唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李抱玉/安抱玉伝

2019-05-05 10:08:32 | Weblog
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李抱玉/安抱玉伝
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抱玉、姓は安、始名は重璋,唐初に涼州李軌を裏切り唐朝についた興貴の曾孫。

代々河西に住まい馬を飼っていた。

騎射にすぐれて從軍。李光弼に仕え河西で吐蕃と戦い有功、改名。

安祿山の乱に南陽を守る。

至德二載、祿山と同姓であることを恥じて賜姓を求め、舉族籍京兆。

特進より右羽林大將軍知軍事に至り、
乾元二年四月/九月.鴻臚卿員外置同正員持節鄭州諸軍事兼鄭州刺史攝御史中丞鄭陳穎亳四州節度使となる。

十月.史思明と河陽に戦い守り、懷州を回復したがその後敗走した。

元年建辰月.澤州刺史兼御史中丞[陳鄭澤潞節度使]、欒城縣公。

寶應元年建巳月.史朝義兵を澤州に撃退。

十一月.賊鄴郡節度使薛嵩を帰降させる。

辛雲京等と副元帥僕固懷恩を讒言し反させる。

寶應二年六月/八月.正任司空/検校司空,封武威郡王。

代宗立.澤潞節度使潞州大都督府長史兼御史大夫加領陳、鄭二州.兵部尚書となり相衛儀邢十一州兵を率いる。
  
二年九月.対吐蕃防衛のため、澤潞は従弟抱眞に任せて正任司徒充南道通和吐蕃使鳳翔秦隴臨洮已東觀察使となる。

十一月.吐蕃の侵攻により崩壊した軍兵による京師南方の南山群盜を平定。

永泰元年正月.兼鳳翔隴右節度使、從弟殿中少監抱真が澤潞節度副使

永泰元年三月.司徒を辞し、檢校左僕射[正任説もある]同中書門下平章事河西隴右副元帥判梁州事兼山南西道節度使となる。

九月.対吐蕃防衛のため鳳翔に屯する。

大暦二年八月.左僕射を辞し兵部尚書。

三年九月.吐蕃を臨洮に破る。

五年正月.來朝。加山南西道副元帥兼節度使
二月.鳳翔節度使を魚朝恩麾下の陝虢節度使皇甫温に譲り盩厔に移治した。
これは絶大な兵権を握り専権を振るっていた宦官朝恩を陥れる代宗皇帝と宰相元載の陰謀の一環だった。溫は既に皇帝側に裏切っていたが、朝恩派であった。
朝恩の率いる神策軍に京師付近の領土を与え、溫の赴任で立場を強くしたようにみせかけ、宮廷内に引き入れて暗殺したのだ。
しかし意図をしらない抱玉牙軍は移治に不満で軍乱を起こした。
朝恩の誅殺後、溫は陝虢に戻り、抱玉も鳳翔に戻った。

四月.統治区域の貧を訴える涇原節度使馬璘に鄭穎二州の統治権を譲った。

六年二月.山南西道副元帥兼節度使を辞する。

九年九月.郭子儀・朱泚とともに対吐蕃軍を分領した。

十年九月.吐蕃の侵攻を隴州に破った。

敵を大破する功績は少ないが、よく兵を鎭撫し、皇帝の親任が篤かった。

十二年三月.卒,年七十四,贈太保,諡曰昭武。

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