・貞元21年[805年]程懷信は卒し、子の執恭(賜名され權)が嗣いだ。權は元和11~12年の憲宗皇帝
の成徳攻撃に参加し、元和13年[818年]淮西が平定され、成徳王承宗が徳棣二州を献じて帰服する
のをみて、滄景二州を唐朝に返還帰朝し邠寧節度使に任ぜられた。
・唐朝は滄景徳棣四州をもって横海軍節度使として鄭權を任じた。これにより義武・横海が河北を
分断し。成徳は萎縮し、魏博田弘正・幽州劉總は命を奉じて淄青李師道討伐の体制ができた。
・長慶元年[821年]成徳・幽州が叛し、魏博が蠢動する状況下、河陽鳥重胤を横海に移したが、
重胤は討伐の困難を訴え山西に左遷された。
・その後神策杜叔良が宦官の推薦により赴任したが、長慶二年大敗して罷免された。
・そのため徳州刺史李全略が横海節度となるが、忠武より李光顔が滄景州節度として派遣され、
全略は徳棣節度に移った。
・ところが光顔軍は自潰したため、光顔は懼れて辞任し、全略が徳棣滄景節度使に戻った。
の成徳攻撃に参加し、元和13年[818年]淮西が平定され、成徳王承宗が徳棣二州を献じて帰服する
のをみて、滄景二州を唐朝に返還帰朝し邠寧節度使に任ぜられた。
・唐朝は滄景徳棣四州をもって横海軍節度使として鄭權を任じた。これにより義武・横海が河北を
分断し。成徳は萎縮し、魏博田弘正・幽州劉總は命を奉じて淄青李師道討伐の体制ができた。
・長慶元年[821年]成徳・幽州が叛し、魏博が蠢動する状況下、河陽鳥重胤を横海に移したが、
重胤は討伐の困難を訴え山西に左遷された。
・その後神策杜叔良が宦官の推薦により赴任したが、長慶二年大敗して罷免された。
・そのため徳州刺史李全略が横海節度となるが、忠武より李光顔が滄景州節度として派遣され、
全略は徳棣節度に移った。
・ところが光顔軍は自潰したため、光顔は懼れて辞任し、全略が徳棣滄景節度使に戻った。