唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宰相一覧[除皇族]39.李義府

2015-01-20 10:03:12 | Weblog
李義府。字は?。
瀛州饒陽人也。
祖は梓州射洪縣丞と言うが家門は低い。
貞觀八年李大亮に推薦され對策に合格し門下省典儀。
ついで監察御史。
晉王に仕えもその立太子とともに太子舎人崇賢館直學士
文辭や修史にすぐれていた。
高宗が即位すると中書舎人。
永徽二年兼修國史・弘文館學士。
しかし寒門出身のため長孫無忌等の貴族集団からは冷遇されていた。
反感からか高宗が武氏を立后しようとするのを強く支持する。
その功績により中書侍郎同中書門下三品・監修國史・廣平縣男。
有力な武后支持派となり、武后より寵遇される。
表面的には人となり融和であるが、内心は冷酷であり「李貓」と言われる。
顯慶元年に本官兼太子右庶子・進爵為侯。
罪人の美女を私して弾劾されるなど品位は賤しいものがあった。
兼太子左庶子。
二年中書令兼檢校御史大夫監修國史學士に昇進。
ついで加太子賓客,進封河間郡公。
私欲を追い、収賄に励む。
杜正倫に告発され帝前で争い両人とも地方へ出され普州刺史。
しかし則天の支援により
四年復召義府兼吏部尚書同中書門下三品と宰相に返り咲く。
龍朔二年司列太常伯同東西台三品。
あいからわず収賄・売官・専権が目立ち、高宗に嫌われるようになる。
殷王府兼王府長史。
三年右相・殷王府長史仍知選事に移る。
さすがに則天も庇いきれなくなり
龍朔三年除名され流される。
それでも則天の力で赦されると期待していたが、
乾封元年の大赦に預かれず、50才で憤死。
如意元年則天時代となり贈揚州大都督。
子の湛は右散騎常侍・襲河間郡公となった。
[宰相履歴]
①永徽6年7月守中書侍郎参知政事~顯慶2年3月兼中書令
兼檢校御史大夫仍太子賓客~3年11月貶
②顯慶4年8月吏部尙書同中書門下三品~龍朔3年正月右相~4月流
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