唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

陳許忠武軍節度使 その4

2012-12-06 16:47:05 | Weblog
・危機に瀕した陳州趙犨は救援を求め忠武周岌、武寧時溥、宣武朱全忠が来援したが勝てず、
中和4年[884年]沙陀李克用が河東より南下して巢を大破した。
・11月鹿晏弘はその狭量と宦官田令孜の策動により王建・韓建等配下が離脱したため山西を棄て、
山南劉巨容を逐い、12月故郷の許州に戻り周岌を逐って自立し節度使と称した。
・光啓元年[885年]巢の残党を引き継いだ秦宗權は河南南部を制覇し、陳州犨は宣武朱全忠にたよった。
・光啓2年7月宗權は許州を陥し、晏弘を敗死させた。
・龍紀元年[889年]全忠は宗權を執えて誅し、犨を忠武軍節度使とした。治所は陳州に移った。
・犨はすぐ卒し、弟の昶が嗣ぎ、乾寧2年[895年]さらに弟の珝が嗣いだ。
・天復元年[901年]全忠に同華節度使韓建が降伏し、忠武に移され、珝は同州節度使となった。
この時治所は許州に戻った。
・その後は全忠の勢力圏として後梁に引き継がれた。


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