唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河中節度使 護國軍節度使 その4

2012-02-26 10:23:59 | Weblog
・自立した王重榮はすぐ唐朝に帰順し、義成に屯し京師回復をめざす都統王鐸に積極的に協力していった。
・中和二年[882年]重榮は黃巢軍の攻撃を撃退し、9月同州に拠る有力な賊将朱温[後の全忠]を寝返らせた。
・中和三年[883年]京師回復に際し功績が大きく使相となった。
・唐朝を牛耳る宦官田令孜は自軍[神策軍]の経費を賄うため河中の塩税を召し上げようとし、
反対する重榮を泰寧節度使へ移そうとした。当然重榮は反発し、河東李克用と結んで移動を拒否した。
・光啓元年[885年]令孜は神策軍や邠寧朱玫や鳳翔李昌符を動員して重榮を攻撃したが、
克用軍の活躍によりもろくも敗れ、再び京師を棄てて興元に逃れた。
この歳河中は護國軍節度の號を受けた。
・光啓二年[886年]にかけて朱玫が僞帝を擁立したが、本来反唐朝的な立場ではない重榮や克用は同調せず、
自然に帰朝することになった。
・光啓三年[887年]6月法を厳しく律する重榮は反発した部下に殺されたが兄重盈が陝虢節度使から
入り嗣ぐことが出来た。
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