・乱後河中は副元帥渾瑊に与えられた。彼は有能な武将であるとともに、貞元15年[799年]に卒するまで小心誠実謹身であり
常に唐朝の意向を伺い行動したので河中軍は以降安定していった。当時の領域は河中府+絳州であり、朔方と邠寧慶を併領していた。
・渾瑊の没後一時河中節度使は廃止(15年~16年)されたがすぐ復された。
・安定した河中はその格の高さや財源の豊富さもあり、元宰相(杜黄裳・張弘靖・李絳・李程)や帰順した有力武将(義武張茂昭.
宣武韓弘.武寧王智興.魏博史憲誠)の赴任地として活用されていった。
・會昌年間[840-846年]以降は元宰相(陳夷行・崔鉉・徐商・杜審權・蔣伸・崔愼由・夏侯孜・曹確等々)・高級文官の赴任地と
なっていったが、4年[844年]昭義劉稹討伐には勇将石雄(元武寧の將)の根拠地となった。
・乾符末、黃巢の乱が拡大するとともに河中軍にも不満が高まり、ついに4年[877年]軍乱により節度使劉がおわれた。
嗣いだ竇が慰撫したが、廣明元年[880年]巢が京師に迫ると、河中府も脅かされ統御ができなくなった文官の李都は逐われて、
將王重榮が自立し黃巢側についた。
常に唐朝の意向を伺い行動したので河中軍は以降安定していった。当時の領域は河中府+絳州であり、朔方と邠寧慶を併領していた。
・渾瑊の没後一時河中節度使は廃止(15年~16年)されたがすぐ復された。
・安定した河中はその格の高さや財源の豊富さもあり、元宰相(杜黄裳・張弘靖・李絳・李程)や帰順した有力武将(義武張茂昭.
宣武韓弘.武寧王智興.魏博史憲誠)の赴任地として活用されていった。
・會昌年間[840-846年]以降は元宰相(陳夷行・崔鉉・徐商・杜審權・蔣伸・崔愼由・夏侯孜・曹確等々)・高級文官の赴任地と
なっていったが、4年[844年]昭義劉稹討伐には勇将石雄(元武寧の將)の根拠地となった。
・乾符末、黃巢の乱が拡大するとともに河中軍にも不満が高まり、ついに4年[877年]軍乱により節度使劉がおわれた。
嗣いだ竇が慰撫したが、廣明元年[880年]巢が京師に迫ると、河中府も脅かされ統御ができなくなった文官の李都は逐われて、
將王重榮が自立し黃巢側についた。
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