唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使史4

2020-10-10 10:00:56 | Weblog
永貞元年[805年]
◎.12月 于頔に同平章事を加えた。

元和二年[807年]
◎.12月 半自立していた于頔は憲宗皇帝が西川劉闢・鎭海李錡などを討つのをみて懼れ歸順を考えるようになった。憲宗は頔を慰撫しようとし、その子季友に皇女普寧公主を尚させた。頔は喜び山東を返上し入朝することになった。

元和三年[808年]
◎.9月 檢校左僕射平章事山東節度使燕國公于頔は入朝し、司空同平章事[宰相であるが実権はない]となる。代わって財政官僚の右僕射裴均[字君齊]が檢校左僕射同平章事襄州長史充山南東道節度使郇國公なった。均は幕僚出身の文官で宦官と結び贈賄で出世してきた。

元和四年
◎.4月 裴均は銀器一千五百兩を違例で皇帝に献上した。

元和五年
◎.3月 淮西では申州刺史吳少陽が少誠の子を殺して自立した。少陽は唐朝に従わなかったが、攻撃的ではなかったため、境界部は一応平穏だった。

元和六年
◎.4月 文官の戸部侍郎判度支李夷簡[字易之]が檢校禮部尚書襄州大都督府長史山南東道節度使となった。
◎. 夷簡は、貞元時から対淮西防衛のために来ていたが、老衰して実体が無くなった江西兵五百[曹王皐が連れてきたものであろう]を廃止して節減した。
◎.5月 前檢校左僕射平章事山南東道節度使裴均は卒した。

元和八年
◎.正月 山南東道節度使李夷簡は檢校戸部尚書成都尹充劍南西川節度使へ。戸部尚書袁滋[字德深]が檢校兵部尚書襄州刺史充山南東道節度使となった。
◎. 滋は文官で極めて能政、無駄な出費と考え淮西融和派である。

元和九年
◎.9月 淮西節度使吳少陽が卒し、子の元濟が自立し、継承承認を求めて、周辺の許州舞陽縣等四縣へ侵攻した。
◎.9月 融和派の山南東道節度使袁滋は檢校兵部尚書兼江陵尹荊南節度使へ、代わって有能な武官の検校右僕射荊南節度使鄭国公嚴綬が檢校司空襄州刺史山南東道節度使となった。
◎. 10月
山南東道節度使嚴綬が兼充申光蔡等州招撫使として諸道兵を率いて吳元濟を討つことになった。内常侍知省事崔潭峻がその監軍となった。綬は將士に多額の給与を与えて甘やかし、宦官に贈賄して軍費を浪費していった。

元和十年
◎.正月 嚴綬は蔡州の境界へ出兵した。淮西吳元濟が削官された。
◎.2月 嚴綬軍は磁丘で淮西軍に敗れ、唐州へ退却した。
◎.10月 征討体制の立て直しのために山南東道を二分割し、文官の戸部侍郎李遜[字友道]を襄州刺史充襄復郢均房節度使として統治と供軍を担当させ、神策軍出身の武官右羽林將軍高霞寓を唐州刺史充唐隨鄧節度使とし軍事に専念させた。霞寓は宦官と結びついた将軍で、勇敢ではあるが將才のない軍人であった。
◎.11月 失敗した山南東道節度使嚴綬は罷免され太子少保となった。

元和十一年
◎.3月 唐鄧節度使高霞寓は淮西兵を郎山に破ったとした。唐朝軍の常として小勝を上げると大げさに戦勝報告をする。
◎.6月 高霞寓は鐵城で大敗し敗走した。軍が潰滅したため、宦官達も隠すことができなかった。
◎.7月 高霞寓は貶歸州刺史、李遜もまた太子賓客→恩王傅へ貶された。敗戦は、李遜が將士を礼遇したため、唐州の霞寓軍から將士が襄州に逃亡し、弱体化したためだと、責任を問われないように宦官達が誣告したためである。
◎.7月 河南尹鄭權が襄州刺史山南東道節度使となり、荊南節度使袁滋が唐州刺史彰義節度申光蔡唐隨鄧觀察使[鄧隋唐と淮西申光蔡節度を名目上兼任]として征討にあたることになった。權は進士出身であるが兵法には通じている。袁滋は文官でしかも融和派である。兵権は隨州刺史楊旻が唐州刺史充行營都知兵馬使としてあたることになった。
◎.11月 袁滋は唐州に赴任すると、吳元濟に相互不可侵を求めた。それを知った憲宗は滋を解任し、閑廐苑使太子詹事李愬[字元直]を檢校左散騎常侍兼鄧州刺史唐隨鄧節度使とした。愬は晟の子、聽の兄である。
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