・建中3年[782年]成徳將易州刺史張孝忠は李惟岳を裏切り唐朝に帰順した。その功績に対して
成徳軍節度使となり、やがて易定滄三州節度使に移されたが、本拠地は易州であり隣接する定州
と違って滄州は飛び地であり、戦乱が続くなか維持は困難であった。派遣された將程日華は自立し
興元元年[784年]滄州刺史横海軍使に任ぜられた。孝忠は別途軍糧を与えられることであきらめた。
・単一州であるため、近隣の幽州・成徳・淄青から狙われる位置にあったが日華は独立を維持し、
貞元2年[786年]4月海軍節度使に昇進し[方鎮表では3年]、貞元4年11月卒した。
・子懷直が自立したが、唐朝はどうにもできなかったが節度使には任じなかった。そこで貞元5年
懷直は滄州を分割して景州を創設し、その刺史を唐朝の任命に任せた。
唐朝はこれを喜び懷直は節度使に任ぜられた。
・貞元10年[794年]懷直は河北の藩鎭としてはじめて入朝したが、遊猟を好み統治がおろそかになり、
11年9月從父兄懷信に逐われて京師に逃れた。
成徳軍節度使となり、やがて易定滄三州節度使に移されたが、本拠地は易州であり隣接する定州
と違って滄州は飛び地であり、戦乱が続くなか維持は困難であった。派遣された將程日華は自立し
興元元年[784年]滄州刺史横海軍使に任ぜられた。孝忠は別途軍糧を与えられることであきらめた。
・単一州であるため、近隣の幽州・成徳・淄青から狙われる位置にあったが日華は独立を維持し、
貞元2年[786年]4月海軍節度使に昇進し[方鎮表では3年]、貞元4年11月卒した。
・子懷直が自立したが、唐朝はどうにもできなかったが節度使には任じなかった。そこで貞元5年
懷直は滄州を分割して景州を創設し、その刺史を唐朝の任命に任せた。
唐朝はこれを喜び懷直は節度使に任ぜられた。
・貞元10年[794年]懷直は河北の藩鎭としてはじめて入朝したが、遊猟を好み統治がおろそかになり、
11年9月從父兄懷信に逐われて京師に逃れた。