「不可視の両刃」放射線に挑む~英国大学院博士課程留学~

福島原発事故被災地での体験がきっかけとなって放射線研究をしています

徳州会でカルチャーショック

2018-07-17 | 学術全般に関して
日本に帰ってきて連日異様な暑さを感じています。身体がすっかり英国北アイルランドに慣れていたこともあって、はっきり言って、バテています。辛いです。しかし、日本でも止まることは許されていません。

今日は、徳州会の総本山とも言うべき、湘南鎌倉総合病院(いわゆる湘鎌)を訪ねました。上の写真は病院を一望する場所からのものです。私の記憶にある限り、湘鎌にはたぶん初めての訪問だったと思われます。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、現在、湘鎌は「新医療センター建設」と「新医療大学創立」の事業を抱えており、まさに変革の時を迎えています。とくに後者は、鎌倉の地に新しい4年制の医療系大学を作るという壮大なもので、地元の医療福祉への影響力は大きいでしょう。徳田ファミリーに関する報道の件もあって、徳州会はあまり良いイメージが持たれていないこともありますが、今回の訪問ではそのような古い印象を一新するかのような「カルチャーショック」を受けました。

来年以降、日本に帰国してから、徳州会に就職することもあるかもしれません。別に徳州会に限らず、自分を必要としてくれる場所、自分の力が発揮できる場所、自分が成長できる場所から選ぶつもりですが。候補は多い方が良いですから。

衛生学の巨人 James Lind

2018-07-13 | 学術全般に関して
日本では酷暑が続き、西日本集中豪雨の被害もより深刻になってきていますが、皆様も暑さに負けずに体調管理には十分に留意して下さい。日本で臨床をしていた頃、このくらいの時期から熱中症によって救急車で病院に搬送されるような患者さんも多く診ていたような記憶があります。

さて、本日7月13日は、上の肖像画の英国医師・衛生学者ジェームズ・リンド博士 Dr James Lind が1794年に亡くなった日です。
彼は海軍において、世界で初めて疫学的手法を用いて壊血病と新鮮な野菜や果物の不足の因果関係を示した人物と言われています。彼の偉大な功績によって、大英帝国が誇る世界最強の海軍はついに壊血病を克服したのでした。英国人のことを「ライム野郎 limey」と呼ぶスラングは、リンドによって英国海軍が壊血病予防としてライム果汁を導入したことに由来すると言われています。

日本でよく知られているように、東京慈恵会医科大学創設者の高木兼広医師は、明治17年(1884年)に軍艦「筑波」による航海実験を行って、兵食改革(洋食+麦飯)によって脚気の発生率と死亡数が激減することを疫学的に示しました。これは日本疫学研究の黎明期の偉業と言えますが、リンドに遅れること約100年でした。後にビタミンB1不足が脚気の原因であることが分かり、日本の「国民病」とも言われた脚気はようやく予防、治療できるようになりました。

リンドや高木の功績にみられる学術分野を「衛生学 hygiene」と呼びます。
現在では衛生学の対象は多岐にわたり、学問分野としてはきわめて広大なものになっていますが、基本的には「健康に影響を及ぼす様々なリスクを推定して、その予防活動に結びつける学問」です。一昔前に国内の医学部では衛生学の講座を廃するところが増えて、現在ではあまり衛生学の研究を行うグループは多くありません。しかし、予防医学の重要性が年々増してきて、今は医学においてとても重要な学問分野であると私は思います。原因はともかくとして、リンドや高木の成果のように、「病気と原因の因果関係とリスクを明らかにする」ことで多くの患者さんが救われることから、実学という意味においてもきわめて有用です。

私はたまたまリンド博士が亡くなられた日が今日であることを知りましたが、「衛生学」のこれまでの歴史と現代医学における貢献の大きさを振り返り、改めて衛生学の重要性をつくづく感じさせられたのでした。

日本免疫学の巨人・石坂公成先生の御逝去

2018-07-10 | 学術全般に関して
アレルギー反応に関与する免疫グロブリンIgEを発見したことで名高い石坂公成先生が先週亡くなられていたことを知りました。晩年は奥様の看病もあって、ずっと山形で過ごしていらっしゃるのは存じ上げておりました。

残念ながら、私は直接の面識はありませんが、石坂先生の弟子に当たる先生方のうち幾人かにはとてもお世話になりましたし、石坂先生のご業績については昔から存じ上げておりました。石坂先生と言えば、奥様の照子先生と一緒に、免疫学分野で世界的に活躍した初めての日本人免疫学者です。さらに、多田富雄先生(東京大学名誉教授)、岸本忠三先生(大阪大学名誉教授、元総長)などの日本を代表する免疫学者を指導したことでも知られます。
IgE発見とアレルギー反応に関する研究業績は世界をリードし、ノーベル賞候補にも挙げられ、ガードナー国際賞など世界的に著名な医学賞を受賞されました。教育者としても、かの米国ジョンス・ホプキンス大学医学部教授・医学部長になり、日本人として初めて米国免疫学会会長などを歴任されています。
つまり、一言で言うと「日本の至宝」といっても過言ではない医学者でした。

現在、日本のお家芸と言われるほど、免疫学分野では世界をリードしています。
存命の研究者だけでも、抗体生成の遺伝的原理の解明によってノーベル賞を受賞した利根川進博士、IL6を発見し、その抗体薬を開発して、自己免疫疾患治療にまさに革命をおこした岸本忠三博士などをはじめ、本庶佑博士、谷口維紹博士、長田重一博士、平野俊夫博士、坂口志文博士、審良静男博士など、世界の超一流と目される免疫学者は枚挙に暇がありません。
前述の通り、石坂先生は岸本先生などの多くの日本人免疫学者の師匠筋に当たりますので、つまり、日本の免疫学の父と言ってもいい方だろうと思われます。大きな影響、それもとても良い影響を日本の免疫学界に与えた恩人でした。

現在、IgEを知らない医者はいません(いたらモグリです)、なぜならば、医学部の免疫学の教科書において免疫グロブリンIgEの記載がないものは存在しないからです。IgEが関与するアレルギーの発症機序を明らかにした功績は人類全体にとってとても大きいものでした。アレルギーで苦しむ多くの人達を救う偉大な成果といえるでしょう。

日本からまたひとり、偉大な医学者が去ってしまいました…
ご冥福をお祈り申し上げます。

新しい免疫療法が乳がん患者の命を救う

2018-06-04 | 学術全般に関して
国際医学誌 Nature Medicine上で本日公開された論文「体細胞変異の免疫認識が転移性乳がんの完全かつ永続的な消滅を導く(私の適当な日本語訳)」があちこちで話題になっていますね。米国NIHの研究グループが発表したこの成果は、「末期乳がん患者にも希望を与える」として英国BBCでも採り上げられ、うちの研究センターでも乳がん研究ラボの方々が驚いていました。

Zacharakis et al. Immune recognition of somatic mutations leading to complete durable regression in metastatic breast cancer. Nature Medicine (2018). doi:10.1038/s41591-018-0040-8

要旨をざっくり言うと、患者の乳がん細胞における4つの体細胞変異(生殖細胞変異ではない)を特異的に認識する腫瘍浸潤リンパ球を、IL2と免疫チェックポイント阻害剤と共に患者に投与したら、これまで22ヶ月以上にわたってがん細胞の完全な消滅が認められているということですね。
転移乳がんを完全かつ永続的に消滅させているということで治療効果ははっきり劇的ですし、新しい免疫療法の可能性を示すという意味においても、たしかに重要な論文だろうと思われます。これまでのがん免疫療法の研究の流れに詳しいわけではないので、正直言って、この論文にどのくらいインパクトがあるのかは判りませんが、専門外の私が読んでも「まあ、そういうこともあるだろうな」と納得できるような気がしました。従来の予想を裏切っているわけではないので画期的とまでは言えないかもしれませんが、患者さんに試してみて実際に劇的な治療効果が認められたというのはやはり臨床的にはとても意義深く、医療従事者にとっても患者さんにとってもご家族にとっても励まされる内容でしょう。

それにしても近年のがん免疫療法の研究の発展は凄まじいものがあります。
私が医学生だった頃、がんプロフェッショナルプランの策定とともに全国の各医学部にすこしずつ腫瘍内科講座が整備されはじめていたものの、がん免疫療法の講義なんてありませんでした。今はまるでがん免疫療法の大家のような顔をしていらっしゃる日本の先生も、当時、「がん治療において有望」だなんて言っていた方はいらっしゃらなかったように思います。いわゆる民間療法では存在していたのかもしれませんが、それらは科学的な裏付けがほとんどないデタラメな治療だったはずです。
がん免疫療法は、感覚的には、ここ5年くらいの間に一気にがん治療の中心に躍り出たような気がします。免疫チェックポイント阻害剤はすでにメジャーな存在となっていますが、これから腫瘍特異的な変異を免疫認識させる治療法がどんどん出てくると、一昔前に比べてがん治療の現場はきっと一変することでしょう。2000年代に外来化学療法が普及したことでがん治療の現場は大きく変わったのですが、2010年代は「がん免疫療法の登場」が一つのエポックメイキングとして記憶されることになるでしょう。

私がかつてお世話になったある看護師さんは残念ながら乳がんで亡くなられたのですが、彼女が生きている時にこういう治療法が出ていればと。この論文を読みながら、ふとそんなことを思いました。

ジェイムス・フランクとフランクレポート

2018-05-20 | 学術全般に関して
5月21日はジェイムス・フランク James Franckが亡くなった日です。おそらく多くの方々はノーベル賞を受賞したこの物理学者の名を知らないと思いますが、彼の名を冠した「フランクレポート Franck Report」は原子力・放射線学界では知られています。

1945年6月に米国大統領諮問委員会に提出されたこのレポートは、核兵器の製造に関わった科学者を中心に、第二次世界大戦末期における日本への原爆の無勧告使用の見直しと、戦後の核兵器管理体制の構築の必要性を訴えたものです。結局、フランクレポートは日本への原爆投下と戦後の核兵器開発競争を防ぐことは出来ませんでしたが、その後、世界平和を希求する科学者たちが核兵器について警鐘を鳴らす(核戦争を防ぐ)活動に取り組む契機となりました。湯川秀樹が参加した「ラッセル=アインシュタイン宣言」もその影響を受けていると思われます。

ジェイムス・フランクは1925年にノーベル賞を受賞したドイツを代表する物理学者でしたが、ユダヤ系ドイツ人であったためナチスから逃れてアメリカへ渡りました。当時、核兵器の開発に着手していたナチスと対抗するため、連合国側は「マンハッタン計画」と呼ばれる核兵器の製造に取り組みましたが、彼は亡命物理学者の立場でその計画に協力したのです。

アインシュタインが当時の米国大統領ルーズベルトに「ドイツよりも先に核兵器を作らなければならない」という旨の手紙を書くほど、当時、アメリカの科学者たちはナチス・ドイツによる核兵器の開発と使用を恐れていました。結局、ナチスは核兵器を使用することなく1945年春に降伏し、核戦争の恐怖は遠のいたかに見えました。
しかし、米国政府はせっかく製造の目処が立った原爆を日本本土に使用することにしました。
とくに人口が多い都市部に落として、その生物学影響(どれくらい死ぬか)だけでなく、社会的、政治的な影響を確認しようとしたのです。日本が誇る古都・京都がそれまで爆撃されなかったのは、単にその候補地だった為でしょう(「ウォーナーリスト」のおかげではないと私は思います)。
総力戦だから仕方ないということを仰る人もいますが、当時の米国政府が、ナチスに代わって、「世界で最初にして唯一、核兵器を使用した」ことの歴史的意義は非常に複雑であり、容易に解釈できません。実際、広島と長崎では、多くの非戦闘員が無くなりました。原爆の日本本土での使用は「戦場で軍人(戦闘員)を倒す(殺す)のとは明らかに異なる思惑があった」ということに私たちは留意しておくべきだろうと思います。

ジェイムス・フランクらは広島に原爆が投下される前、核兵器という前代未聞の破壊兵器が生み出す社会的影響を検討し、その慎重な使用と管理をフランクレポートにまとめたのでした。フランクが本当のところ何を考えながらそのレポートを提出したのか、現在の私たちにはその正確な思惑までは判りませんが、少なくともレポートを作成した科学者たちが非常に大きな懸念を抱いていたことは伝わります。
私が広島平和記念資料館を初めて訪れたのは高校生の頃でしたが、『はだしのゲン』という漫画や『黒い雨』などの小説を通じて、小学生の頃から原爆などの核兵器については色々と考えさせられてきました。そして、「そんなモノを作った奴らは一体どんな気持ちで作ったのか」と思ったものです。とはいえ、後年になってから、当時の連合国側の研究者たちの葛藤や、苦悩、懸念についても、すこしは察することができるようになりました。

科学の発展は、多くの人達を助けることにも、そして多くの人達を殺すことにもつながります。科学者の端くれとしては、ジェイムス・フランクやフランクレポートについては、今でも、色々と考えさせられるのです。

英国-アイルランド共和国合同イベントとしての学会

2018-05-14 | 学術全般に関して
英国北アイルランドは、文字通りアイルランド島の北にあり、南のアイルランド共和国と非常に密接な関わりを持つ地域です。したがって、北アイルランド首都ベルファスト Belfastにある本学も、英国とアイルランド共和国の両研究コミュニティの橋渡しというか、どちらにも影響を与え、どちらからも影響を受けるという宿命のもとにあります。

さて、そんな本学で、来月、英国放射線学会とアイルランド共和国放射線学会の合同年会が開催されます。上記の通り、おそらく本学だからこそ出来ることです。
大会長は私が普段からお世話になっているKarl氏です。今回北アイルランド出身の彼が大会長なのは、英国とアイルランド共和国の橋渡し役として納得と言えば納得なのですが、アラフォーの研究者が学会開催のまとめ役を務めるというのは、めちゃめちゃ若くて、日本ではありえんレベルですね。日本だと臨床でも基礎でも学会の重鎮と云われるような大学教授たちが持ち回りで大会長を務めるというイメージがあります。しかも、今回は英国とアイルランド共和国の合同開催ということで、一応、国際学会に当たります。「(国際学会の大会長という)大任を、その若さで、よくやるよなぁ」というのが率直な感想です。
ということで、私も同じ部門のよしみで演題を提出しています。まあ、国際学会での発表の経験は自分にとっても糧になりますので。

しかし、この学会準備がちっとも進んでいるように見えないのが、最近、すこし気になっていました。

イベント会場ではなく本学で開催するからには、大会長のKarlはさぞかし大変であろうと思って、今日すこし会った時に聞いてみたら、「大丈夫、大丈夫」と余裕そうな表情でした。その割には、1ヶ月前なのに私の演題の採否の連絡も無いし、プログラムの準備もあまり進んでいません。「どうしてそんなに楽観的なんだよ、おいおい」と思いましたが、良くも悪くも、このようにのほほ~んとしているのが北アイルランドクオリティーだったりします。

それにしても、acccomodation(宿泊施設)の斡旋先がElms villageなのですが…
本学に留学されたことがある学生さんならば判ってもらえると思うのですが、英国とアイルランド共和国の各地から集まる研究者たちに勧められている宿泊施設が、あのElmsです。正直、ビビっています。このElms villageとは学生寮のある場所なのですが、留学生はもちろん学部生の多くが住んでおり、非常にカオスな空間となっています。たしかに、学生の宿舎というだけでなく、(空き室があれば)旅行者も利用できるホテルのような機能もあるのですが、質はお世辞にも高いとは言えません。ぶっちゃけ、嫌な予感しかしませんね。
来月の学会という重大イベントを控えて、不安ばかりが募ります。

最近、なんだか気忙しい感じです。

Impact Factorに足を引っ張られる放射線学界

2018-05-04 | 学術全般に関して
ここ最近体調が悪い中、私の好きなイチロー選手まで事実上引退というニュースを見て「一つの時代が終わってしまった」ことを知り、すこし落ち込んでいます。まるでいつまでも元気でいると思っていた親がいつの間にか老いているのを見て、流れてしまった時間を感じられずにはいられないような、そんな寂寥感に似たものを感じます。かつて世界一の'Hit King'であった彼の引退というものは、いつか来るモノとはいえ、やはり見たくはなかったですね。

祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ
偏に風の前の塵に同じ

さて、今回は「Impact Factor(以下IF)」についてです。
自然科学界では、ここ数十年にわたってIFというものに支配されてきました。IFについては、このブログ上でも幾度か触れてきましたし、詳細はここでは省きます(ご存知ない方は算出方法などGoogleなどで検索して頂ければ直ぐに判ります)。
もともとは科学ジャーナルの評価に用いられるはずの指標でしたが、いつの間にやら研究者や学術機関の評価に用いられるようになり、研究者たちは高いIFを持つジャーナルでどれだけ多くの論文を発表できるかを競わされる羽目になりました。たとえば、競争的研究資金の評価において、業績欄に並ぶ論文が掲載されたジャーナルのIFを見て評価するという方法が横行するなどしたため(実際に某K大学の某Y教授のブログでは「審査の際にはやはり業績を見る」旨が書かれていました)、研究者たちは論文をジャーナルへ投稿する際にはそのジャーナルのIFを気にせざるを得なくなったのです。
それは私のボスのような放射線学界における大御所であっても同様で、彼もいつもIFやらCiteScore(IFとはまた別の指標)に気をつけているようです。実際、私が所属する研究センターはがん研究に特化しているのですが、他の部門に比べて、我々の放射線治療学・生物学部門は出版する論文数では勝るのですが、総IF値で苦戦を強いられるという状況がここ数年続いていて辛いところです。

最近、私もこのImpact Factorに翻弄されています。
ボスに言われて、私も日頃から色々な研究費や助成金に応募することがあるのですが、その際に自身がこれまで積み上げてきた業績を示す必要があります。つまり発表してきた論文などを明示するのですが、最近、それらの論文が掲載された全ジャーナルのIFの和を添えて出すように指示されたものがあり、改めて放射線学界の不遇ぶりを痛感させられる機会がありました。
レントゲンやキュリー夫人の時代にはノーベル賞といえば放射線研究者でしたが、残念ながら現在の放射線研究は世界的にもマイナーな領域になってしまっています(そのせいで「福島」のこともよく判らんことになっているわけですが)。そして、IFは時代の流行などを反映するものでもありますから、放射線科学ジャーナルのIFが低くなってしまうわけです。

たとえば、生命科学系における三大誌と言われる下記のジャーナルでは、目が飛び出るほどに高い、世界最高峰のImpact Factorを誇っています。そろそろIF 2017が発表される頃ですが、ここにはとりあえず2016版をば。
Nature 40.137
Science 37.205
Cell 30.410

一方、放射線生物学に関係するジャーナルとしては下記があります。
IJROBP(米国放射線腫瘍学会誌、別名Red Journal) 5.133
Radiation Oncology(欧州放射線腫瘍学会誌) 4.328
Radiation Research(米国放射線科学会誌、放射線科学の総合誌) 2.539
IJRB(放射線生物学の国際専門誌) 1.992
Journal of Radiation Research (日本放射線影響学会誌) 1.788

お分かり頂けただろうか。
放射線学界の不遇ぶりを…

つまり、Red Journalみたいなトップジャーナル(放射線腫瘍学、生物学、物理学の中から優れた論文だけを掲載する業界最高峰)でもIFは5くらいしかないわけです。私もRed Journalに論文を載せたことがありますし、編集部から査読を依頼されることもあります。このことは放射線研究者の端くれとしては一応名誉なことではあるのですが、残念ながら他の研究分野の人からは「IF 5程度のジャーナルでしょ?」と思われてしまうかもしれません。
上記を見て頂ければ判る通り、放射線科学分野では、ほとんどの主な論文はIF 1~2程度のジャーナルに出版されます。Natureの40と比べると、当然ですが、圧倒的に低いですね。基礎医学の中にはもっと不遇なマイナー分野もあるかもしれませんが、この放射線生物学もなかなか酷いです。これでは、他の分野にいる研究者と競合する場合、なかなか勝ち目がありません。例えば、再生医学・生物学や免疫学などの分野のジャーナルのIFはもっとはるかに高いのです。
こりゃ、勝てんわい。

現在、ボスに言われて、とある研究助成への応募書類を書いているのですが、正直「なかなか難しいだろうな」と少々諦めムードです。他の研究分野と競合する場合、純粋にIFの値だけ見ると、いつも苦戦を強いられるからです。
う~む、厳しい。

プレゼンの極意は、針小棒大なハッタリと秀麗なフィギュアか?

2018-04-30 | 学術全般に関して
日本はゴールデンウィークとのことですが、こちら英国北アイルランドは通常営業です。

突然ですが、英語プレゼンテーションなんて嫌いです。
いきなり身も蓋もないことを言っていますが、日本語でのプレゼンも嫌いなのに、非母国語である英語でなんて好きなはずがありません。しかし、嫌いなこともやらないといけないのが、大人というものです。好きなことだけやればいいというのであれば、私はずっと家で寝ていますが、もちろんそういう訳にはいかないのが辛いところです。すなわち、この世は生老病死であります。
英語プレゼンテーションも、「Do it」と言われたら、「Sir, Yes, Sir」と叫びながら、やらなければならん訳です。

英語のプレゼンテーションと言っても、基本的には日本語で行うものと同じです。
しかし、幾つか違いというか、日本語プレゼンターが注意しなければならないことがあるように思います。

私もこれまでに様々な方々のプレゼンテーションを拝聴してきましたが、はっきり言って、日本人が日本語で行うプレゼンと比べても、欧米人の英語でのプレゼンの多くはとても上手だと思います。

なんとなれば「面白い」からです。

ユーモアを尊ぶ文化の違いもあるのかもしれませんが、欧米人のプレゼンの多くは面白いです。トークも聴衆をいかに引きつけるかという点で、やはり洗練されているように感じます。さらに、私のような非英語圏出身者にも判りやすいようにスライドも視覚的な主張が強いように工夫されており、あまり聴き取れなかったとしても十分楽しめます。

しかし、最近、よく聞いてみると、けっこうハッタリをかましている方々が多いことに気付きました。つまり、「いやいや無理だろべ」というようなこともサラリと言ってのけている研究者というのがそこそこいるわけです。面白ければいいというか、夢を語るのもアリというか、つまるところ「懐が広い」ということなのかもしれません。
おそらくですが、彼らは長期的な展望に立って、研究を進めているということなのでしょう。つまり、遠い将来の目標を見据えて、今の研究を進めているわけで、現在のデータを「針小棒大に語る」ことで将来の発展性をアピールしているわけです。もちろん、過大妄想を語っても説得力に欠けますが、現在のデータに則って論理的にプロセスを説明することで「針小棒大」を可能にしています。

そして、スライドの図も秀麗なものが多いです。これはおそらく「目で見て判る」ということを重視しているからです。ごまかしが効かないというか、どんなバカでも一目で判るようにするという配慮なのでしょう。
英語でのコミュニケーションは、たまに「一々そこまで言うんかい?」と思うようなことまで一々説明することがありますが、バックグランドが多種多様な方々に接するときにはやはり基本的なことから話さないといけません。それと同じで、どんなに知識がない人でも判るよう噛み砕いて説明することにこちらの人たちは慣れているといいますか、つまりある意味で「親切すぎるほど親切」です。
そういう配慮がスライドの図にも反映される結果、「多くのデータを詰め込んでいるにもかかわらず、とても判りやすい」という秀麗なフィギュアにつながるのではないかと思います。

ぐぬぬぬ、それでは、どういう風に私はプレゼンしたらいいのでしょうか。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」です。まあ、ごたくはいいから、「早く英語プレゼンテーションの準備をしなさい」と自分で自分を叱咤しつつ…
今日も今日とて頑張りますorz

国際生物学賞 International Prize for Biologyについて

2018-04-22 | 学術全般に関して
20日金曜日までで今年の「国際生物学賞 International Prize for Biology」の推薦が締め切られたそうです。
おそらく多くの日本人はこの賞のことをご存知ないと思いますが、本賞は昭和天皇在位60周年を記念して、昭和天皇のご関心が強く、実際に長年研究に取り組んでおられた「生物学」の振興に貢献した科学者を国際的に顕彰するために1985年に設立されました。生物学分野の大部分はノーベル生理学・医学賞の授与分野に含まれないことから、同分野における顕彰としては世界有数の学術賞と思われます。

我が国には他にも国際的に著名な賞が幾つか存在します。
おそらく最も世界的に権威があると思われるのは「高松宮殿下記念世界文化賞 Praemium Imperiale」ではないでしょうか。この賞は芸術分野に与えられますが、ノーベル賞が文学以外の芸術分野をカバーしていないことから、同分野では世界最高峰の名誉とも言われているそうです。残念ながら私自身は芸術には疎いですが、このような顕彰活動を通じて、日本が世界に貢献しているのを嬉しく思います。
また、自然科学分野をカバーする賞としては日本国際賞と京都賞が有名です。とくに後者の京都賞は、自然科学分野だけでなく哲学・芸術分野に対する表彰も行っており、様々な点で特徴的な内容となっています。
ノーベル賞だけでなく様々な賞や顕彰が世界にはあり、色々な形で科学振興が図られているのですが、日本は先進国として多くの貢献を果たしていると思います。

さて、国際生物学賞についてです。
この賞の設立に取り組まれた東京大学名誉教授の毛利秀雄先生の著書によると、当初は「国際恩賜賞」という名称にする動きがあったようです。すでに国内には皇室から授与される「恩賜賞」が各分野にあり、本賞もその一環とする構想が当時の宮内省、文部省にはあったようです。しかしながら、当の昭和天皇が「恩賜」という言葉に含まれる印象(royalやimperialという言葉にはすこし帝国主義的な響きが含まれます)を避けるご意思を示されたことから、国際生物学賞という名称に落ち着いたという経緯があったそうです。
「日本の賞なのだから、日本国際賞や京都賞のように、『日本らしさ』を名称に盛り込んだら良かったのに」という意見を述べた元日本分子生物学会長もいましたが、私はこの国際生物学賞という名称で本当に良かったと思っています。たしかにシンプルではありますが、政治的な意図はなくただ純粋に生物学を振興したいと願った昭和天皇のご意向が正しく反映されていると感じるからです。

この賞の歴代受賞者の中には、大隅良典・東京工業大学栄誉教授のようにノーベル賞を受賞された方もいますが、基本的にはノーベル賞とは関係がない純粋な生物学領域において貴重な貢献をして、将来は教科書に名前が残るであろう人物に与えられています。こういう方々に対してすこしでも報いる賞が日本にあるというのはとても素晴らしいことではないかと思うのです。たとえば今年の表彰分野は「古生物学」とのことですが、本賞を通じてそのようなマイナーな分野(といったら怒られるかもしれませんが)に注目が集まるのは良いことだと思います。

もともと日本の皇室は、昭和天皇、今上天皇、秋篠宮など、代々、生物学への関心がきわめて高いことで知られています。学者君主というのは、もしかしたら戦時にはすこし頼りなく思われることもあったかもしれませんが(昭和天皇の生物学研究に対して批判的な侍従武官がいたというエピソードがあります)、しかし、学術を通じて人類の繁栄を希求するというのは平時においてはとても素晴らしい姿勢ではないでしょうか。
私は、日本の皇室の在り方について色々な意見があるのは知っていますが、国際生物学賞の顕彰という形で世界に貢献しようとする日本の姿勢はもっと評価されても良いように思います。そして、もっと多くの方々にぜひ国際生物学賞を知ってもらえたらと思うのです。

Nature & Scienceについての雑感

2018-04-15 | 学術全般に関して
生命科学分野では、中枢神経系(Central Nerve System, CNS)をもじって、主要な科学ジャーナルであるCellとNatureとScienceをまとめてCNSと呼びます。たしかにこれらのジャーナルは注目度が高く、例えば2012年にノーベル賞を受賞された山中伸弥教授のiPS細胞の論文は2006年と2007年にCellに掲載され、世界中に衝撃を与えました、しかし、Cellは所詮は細胞生物学専門誌であり、どうやっても物理学、化学の論文は掲載されません。したがって、自然科学全般において主要なジャーナルとはやはりNatureとScienceだろうと思います。実際、両ジャーナルが創刊されたのは19世紀のことですが、以降、自然科学における重大な発見の多くはいずれかのジャーナルに掲載されるようになりました。

先日、NatureとScienceを読んでいたら、母校の医学部の某教室からの論文が掲載されていて、びっくりしました。
筆頭著者のAさんについて、彼の学生時代から知っていましたが、たしかに優秀な方でした。それにしても、あそこの教室の論文生産性は高くて、本当に凄いなと感心します。主任教授はかなり変わった方で(変人でなければ医学部教授にはなれないとも言えますが)、私が医学生だった時に受けた講義は酷いものでしたが、研究面ではたしかに優秀なのでしょう。最近では、他にも変性疾患の診断に有用な新薬を作ったと伺っており、そちらも噂通りならばおそらくNatureかScience級の論文になるでしょうし、あるいは臨床医学系のジャーナルに出すのであれば世界最高峰であるNew England Journal of MedicineやLancetを狙うのかもしれません。あの教室からはこれまでにも日本や米国の医学部に教授を輩出してきた伝統があるのですが、今後もAさんはじめ教授になったりして活躍する方たちがどんどん出てくるのかもしれません。
私の母校の医学部は、10年代になってから毎年Nature、Scienceに論文を載せており、研究面で活気が出ています。Aさんの論文は私の知る限りではこれが初なのではないかと思いますが、いきなり特大級の場外ホームランといったところでしょうか。今後も医学研究を頑張って頂ければと思います。

一昔前まで、医学部基礎系の教授になるためには、NatureやScienceに論文をできれば数報は掲載させなければならないと言われていました。
実際、80年代、90年代、00年代くらいまでは、日本を含めて世界の幾つかの大御所ラボからは定期的にNatureやScienceに論文が出ており、そういう研究室に留学したりして、うまく成果をまとめられれば、NatureやScienceに論文が出せるという計算がありました。日本でも例えば沼研、本庶研、谷口研、岸本研、廣川研、長田研など、毎年NatureやScienceに論文をガンガン出すような大御所ラボがありました。そして、そういうラボの出身者が日本の各医学部基礎系の教授に就いてきたわけです。
しかし、最近では自然科学の研究分野はどんどん細分化が進み、研究者人口もどんどん増えてきました。一方でNatureやScienceには毎週限られた紙面しかないわけで、その紙面をめぐっての競争は年々激化しています。実際、10年代に入ってから、もはや毎年NatureやScienceに論文を定期的に掲載させることができるラボというのは、世界的に減少してしまいました。それだけ競争が激しくなってきたのだろうと思います。
そういう状況を鑑みて、最近ではどの医学部でもNatureやSicenceの論文の数に依らない教授選考を行うようになってきたと感じます。はっきりした指標がないので判りにくくなったとも言えるのかもしれません。

上記のように一つのラボから有名な科学ジャーナルに論文をガンガン出すのは難しくなってきています。
それでは米国や英国の著名な学術機関ではどうしているのかというと、毎年NatureやSicenceに論文を出せるラボがなくなってきたならば、2~3年に1回そういう論文を出せるラボを2~3個増やすことで、結果として毎年出せばいいじゃないという物量戦略に出ています。つまり、研究科や研究所を新たに増設して、研究グループの数を増やす作戦です。Harverd、MIT、Cambridgeなどでは積極的に研究グループを増やしています。中国やシンガポールも同様です。
しかし、残念ながら、日本の主な学術機関には金がなく、そういう戦略を真似することが出来ずにいます。このままではジリ貧というやつですね。今回Aさんが成し遂げたように「個の力が重要だ」「個の力をアップさせて世界と戦うしかない」という、まるで何処かの国のサッカー代表みたいな考え方もありますが、もっと国家として研究・開発の競争に打ち勝つための戦略を展開しなければ、日本はこの先マズいのではないかと私は思います。

まあ、他人様のことはともかく、私もNatureやScienceにいつか自分の論文を載せてもらえるよう頑張ります。

Lord Joseph Lister

2018-04-05 | 学術全般に関して
4月5日は「近代外科学の父」と呼ばれるジョゼフ・リスター卿(初代リスター男爵)Lord Joseph Lister (1827-1912)の誕生日です。リスター卿は外科手術における「無菌操作」を行った19世紀最高の外科医の一人として知られ、「世界最古の学術団体」と云われるロンドン王立協会理事長を務めました。1902年には「ノーベル賞よりも難しい」とさえ云われる王立協会最高賞コプリー・メダル Copley Medalを受賞しています。19世紀から20世紀にかけて同時期に活躍したフランスのルイ・パスツール博士 Louis Pasteur、ドイツのロベルト・コッホ医師 Robert Kochと並び称される医学界の大偉人ですね。

創傷部位の消毒というのは現在では常識ですが、19世紀中頃にリスターが明らかにするまではその重要性が判ってはいませんでした。
おそらく医療人としてその必要性を初めて見出したのはハンガリー人産婦人科医のイグナーツ・ゼンメルヴェイス医師 Ignaz Semmelweisであったと思われます。彼は「死者から出る臭い」が手術道具を介して患者に伝わり産褥熱に至ると考えて、その臭いを落とすために塩素などを使って手術道具を前処理し、結果として消毒していました。そのおかげで多くの妊婦が産褥熱の脅威から救われたと云われます。この功績を称えて、今日ではゼンメルヴェイスは「母親たちの救い手 saviour of mothers」と呼ばれています。しかし、前述の通り、彼自身は消毒の科学的意義を明らかに出来ておらず、当時の医学界から彼の主張は受け入れられませんでした。
消毒の科学的意義が明らかになるには、ルイ・パスツール、ロベルト・コッホらによって微生物と伝染病との関係性が明らかにされるのを待たなければなりませんでした。とくに1861年にパスツールが「白鳥の首型フラスコ」を用いた有名な実験によって「生命の自然発生説」を覆したことが重要でした。
このパスツールの成果が、消毒法の開発に至る重要な示唆と着想を、当時、グラスゴー大学医学部教授を務めていたリスターに与えたようです。つまり、空気中には微生物が漂っていること、また手術器具や術者との接触などを介して、創傷部位に微生物が付着(感染)し、患者が術後に敗血症を呈するということにリスターは気付いたのです。そして、彼はフェノールを用いた術野の消毒と無菌操作の技術的開発に着手したのでした。これが近代医学史上のブレイクスルーとなり、その結果として外科手術の安全性が劇的に向上し、多くの患者の命が救われることになりました。

Joseph Lister. On the antiseptic principle in the practice of surgery. Lancet 1867:90;353–6. doi:10.1016/s0140-6736(02)51827-4

1867年にすでに刊行されていた医学ジャーナルThe Lancet(現在、このジャーナルは世界最高峰の臨床医学誌として知られています)に彼の論文が発表され、おそらくそれを目にしたウィリアム・ウィリス医師 William Willisを介して、明治初期の日本へ外科手術時における無菌操作の科学的重要性が伝わったと言われます。

このリスターの成果は医学界のみならず広く評価され、国内外の様々な栄誉を受賞することになりました。そして、リスター自身も外科医として引退した後、前述のようにロンドン王立協会理事長を務めたり、英国王エドワード7世の手術の相談を受けるなど多彩な活躍をしました。1891年にリスターらによって設立された医学研究所は、現在も「リスター予防医学研究所 Lister Institute of Preventive Medicine」として存続しており、医学研究機関として、また医学分野における研究助成団体として機能しています。
実は、私自身もかつてこのリスター研究所から奨学金を頂戴したことがあります。

現代を生きる我々は、もはや当たり前のように創傷部位を消毒し、その恩恵を受けています。しかし、その背景にはリスター卿をはじめ偉大な先達たちの努力があります。あらためてリスター卿に感謝したいと思います。

放射線小咄 ~Wilhelm Röntgenの誕生日

2018-03-26 | 学術全般に関して
25日日曜日から再び英国は夏時間期間に突入し、日本との時差は9時間から8時間へなりました。つまり、1時間損した気分です。本日、大学院で友人と会った時に「軽い時差ボケがあるよね」という会話になりました。たしかにちょっと眠いような気もしますね。

27日火曜日はドイツ人物理学者ヴィルヘルム・レントゲン Wilhelm Röntgen博士の誕生日です。
放射線の研究に携わっている人間としては、X線を発見して第1回ノーベル物理学賞を受賞したこの偉人に対して、やはり経緯を払いたく思います。今日の放射線医学の原点は、間違いなく、彼の優れた洞察力にあったといえます。おそらく今日の先進国において、生まれてから1度もレントゲン撮影やCT撮影をしたことがない人はいないと思われます。現代を生きる我々は、やはりレントゲン博士に感謝をすべきなのでしょう。

「Serendipity セレンディピティ」という言葉があります。
偶然のような幸運や予期せぬ発見に恵まれることを言います。自然科学史上、このセレンディピティは数多くの大発見に関係しているように思われますが、レントゲン博士による「X線の発見」もその一つと言われることがあります。
たしかに、当時、陰極線の性質を研究していたレントゲン博士は、1895年11月8日に偶然、X線を発見しました。その時の状況は色々な媒体によって語り継がれていますが、レントゲン博士が研究者として非常に素晴らしかったのは、この正体不明だったX線の基本的性質を明らかにするためにすぐに種々の実験を行ったことです。とくに磁気に曲がらないことを見出したことによって(陰極線は電子の流れなので当然磁気で曲がる)、このX線が陰極線とは異なる新しい現象であることを確認し、さらにその透過性などまで検証しています。
しかも、奥さんの手の骨の透過像を現像して、視覚的にX線の持つ有用性を判りやすく示したのです。これらの実験結果によって、X線という人類史上において画期的な発見は人々に受け入れられたのでした。
ただ見つけるだけでなく、それが何かを明らかにしようとした点に、すくなくとも新種の現象を見ていることを確認したことに、レントゲン博士の真骨頂があったといえます。つまり、X線を見て、それが「新しい何かである」と示すことが出来た、世界で初めての人がレントゲン博士だったわけです。発見とはえてしてそういうものでしょう。

かつて、医師でないにもかかわらず史上最も重要な医学者とたたえられたフランス人医化学者 ルイ・パスツール Louis Pasteurはこう言いました。

幸運は準備された心のみに宿る
Chance favors the prepared mind

けだし名言であります。

欧州に放射性物質が拡散!?

2018-02-15 | 学術全般に関して
昨日付けでScienceに掲載された記事に驚きました。
タイトルは「ロシアでの使用済み核燃料の取り扱いミスによって欧州に放射性物質(放射能)が拡散したのかもしれない Mishandling of spent nuclear fuel in Russia may have caused radioactivity to spread across Europe」となっており、内容は昨年9月と10月に欧州のほぼ全域で検出されたルテニウム106 ruthenium-106という人造放射性同位体元素は、おそらくロシア南部のオジョルスク Ozyorsk近郊にあるマヤーク核技術施設 Mayak nuclear facilityから漏出したものであると、パリのフランス放射線防護・原子力安全研究所 French Institute of Radioprotection and Nuclear Security (IRSN) の研究者が指摘したというものです。
ロシア政府は事故が起きたことを否定しているものの、飛散した放射性物質の由来についてはロシアの科学者たちの間でも意見が割れているようです。

私は恥ずかしながら知らなかったのですが、昨秋に欧州ではルテニウム106を含む「原子雲 nuclear cloud」(広島、長崎の原爆投下後に生じた雲のように放射性物質を含む雲のこと)が見つかったことが大きな問題となっていたようです。ルテニウム106は自然環境には存在しない同位体なので、間違いなく人為的な原因があると考えられていました。
そして、当時の天候などを鑑みたコンピューターモデル解析などを行って、この原子雲が何処から来たのかを欧州中の研究者たちが解析した結果、おそらくロシア南部のマヤーク核技術施設だろうという意見が国際的に支配的であるようです(ただし、もちろん、ロシアは否定)。

思い出されるのは、福島です。
日本では2011年の福島第一原発事故があり、残念ながら、東日本どころか世界中に多量の放射性物質が放出されました。当時、現場レベルで原発事故の拡大を防ぐために様々な対策が執られ、その後も色々な対応が図られてきた結果、なんとか事態は収束に向かいつつあります。しかし、今もなお福島県の一部では放射線の空間線量率が高い地域があり、「完全に元通り」になるにはもうすこし時間がかかることでしょう。

今回どうして人工の放射性物質が欧州中に巻き散らかされたのか?
一刻も早い原因究明と適切な対応が望まれますね。

ウィリアム・ウィリスの母校探し

2018-01-09 | 学術全般に関して
昨年末からウィリアム・ウィリスWilliam Willisの母校を探しています。
母校と言っても、彼が通ったことが判っているグラスゴー大学、エディンバラ大学ではなく、その前のスクールです。日本で言うところの高等学校、ハリー・ポッターで言うところのホグワーツにあたるでしょうか。私もエニスキレンEnniskillenにある某スクールを調査したのですが、ウィリアム・ウィリスが在籍していたという証拠は見つかりませんでした。グラスゴー大学に問い合わせても、相手にしてもらえず。
う~む、万事休す、ですかね。

ウィリアム・ウィリスは、あの『JIN-仁-』(村上もとか、集英社)にも登場しています。現代の脳外科医が幕末にタイムスリップして、当時の人たちを救うという内容で、歴史上の人物たちも大勢登場します。ドラマ化されたりして、一時期大ブームになりました。私もヒロイン役の綾瀬はるかさんは可愛かったので(もちろん今も綺麗ですが)、そのドラマを観ていました。
単行本の2巻で、主人公の南方仁が横浜に行き、その時にウィリスやヘボンなど日本に西洋医学を伝えた偉人たちと出会うシーンがあります(上の写真参照)。ウィリスは東京医学校兼大病院(現東京大学医学部)や鹿児島医学校兼大病院を創立して、高木兼寛ら多くの日本人医師にイギリス医学と英語を指導しましたし、ヘボンは横浜で医師として活躍しただけでなく、ヘボン式ローマ字表記法の開発や、明治学院大学を創立するなど、日本の近代化に大きな役割を果たした人物ですね。主人公は英語で颯爽と彼ら2人に話しかけるという、タイムスリップした医者ならば誰もがやってみたいことをやってのけます。このシーンは私にとっても実に印象深いものがありました。
実際のウィリスは身長190cm以上の巨漢だったということですから、この漫画でももう少しウィリスの姿を大きく描くべきだったのかもしれません。

私もせっかくウィリアム・ウィリスの故郷北アイルランドにいるので、もうすこしウィリスのことを知りたいなと思っているのですが。なかなか調査は進みませんね。

日本近代医学の源流を探して ~湖と遺跡の街エニスキレン~

2017-12-27 | 学術全般に関して
以前のブログ記事にも書きましたが、北アイルランドは明治日本が近代西洋医学を導入する上で大きな役割を果たしたウィリアム・ウィリス医師 Dr William Willisを輩出しています。今回、彼の故郷を訪ねて、「湖と遺跡の街」として知られるエニスキレン Enniskillenに足を運びました。
エニスキレンは北アイルランドの湖水地方の中心地であり、ベルファスト Belfastから南西に約150キロ離れた、歴史と伝統のある街です。近現代では文教都市として、とくにポートラ・ロイヤル・スクール Portora Royal School (現エニスキレン・ロイヤル・グラマー・スクール Enniskillen Royal Grammar School)から高名な文人たちを輩出しています。
よく晴れた冬の日、ベルファストからバスで約2時間かけてエニスキレンに到達した私を待っていたのは、光をたたえた美しい湖水の景観でした。



エニスキレンは上下に分かれるアーン湖 Lough Erneの丁度中間に位置しており、とくに上アーン湖にあるデヴェニッシュ島にある遺跡群は、キリスト教黎明期の遺跡として、かなり有名です。私もその古代修道院跡に行ってみたかったのですが、残念ながら島に渡れるのは春から秋までとのことで、今回は無理でした。冬ですのであまり船が多く行き交っていませんでしたが、夏には水上交通も盛んとのことでした。
たしかに橋から見下ろすアーン川はとても綺麗で、ぜひ船に乗ってみたかったなと思いました。2013年に北アイルランドで開催されたG7はエニスキレンのアーン湖畔が会場だったそうですが、各国の首脳もこの美しい光景には感銘を受けたのではないでしょうか。



上の写真は、エニスキレン・ロイヤル・グラマー・スクールの入り口です。
前身であるポートラ・ロイヤル・スクール(1618年にジェームズ1世によって創立、2016年にEnniskillen Collegiate Grammar Schoolと合併してエニスキレン・ロイヤル・グラマー・スクールになった)からは、19世紀を代表する作家であるオスカー・ワイルド Oscar Wildeや、ノーベル賞受賞作家であるサミュエル・ベケット Samuel Beckettらが卒業しています。医学史に名を遺した人物ではデニス・バーキット医師 Dr Denis Parsons Burkitt, FRSがいるようです。彼は1958年にアフリカでバーキットリンパ腫 Burkitt lymphomaを発見した外科医です。

Burkitt, D. A sarcoma involving the jaws in African children. The British Journal of Surgery 1958;46 (197):218–223.

私がアーン川沿いをぶらぶらと散歩していたら、犬を連れたお爺さんがいきなり「エニスキレン・ロイヤル・スクール(ポートラ・ロイヤル・スクールの通称)はあっちだよ。この道をまっすぐ行って、あそこにバーがあるだろう、あそこを左に曲がって、まっすぐ進みなさい」と声をかけてきました。(えっ、いきなりエニスキレン・ロイヤル・スクールって、なんの話やねん?)とパニクる私。さらにお爺さんの犬が私の手をなめてきて、「フランクな犬だろう、わはは」と去って行きました。とにかく愉快な方でした。



話を戻しますが、ウィリアム・ウィリスは、1837年にエニスキレン郊外のマグワイアズブリッジ Maguiresbridgeに生まれました。
マグワイアズブリッジはエニスキレンから東に約12キロの距離にある村です。コールブルーク川 Colebrooke Riverという小さな川にマグワイア家が架けた橋が村の名前の由来と言われています。その小さな村に住んでいた赤髪のジョージの一家に生まれた7人の子供のうち5番目(四男)がウィリアムでした。
どうして、そのウィリアムが、今から約150年も昔に極東の小さな島国である日本に西洋医学を運んだのか。
医学史好きの私はそのことがずっと気になっていました。私がマグワイアズブリッジを訪ねた顛末記については、後日、きちんと原稿にまとめて、どこかに寄稿させて頂こうかなと思っています♪