・貞元3年[787年]淮西李希烈が誅されたが、すぐ呉少誠が自立する情勢下、淮西の許州と永平
の陳州を以て陳許節度使を立て神策系の曲環を節度使とした。
・陳許は淮西より汴州・東都を防衛する要地であり、領域には山岳民を中心とした強兵を擁していた。
環は兵備を整え淮西の侵攻をゆるさなかった。
・貞元15年[799年]環が亡くなると小誠は許州を囲み、留後より昇格した上官涗は劣勢であった。
貞元19年涗が卒すると行軍司馬劉昌裔が昇格し忠武軍節度の號が与えられた。
・昌裔の後には文官の韓皐がついたが、元和9年[814年]淮西呉元濟征討が始まると、副使李光顔
が昇格し河陽鳥重胤とともに征討にあたった。
・元和10~12年にかけて、光顔は淮西軍と激戦を重ねたが決定的な勝利は得られなかった。
12年宰相裴度は自ら督戦し、正面の戦線で攻勢をかけた隙をつき唐隋節度李愬は蔡州を奇襲して元濟を捕らえた。
・元和13年[818年]光顔は忠武兵を率い義成節度使となり、対淄青李師道戦に向かった。
の陳州を以て陳許節度使を立て神策系の曲環を節度使とした。
・陳許は淮西より汴州・東都を防衛する要地であり、領域には山岳民を中心とした強兵を擁していた。
環は兵備を整え淮西の侵攻をゆるさなかった。
・貞元15年[799年]環が亡くなると小誠は許州を囲み、留後より昇格した上官涗は劣勢であった。
貞元19年涗が卒すると行軍司馬劉昌裔が昇格し忠武軍節度の號が与えられた。
・昌裔の後には文官の韓皐がついたが、元和9年[814年]淮西呉元濟征討が始まると、副使李光顔
が昇格し河陽鳥重胤とともに征討にあたった。
・元和10~12年にかけて、光顔は淮西軍と激戦を重ねたが決定的な勝利は得られなかった。
12年宰相裴度は自ら督戦し、正面の戦線で攻勢をかけた隙をつき唐隋節度李愬は蔡州を奇襲して元濟を捕らえた。
・元和13年[818年]光顔は忠武兵を率い義成節度使となり、対淄青李師道戦に向かった。
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