唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南 哥舒晃の乱

2022-11-30 08:48:11 | Weblog
哥舒晃は字子亮、元帥として潼関で安禄山軍に敗北した翰の子で、突騎施の酋長の家柄です。淮西李希烈と戦った東都行営節度使曜の弟にもあたります。

大曆八年九月
嶺南節度使廣州刺史呂崇賁[軍人出身]は將で循州刺史哥舒晃に殺されました。
理由は不明ですが、晃単独ではなく広く現地勢力と結びついた反乱です。
廣州交易に対する唐朝の収奪への現地の反感ではないでしょうか。

大曆八年十月
廣州は南蛮貿易の利権がある要地ですので、朝廷は早速江西觀察使路嗣恭に廣州刺史充嶺南節度使に兼任させ、翼國公にして征討させました。

大曆十年十一月
嗣恭にはまともな軍団が提供されなかったようで、嗣恭は南方の暑熱になれた流人孟瑤、敬冕を將とし現地で兵を調達し、容管經略使王翃の援軍と共に廣州に突入し、哥舒晃やその黨萬餘人を殺し京観[斬首した首の山]を築きました。

容管經略使王翃の派兵の留守をねらい、西原賊帥覃問が容州を襲いましたが捕らえられました。

嗣恭には恩賞として檢校兵部尚書が加えられただけです。これは廣州で掠奪した財宝の大半を独占し、自分より宰相元載に高価なものを贈ったという代宗皇帝の妬みからきています。
その後李泌に諫められ反省し知省事を加えました。


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