唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大和三年 西暦829年 1

2020-04-20 10:07:41 | Weblog
正月、李聽、史唐合兵擊亓志紹,破之。志紹將其衆五千奔鎮州。
反乱した魏博軍を唐朝軍が破り、成德へ敗走させた。

正月、幽州李載義奏攻滄州長蘆,拔之。
幽州軍も本格的に南下し、同捷は追いつめられた。

二月、橫海節度使李祐帥諸道行營兵擊李同捷,破之,進攻德州。
祐はまともに攻撃し、德州を攻め、同捷は本拠滄州に追いつめられた。

四月戊辰,李載義奏攻滄州,破其羅城。李祐拔德州,誅李同捷。
祐は同捷を誘降し、大將萬洪を送って滄州を引き渡させたが、宣慰使柏耆は功を焦って洪を争って殺し、同捷も勝手に誅した。

五月辛卯,貶柏耆為循州司戸。李祐尋薨。
柏耆の専横な行為に驚愕して祐は疾となり卒した。責任を問われ耆は左遷された。

六月、成德王廷湊は占領していた景州を引き渡し、叛将亓志紹を殺したと謝罪してきた。

六月甲戌,魏博軍亂,殺史憲誠。
憲誠は魏博牙軍の専横に悩み、河中節度に転任する予定であった。唐朝はそれに乗じて魏博を魏博貝三州[義成李聽を転任]と、相衛澶三州[憲誠の息子唐を任命]に分割しようとしていた。
ところが聴の赴任が手間取っている間に、状況を知った牙軍が憤激し、憲誠を殺し、将何進滔を擁立して、聴を入れなかった。

八月壬子,以何進滔為魏博節度使,復以相、衛、澶三州歸之。
魏博回収は失敗であるが、財政困難の唐朝は滄景徳棣の回収だけで諦めるしかなかった。

・以降唐末まで河北三鎮回復の機会は来ず、領域は固定された。
・三鎭側も唐朝を実力で脅かす力は既に無かった。
・魏博では牙軍が主体で、節度使は傀儡で実権がなかった。
・幽州では実力主義が中心となり、世襲は困難であった。
・成德では王氏[廷湊の末]が世襲し唐末・後梁に至った。
・滄景徳棣は新任節度殷侑の努力によって再建され、以降唐朝の領域として安定した。

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