唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史2

2020-11-25 09:51:35 | Weblog
上元二年[761]
◎.正月 田神功は劉展を蒜山に敗死させ、与党を平定しました。そして各地を大掠し、6月、開府儀同三司を加えられ徐州刺史に任じられました。

◎.6月 都統李峘は敗戦の責任を問われ袁州司馬に貶されて病死した。浙西節度使侯令儀も流されたが淮南鄧景山は責任転嫁に成功し10月に尚書右丞となり京師に戻った。

◎. 刑部尚書王璵が兼揚州長史御史大夫充淮南節度使兼祠祭使となるが、すぐ使持節都督越州諸軍事越州刺史浙江東道節度觀察處置使に転じた。璵は儀典好きな肅宗皇帝によって宰相に登用されたが政治能力はなく解任され刑部尚書兼祠祭使となっていた。実際に赴任したかは不明である。

◎.2月 太子詹事兼汾州刺史趙國公崔圓が檢校吏部尚書御史大夫揚州大都督府長史淮南節度観察使として赴任した。圓は劍南節度使から元宰相を経て太子少師兼東都留守の時、史思明の勝利に脅えて東都を早期に放棄した責任で左遷されたが復活してきたわけである。行政能力はあり、淮南節度使を立て直していった。

◎.10月 唯一人劉展に抗戦した李藏用は楚州刺史に昇進したが、まもなく崔圓に乱中の官物散逸の責任を取らされて殺された。

◆.永泰元年[765]
◎. 蘄黄州隷鄂岳

永泰二年/大暦元年[766]
◎.6月 特進檢校吏部尚書御史大夫淮南節度使崔圓、加検校右僕射知省事。

大暦二年[767]
◎.是年 崔圓、転檢校左僕射知省事、節度使如故。

大暦三年[768]
◎.6月 特進檢校左僕射知省事淮南節度使崔圓卒。64才。贈太子太師,諡曰昭襄。

◎.閏6月 尚書右丞韋元甫、揚州州大都督府長史兼御史大夫淮南節度觀察使となる。政績は特にないが安寧を保った。

◎.是年 平盧行軍司馬許杲は淮南領域の濠州を不法占拠して淮南侵入を狙っていた。節度使崔圓は副使驍將張萬福を攝濠州刺史として対応させた。たちまち杲は濠州から退去し楚州を狙った。萬福は和州刺史行營防御使に転じて杲を逐い、12月その党を誅した。また賊陳莊が舒州を陥し、萬福は攝舒州刺史としてこれも誅した。

大暦六年[771]
◎.8月 節度使韋元甫卒。諸將は張萬福の継承を願い、監軍使も同意したが、萬福は「節度使には向いていない」と拒否し、領利州刺史として咸陽に鎭して防秋にあたった。

◎.8月 御史大夫張延賞[宰相嘉貞の子.本名は寶符であり、延賞は賜名]が宰相元載に敬遠されて御史大夫兼揚州大都督府長史淮南節度觀察等使になり旱天の災害に対応し政績を上げる。

大暦八年[773]
◎.10月前 延賞は母憂のため去職する。11年4月に喪が明け荊南節度使となった。

◎.10月 越州刺史兼御史大夫浙東觀察使陳少游が銀靑光禄大夫揚州大都督府長史充淮南節度使.穎川縣子となった。少游は幕僚あがりの能吏であるが、宦官と深く結託して贈賄に励んでいた。

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