・咸通6年[865年]宰相楊収は安南・邕管への連年の雲南蠻の侵攻に対処するため、
洪州に鎭南軍節度使を置き、兵力・兵糧を蓄積して備えることを提議して認められ。
嚴震の子譔が節度使となった。
・咸通8年[867年]収が収賄により失脚すると譔もまた殺されたが、節度使は必要で
あったため乾符元年[874年]まで残置された。
・その後また都団練観察使となったが管轄は王仙芝・黄巣により荒掠された。
・中和2年[882年]5月撫州刺史鍾傅[団練將で自立]が観察使高茂卿を逐い自立した。
・龍紀元年[889年]唐朝は傅を鎭南軍節度使とした。
・傅は天祐3年[906年]4月卒し、子の時が嗣いだが、これに不満な養子江州刺史延規
は淮南楊渥に降り、9月洪州は陥落して淮南領となった。
洪州に鎭南軍節度使を置き、兵力・兵糧を蓄積して備えることを提議して認められ。
嚴震の子譔が節度使となった。
・咸通8年[867年]収が収賄により失脚すると譔もまた殺されたが、節度使は必要で
あったため乾符元年[874年]まで残置された。
・その後また都団練観察使となったが管轄は王仙芝・黄巣により荒掠された。
・中和2年[882年]5月撫州刺史鍾傅[団練將で自立]が観察使高茂卿を逐い自立した。
・龍紀元年[889年]唐朝は傅を鎭南軍節度使とした。
・傅は天祐3年[906年]4月卒し、子の時が嗣いだが、これに不満な養子江州刺史延規
は淮南楊渥に降り、9月洪州は陥落して淮南領となった。