唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使史5

2020-10-11 10:00:51 | Weblog
元和十二年[817年] ここからは特記がない場合は鄧隋唐節度使の記述である。
◎.正月 袁滋は撫州刺史に貶された。確信犯であり、憲宗は滋の統治能力を評価しているので、9月にまた湖南觀察使になる。
◎. 李愬は唐州に赴任し、意気阻喪した軍の再編に努力した。淮西軍は実績の無い愬を軽んじて警戒しなかった。
◎.2月 愬は増兵を求め、昭義、河中、鄜坊兵二千が給された。
そして元濟將丁士良を捕らえて起用し麾下とした。
◎.3月 元濟文城柵守將呉秀琳が愬に降った。鄧隋唐軍の志気も上昇してきた。
◎.4月 唐鄧軍は査岈山を降し、淮西將柳子野を捕ら麾下とした。
◎.5月 唐鄧軍柳子野、李忠義は郎山を破り、守將梁希果を捕らえた。また張柴で騎將李祐を捕らえて腹心とした。
◎.8月 愬は側面から小勝を重ねていたが、淮西の主戦線は北部の郾城であり、そこでは李光顔・烏重胤が、淮西董重質と激戦していたが押され気味であった。そこで宰相裴度は親臨して督戦することになった。淮西軍もまた総力をあげて迎撃態勢を築いた。
◎.9月 愬は呉房縣を取り、淮西の精兵が郾城に集められているのを知った。
◎.10月 愬は裴度に蔡州を強襲する策をつげ承認された。
◎. 愬は全軍を率いて、張柴を陥し、將士に淮西の治所蔡州を襲撃すると告げた。將士は戦慄したが命に従い、大風雪の中を蔡州へ向かった。
◎. 三十年以上も唐朝軍を寄せ付けたことが無い蔡州は無防備で、愬軍はたちまち乱入し、吳元濟を捕らえた。
◎. 淮西主将董重質は軍を捨てて単騎愬に降り助命された。忠武李光顔が軍を慰撫し自軍に加えた。これより忠武軍節度は唐朝軍内最強の部隊となった。
◎. 宰相裴度は蔡州に入り、愬より鎭を引き渡され、淮西は平定された。
◎.11月 功績により檢校左散騎常侍隨唐鄧節度使李愬は檢校左僕射襄州刺史充山南東道節度襄鄧隨唐復郢均房等州觀察等使となった。山東節度使は再統合された。
山東襄州節度使鄭權は、13年初に華州刺史潼關防御鎮國軍使へ転じた。

元和十三年[818年]
◎.5月 山南東道節度使李愬は対吐蕃対策として鳳翔尹鳳翔隴右節度使へ転じたが、7月淄青節度李師道征討のため徐州武寧軍節度へ転じた。
山南東道は淮西が平定され安全な土地となり、文官の戸部侍郎孟簡[字幾道]が檢校工部尚書襄州刺史山南東道節度使となった。簡は宰相候補であったがなり損ね、憤懣からか厳格な統治を行いった。

元和十四年[819年]
◎.2月 簡が鄖鄉鎮遏使趙潔を異例に鄖鄉縣令にしたため罰俸となった。
◎.8月 襄州穀城縣に臨漢監牧を置き、山南東道節度使が監牧使を兼任した。
◎末. 山東節度使孟簡が太子賓客分司に左遷された。部下を専殺したことと、それを宦官吐突承璀に贈賄してもみ消そうとしたことによる。

元和十五年[820年]
◎.正月 檢校兵部尚書劍南東川節度使李逢吉[字虛舟]が襄州刺史充山南東道節度使となった。宦官と結託している人物であり、「牛李の党争」の牛派の頭目として、李派の裴度と対立している。淮西・成德征討に消極的で憲宗に排除され東川に逐われていたが、穆宗皇帝になつて勢力を回復してきた。

長慶二年[822年]
◎.2月 前成德軍節度使牛元翼を檢校工部尚書襄州刺史充山南東道節度觀察臨漢監牧等使としたが、元翼は深州で反乱していた王廷湊に包囲されていた。深州刺史元翼は節度使田弘正を殺し自立した廷湊に従わず、唐朝から深冀節度使→成徳軍節度使に任ぜられていた
が孤立して戦っていた。
◎.2月 元翼が包囲され赴任できないので兵部郎中知制誥馮宿が檢校左庶子充山南道節度副使權知襄州軍府事として代理を務めた。
◎.3月 李逢吉は穆宗の太子時代の師傅であり、宰相復帰を求めて宦官に運動し、兵部尚書となった。
◎.3月 元翼は包囲が緩んだ隙に脱出したが、残った將士は廷湊に殺された。

長慶三年[823年]
◎.5月 山南東道節度使牛元翼が卒した。元翼が死んだことを聞いた成德王廷湊は抑留していた元翼の家族を皆殺しにした。
◎.5月 尚書左丞柳公綽[字起之]が銀青光禄大夫検校戸部尚書襄州山南東道節度等使となった。公綽は厳正な人物であった。
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