唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

幽州 朱克融の乱

2023-01-07 08:41:08 | Weblog
幽州節度使劉總は父を毒殺し、兄を殺して自立したのですが、病身とその祟りに苦しみ、しかも淄青・淮西が滅亡し、成德・魏博・滄景も唐朝に帰服する情勢をみて自らも帰朝することにしました。そして幽州を三分割することを提案し、一族や不満分子を京師に送り、みずからは出家[天平節度への転任の途次で卒します]しました。

朱克融は滔の孫で幽州の將でしたが、劉總は不満分子とみて京師に送り神策軍の将軍として仕えさせる段取りにしました。しかし穆宗の宰相達は経綸がなく、不満分子を登用することなく放置し、克融達は失望して幽州に戻ってしまいました。

長慶元年3月
唐朝は帰服した幽州に宣武・河東を統治した元宰相の張弘靖を節度使に送り、瀛莫二州を分割して權知京兆尹盧士玫を觀察使として送り込みました。弘靖は藩鎭統治に熟達していると思われましたが、河北三鎮、特に幽州節度は特殊でした。弘靖は宰相が三代続く名門貴族の出身です。唐朝の勢力が及ぶ地域では門地だけで尊重される立場ですが、蕃地と隣接した幽州では節度使は実力のある武将の代表であり貴族ではありません。また幕僚達も現地の実情に疎かったのです。

長慶元年7月
朝廷の威に驕った幕僚達は將士を厳しく取り締まり、武人を軽侮していました。
忿懣な士卒は乱し幕僚達を殺し、弘靖を幽閉しました。
そして統率者を求め、老将朱洄を推しましたが、洄は老齢と辞して子の都知兵馬使克融を薦めました。
克融は軍の支持を得て自立しました。

朝廷は昭義軍節度使劉悟を幽州節度使とし征討させました。

また魏博節度でも節度使田弘正が殺され、都知兵馬使王廷湊が自立しました。

長慶元年8月
克融は莫州を陥し、瀛州では軍亂が起きて觀察使盧士攻を捕らえました。幽州節度使全体が失われました。克融は王廷湊と違って弘靖や士攻達を殺さず継承を求めています。

廷湊と協力して深州を攻囲しました。

長慶元年9月
克融は易州淶水、遂城、滿城三縣を掠奪しました。

長慶元年10月
克融は蔚州に侵攻しました。

易州刺史柳公濟は白石嶺に克融軍を破りました。

昭義劉悟は趙州臨城まで進みましたが、引き返しました。

長慶元年11月
克融軍は定州を攻撃しましたが、節度使陳楚に撃退されました。

長慶元年12月
征討軍主力杜叔良は博野で成德軍に大敗し、唐朝の劣勢がはっきりしました。

陳楚は克融軍を定州望都、莫州清源に破りました。

朝廷はやむをえず、克融を幽州盧龍軍節度使として認めました。弘靖等を害さない穏健さを評価したもので、王廷湊と分離させようとしたのです。

長慶2年正月
克融は滄州弓高縣を陥し、下博を攻め軍糧を奪いました。廷湊との連合を守っています。

魏博軍が潰乱し成德征討も絶望的になりました。

長慶2年2月
朝廷は王廷湊の成德節度使の継承も認めました。しかし廷湊と克融は深州の攻囲を続けます。

克融は張弘靖・盧士玫を釈放しました。

裴度が廷湊・克融に深州解囲を勧告したため、克融は撤兵し、廷湊は包囲を緩め、元翼は脱出しました。



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