唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和元年[正月丁卯に改元] 西暦 806 和暦 延暦25年 2

2020-01-28 10:00:28 | Weblog
二月、山西節度使嚴礪は西川劉闢下の劍州を陥し、刺史文德昭を殺した。

三月丙子,高崇文は東川の治所梓州を回復した。
 劉闢軍は戦わず撤退した。捕らえられていた前節度使李康は解放された、通鑑では責任を問われ処刑され
 たとなっているが、旧紀では雷州司馬に左遷されたことに。旧紀では嚴礪が陥したことになっているがこ
 れは上奏しただけであろう。

三月丁丑,劉闢の官爵を削った。
 正式に叛臣ということになったわけである。単なる形式だが。

三月辛巳,夏綏節度使韓全義が入朝したあとは将軍李演が任ぜられた。しかし全義の甥楊惠琳は従わず自立
 した。朝廷は河東、天德の軍を派して討伐に向かわせていたが、いち早く夏州兵馬使張承金が惠琳を殺し
 て帰伏した。

三月戊申,隴右經略使秦州經略使劉澭を保義軍節度使に昇格させた。
 領州は秦州のままである。河北の幽州節度使劉濟の弟で、兄と争い麾下二千を引き連れて唐朝に帰服して
 いた。唐朝は有能な澭を対吐蕃対策として秦州に置いており、今回の劉闢討伐も澭が担当するのが当然と
 思われていた。この処置は澭の不満を慰撫するためである。澭が起用されなかったのは朱泚の前例を怖れ
 たのかもしれない[德宗の建中年間、幽州節度使朱泚は入朝し、対吐蕃防衛にあたっており、西川への対
 吐蕃防衛にも出動した、しかし四年反して京師を陥し、德宗は奉天城に遁走する事態になった。]

四月丁酉[通鑑]/三月壬辰[旧紀],高崇文は東川節度使となった。
 韋丹は李康の後任として節度使となっていたが、崇文軍に根拠地を与えるべきだと上奏して認められた。
 丹は晉絳観察使に転じた。

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