時間がかかるかもしれませんが、私が医学者としての一生を賭けて挑めばなんとかなるんじゃないかとも思った。私は医師ですが、第一種放射線取扱主任者でもありましたから。ちょっぴり自信もありました。
もしも、私に「為すべきこと」があるのだとしたら、その研究がそうなのではないかと感じました。
そのためには世界と戦って、そして勝つ必要があることは判っていました。つまり、世界中の研究者を納得させて、世界の放射線医科学を変えなければなりません。それは容易なことではないでしょうけれど、やるしかありません。

正直言うと、本当は、ある人のためにしてあげたいという思いもあったのでした。
私は不器用で馬鹿なので、そのくらいしか、飯舘村で生まれ育ったその人にしてあげられることが思いつかなかった。自分の全てを賭けて放射線被ばく問題に挑むくらいしか。
しかし、きっと、その人は私がそうすることを喜ばないでしょう。
だから、私はその人に「あなたのために」と言ったことはありません。
おそらく、一生言うことはないだろうと思います。
もう二度と会う機会もないかもしれませんが。

拾う神あり

2016-08-16 | 留学するまでの色々
今日は、思いがけない吉報に恵まれ、嬉しく思いました。
とある民間財団から助成金を頂戴できることになりました。大金ではないのかもしれませんが、私のように3年間の留学を前にして貯蓄に心許ない面があった者にとっては、とても有難い出来事になりました。大切に使わせて頂きます。
私の研究をどこを評価してくれたのか判りませんが、最近、公私ともに敗戦続きだった自分を救ってくれたような気持ちになりました。

ここ数日、死にたいくらい落ち込んでいたので、嬉しくて涙が出ました。仕事中だったけど、トイレですこし泣いちゃうくらいでした。
拾ってくれて、ありがとうございました。

渡英まであと28日。

南相馬市の帰還

2016-07-12 | 留学するまでの色々
ここ最近、関東と東北の間を幾度も往復しています。先日、その途中で、はじめて福島名物の凍天を食べました。なんだか、やけに美味しくて、ちょっぴり涙が出ました。
連日の当直業務もあって、すこし身体的に負担を感じていました。しかし、そんな私の状態には関係なく、凶報が立て続けに届きました。他人の目に見える範囲では平静を装っていますが、正直打ちのめされるような心地がして、ちょっと情緒不安定になる程度には動揺しているのでしょう。他人に迷惑だけはかけないようにと念じながら、なんとか仕事をこなしている状態です。

本日、南相馬市の避難指示が解除されました。
歴史的な出来事だと思います。

1万人以上の住民が帰還出来ることになりましたが、実際のところ、どれほどの方々が故郷に帰るのだろうと切なく思いました。小高駅も再び電車が停まるようになりました。あの駅前の綺麗な光景を見る人たちの数も増えるといいですね。

いつものことながら避難指示解除の目安はよく判りません。医科学的な根拠を欠いているような気がしますが、おそらくは政治的な影響も考慮してのことなのでしょう。私個人としては低線量放射線被ばく影響のことがよく判っていない現状をもどかしく思っているので、「はい、今日から故郷に帰れますよ、良かったですね」なんて簡単には言えません。
とはいえ、公立相馬総合病院で勤務していた時、幾人かの患者さんが「生きている間に家に帰りたかったなあ」と言いながら息を引き取るのを見てきました。その方々の無念さを思い出しながら、理由はともかく、今だけは「帰ることが出来る」ということをひっそりと祝福してあげたいと思います。

私の知人にも今回の避難指示解除の恩恵を受ける人たちが少なくありません。
これまで頑張ってきた人たちが報われるといいなと願っています。

ふりだしに戻る、ということ

2016-07-05 | 留学するまでの色々
振り返ると、私は今年に入ってからというもの、ずっと足掻いてきました。
しかし、結局、今の段階になって、ふりだしに戻ってしまって、それが思っていたよりもずっと辛かった。留学前に叶えたかったことが、愚かな自分の手から、するりと零れていったような気がしました。そんな惨めな私をあざ笑うかのように、最近、次々と凶事に見舞われました。

ほんと、何やってんだよ、バカみたい。そう思ったこともありました。
でも、それは、勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に傷ついていただけ。本当は、失うものなんて何もない状態から始めて、またその状態に戻っただけ。結局、失うものなんて何もなかったのです。
しかし、目に見えないものだけは残りました。それなりに「経験」を積むことが出来ましたから。失敗したとしても、次への糧にはなりましたから。
ふと、野球少年だった遠い昔、夕暮れのグラウンドをひたすら走っていた頃を思い出しました。
ずっと同じ場所を回っているだけのように見えて、そうではなかった。1週目に見た光景、5週目に見た光景、そして10週目に見た光景は、そのすべてが違っていましたから。同じところをぐるぐる回っているように見えて、実はそうではないということに気付きましたから。だから、足は疲れていたけれど、息は上がっていたけれど、それでも自分が進化している、前に進んでいることを信じることが出来た。
そのことを思い出して、今ようやく、ちょっぴり立ち直ることが出来ています。

幸いにも研究だけは順調です。
共同研究者の先生方にも助けて頂きながら、着実に目標に近づいているという感触があります。自分の手で実験が進められないもどかしさはありますが、共同研究者の先生方が私の代わりに実験を展開して下さっています。その結果が蓄積すれば、必ずや、今まで判らなかったことが掴めるはずです。FUKUSHIMAの未来に還元できる成果を得られるはずです。
自分がやろうと思ったこと、やらなくちゃいけないと思ったことは、たとえ身も心もボロボロの状態になっていても、これまでなんとか前に進めてきました。命を賭してでも、低線量放射線被ばく影響の研究をすると誓いましたから。たとえ誰からも顧みられなかったとしても。それでも「為すべきことを為そう」と思った時から、バカだのチョンだの言われても、研究だけはずっと続けてきました。

別に、自分が報われなかったとしても、自分が幸せになれなかったとしても、それはそれで構わないじゃないか。いつか故郷に帰る人たちの未来と健康を守るためにすこしでも貢献できたなら。誰かのためにすこしでも貢献できたなら。1人の人間として、医師として、医学者として、自分が生まれてきた意義はあったんじゃないだろうか。この世を生きる意味があるんじゃないだろうかと。
今は、ただ、そう思っています。

英国、まさかのEU離脱へ

2016-06-25 | 留学するまでの色々
――6月24日、英国、EU離脱(Brexit)を可決!
その報に接して、しばらく絶句しました。

国民投票前の調査では拮抗していたとはいえ、サイレント・マジョリティの良識に期待していたのですが。私にとっては残念な結果となりました。まさか離脱派が多数を占めるとは……。
私が以前に英国留学した時にお世話になったEU諸国出身の在英研究者たちも困惑しているようでした。

スコットランド、北アイルランド、ジブラルタルなどはイギリス連合王国から独立しようとする動きが加速するかもしれませんね。私が留学する予定の北アイルランドも、EUからの資金投入によって今まで恩恵を得ていた地域でした。

果たして、どうなることやら。
今、不安がないと言えば、嘘になるでしょう。

謳われぬ英雄たちに捧ぐ Unsung Heroes

2016-06-14 | 留学するまでの色々
西洋では古くから吟遊詩人が英雄譚を謳い、広く民衆に物語を伝えてきました。
たとえば神々と英雄たちの活躍を今に伝えるギリシャ神話などは、名も無き吟遊詩人たちが幾星辰も謳いながら、継承されてきたのです。そこから転じて、謳われない英雄、つまり「目立たないけれど重要な役割を果たした人たち、陰の功労者、縁の下の力持ちのような存在」を Unsung hero と呼びます。彼らは、吟遊詩人に謳われるような華々しいスターではないのかもしれませんが、あるいはいずれ忘れ去られてしまうのかもしれませんが、たしかに「英雄 Hero」なのです。

先日、我々が書いた或る英文エッセイが国際医学誌に掲載されました。
私の目指す研究とは直接の関係はありませんが、しかし、私が「広く世界に向けて伝えたい」と願っていた内容です。すなわち、2011年東日本大震災および福島原発事故直後の混乱期に「自分たちも被災者でありながら」患者さんのため地域住民のために公立相馬総合病院で一生懸命に闘い抜いたスタッフの物語を書いたのでした。公立相馬総合病院が相双地域で中核病院として唯一診療を続けることが出来たのは、彼らあってこそなのです。

苦悩した看護師さん。逃げなかった栄養士さん。
あの日、病院で力を尽くして使命を果たした全てのスタッフに捧げたい。
誰にも知られなかったとしても。
誰からも顧みられなかったとしても。
誰からも称賛されなかったとしても。
それでも彼らの活躍はきっと忘れられるべきではないと思いました。

いつか報われてほしいと願いながら、魂を込めて書いたエッセイです。「英語だから読めません」と言われることもありますが、やはり広く世界に向けて発信するためには英語である必要がありました。
1人でも多くの読者に、彼らの活躍を知ってもらいたい。福島のUnsung Heroesを知ってもらいたい。
そして、いつか彼らがきっと報われますように。一生懸命に頑張った人たちが救われるように。
心からそのように願っています。

私に出来るのは、今はこれが精一杯

オバマ大統領の広島訪問とスピーチ

2016-05-28 | 留学するまでの色々
オバマ大統領の広島訪問とスピーチに関する報道を、昨夜、当直した病院の医局で知りました。
たしかに歴史的瞬間だと思います。原爆被ばく者Hibakushaと抱き合う大統領の姿は、私のような放射線研究者の端くれにとっても、感慨深いものがありました。スピーチの内容も素晴らしかった。私自身は、日本にはいつまでもたっても謝罪が云々という某国のような文化はないと思っているし、第二次世界大戦後の日米の歩みを鑑みれば、アレで良かったのではないかと感じています。

以前に米国や英国に短期ではありましたが留学した際、「第二次世界大戦についてどう思うか」と尋ねられたことがありました。
米国に留学した際にはUCSDの女性講師に「どうして日本人留学生は日本の国歌を知らないのか、歌えないのか」と聞かれたことがあり、戦後教育の歴史と背景について、私なりに説明したら、大変驚かれたのを思い出します。70年以上前のことではありますが、現代日本の社会にいまだにひっそりと残る先の戦争の影響を、これまでにも度々感じることはあったのです。そして、その度に、日本人として、色々と考えさせられてきたのでした。

広島の原爆ドームの映像を見るたびに、Hibakushaに関する話を聞くたびに、福島原発事故とはまた違った観点から「放射線被ばく影響に関する研究の重要性」を感じてきました。

広島、長崎、そして福島……。

唯一の被ばく国である我が国の研究者こそが世界の放射線研究をリードしてほしいとつくづく思います。
原爆や原子力発電所事故などで凄惨な一面を見せる一方で、医療や工業の分野でわれわれの生活を支える一面も併せもつ、放射線という「不可視の両刃」にはまだ判っていないことも多々あります。より正確に言うならば、我々が「自分たちの身体」のことをよく判っていないから、放射線を被ばくした際の影響が判っていないのです。今後、人類が宇宙に進出する際には宇宙線という放射線の一種からどのようにして身体を守るか、あるいはもっと放射線を利用して医療の質を向上できないか、など様々な課題が残されています。

もっと研究を進めていかなくてはならないと――今回の現役米国大統領の広島訪問によって、改めて、そんなことを考えさせられたのでした。

チェルノブイリから30年

2016-04-27 | 留学するまでの色々
別に研究に限った話ではありませんが、絶対に何かを成し遂げたいと思ったならば、「打てる手は全て打つ、あらゆる備えをする」ことが肝要でしょう。そうと知りながらも、人間だもの、疲れ果ててしまうこともあります。私も4月から新天地に移転し、自身の研究基盤もネットワークも何もないところから手探り状態で研究を始めて、最近、すこし疲れを感じていました。

昨夜、当直室で休憩中に何気なく目にしたニュースが「チェルノブイリ原発事故から30年」という内容でした。
当時の喧騒については子供の頃から伝え聞くことはありましたが、あくまで「世界史の中の一つのイベント」という認識でしかありませんでした。しかし、最近、福島原発事故に関する研究に取り組むようになり、「チェルノブイリはどうだったのか」を学び直している最中です。冷戦下の欧州の大混乱、その後の政治的対応、そして放射線被ばく影響について、改めて思いを馳せました。

――あの時と比べて、今、放射線被ばく影響に関する理解は進んだろうか?

放射線生物学の教科書は30年前も今日も、残念ながら、あまり記述は変わりません。
それが良いことかどうかは、推して知るべし、といったところでしょう。つまり、ただの停滞だと私は思います。

疲れを感じている場合ではありません。
やるべきこと、為すべきことは、いっぱいありますから。

平成28年(2016年)熊本地震

2016-04-16 | 留学するまでの色々
平成28年4月14日、熊本で震度7の大地震が発生しました。

普段はテレビ報道を見ない私ですが、さすがに病院のテレビをしばらく見てみました。
東日本大震災の時も医学部のテレビで大津波が仙台空港の飛行機を流す画像を見たことを、日本三名城の一角である熊本城が被災した映像を見ながら思い出していました。
私の知り合いも幾人か熊本にいらっしゃるのですが、彼らの無事は確認しているので、今はすこし落ち着いた気持ちで事態を見守っています。出来るだけ被害が最小限に食い止められるように願っています。医療ボランティアとして熊本に行くことも検討はしているのですが、私自身が仙台に移ったばかりですので、どうしたものかと悩んでいます(まあ、私が行ったところで何もならないかもしれませんが……)。
犠牲になられた方々のご冥福を祈念申し上げます。

天災はいつ訪れるか判りません。
天災に限らずとも凶報はいつだって突然に突きつけられるものです。いつ自分が死ぬかも判らない。自分だけは大丈夫だと信じてはならない。一寸先は常に闇であり、だからこそ、我々は今できることを一生懸命にやらなくてはなりません。
熊本地震は、改めて、そのことを思い出させる出来事でした。

明日、何が起きるか、判りません。
だから、今日も今日とて、やれるだけのことはやらなくてはならないと。
自分のためにも、他人のためにも、最善を尽くさなければならないと。
そう思いながら、自分を奮い立たせています。

いつも夢を見上げながら

2016-04-02 | 留学するまでの色々
2016年春に公立相馬総合病院を離れる際、ある看護師さんから「可愛いらしく見上げる猫」が描かれた石を頂戴しました。私の人生の宝物の一つになりました。

2011年東日本大震災前に相馬市磯部の海岸で拾った綺麗な石でお父上が描かれたものだと。「上を見て進んでほしい」という想いが込められていると伺いました。

磯部はあの大津波で多くの方々が亡くなられた場所でした。
つまり、多くの希望と夢が失われた場所でした。

石を手にとってみると、裏に福島の「福」の字が書かれていました。幸福の「福」でもあります。見た目に反して、なんだかやけに重く感じました。おそらくは沢山の期待が託されているのでしょう。

浅学非才の私には過分な期待ですが、辛い時、挫けそうな時、泣きたい時は、この猫がきっと励ましてくれると信じながら。
いつか夢を叶えるために、私も空を見上げて、これからも前に進んでいこうと思います。