唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

澤潞節度使 相衛節度使 昭義軍節度使 その1

2012-03-06 18:46:11 | Weblog
インフルエンザにかかってしまったため、更新する気力がありませんでした。

・昭義軍節度使は複雑な経過を経て形成され、複雑な末路を経た方鎭である。
・南下する安禄山軍に対して天寶15年[756年]潞州に上黨/潞沁節度使が置かれ程千里が節度使
となり防御態勢がひかれた。
・至徳二年[757年]九月千里は包囲していた賊將蔡希の挑発に乗って捕らえられたが、
潞州自体は陥ちなかった。
・急遽關内節度使王思禮が兼任して防衛にあたった。
・乾元二年[759年]王思禮は河東節度使に転任し、元帥李光弼麾下の鄭陳節度使李抱玉が澤潞節度使
となったが状況は不明瞭であった。
・寶應元年[762年]李抱玉が本格的に入部し方鎭の形ができてきた。
・11月史朝義配下の鄴郡節度使薛嵩が相衛洺邢の四州を以て降伏してきた。廣徳元年[763年]
閏正月嵩は相衛邢洺貝磁六州節度使に任じられた。
・相衛節度使は幽州・魏博・成徳・永平と並び河北の半独立方鎭として存在し、澤潞は唐朝麾下に留まっている。
・廣徳二年[764年]抱玉は鳳翔節度使を兼任し対吐蕃防衛の前線に赴いた。澤潞の留守は從弟の抱真
が守ることになった。
・大暦元年[766年]相衛節度使は昭義軍の號を与えられた。

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