・宦官田令孜は失脚後もその兄西川節度使陳敬瑄を操作して影響力を維持していた。
・ところが故將王建[前蜀の祖]の扱いを間違い攻撃をうけることになった。
・昭宗皇帝は令孜を憎み、文徳元年[888年]12月宰相韋昭度を派遣して追討させることとし。
実兵力を持つ王建を永平軍節度使とし、邛蜀黎雅四州を領させて行營諸軍都指揮使とした。
四州は領州とはいえ建が実力で制圧しなければいけないものであった。
・建が卭州に入ったのは大順元年[890年]閏9月である。
・大順2年[891年]8月建は成都を陥し西川留後となり、10月永平軍を廃し西川に統合した。
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