唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

建中二年 西暦781年 1

2020-03-04 10:01:40 | Weblog
正月戊辰,成德軍節度使李寶臣が卒し、子の惟岳が自立した。
 成德軍は有力諸将の共同体であったため、寶臣は若い惟岳に継承させるため、
 幹部を誅殺し、そのため諸将は猜疑していた。大暦十四年[代宗時]には魏博
 節度田承嗣→悦の継承を認めたが、今回德宗は継承を認めなかった。田悦は継
 承時に寶臣の支援を受けたこともあり、惟岳を推薦した。
 
正月丙子,永平軍節度から分宋亳穎三州を分離し劉洽[後の玄佐]を節度使とした。
 東都留守路嗣恭に懷鄭汝陝四州河陽三城節度使を兼任させた。
 永平軍節度使李勉に三軍を指揮させた。
 すべて対魏博・淄青対策である。李勉は文官である。路嗣恭は文官だが兵事にも
 詳しい。劉洽は軍人である。

二月乙巳,楊炎は德宗の信頼を失いつつあり、佞臣盧杞が宰相となった。
 杞は宰相懷慎の孫、父奕は安史の乱に殺されている。容貌は醜悪、性格は陰険狡
 猾で敵を赦さない。しかし炎は杞が狭量無学と思い警戒しなかった。
 郭子儀は杞と面会する時は必ず単独にした。周囲が杞を嘲笑し恨みを受けること
 を怖れたためという。

二月乙卯,振武軍亂,使彭令芳と監軍劉惠光を殺す。
 自業自得である。

四月庚寅,山東梁崇義を使相とし鐵券を与える。山南東道節度使梁崇義反。
 成德征討に際して南方を慰撫することを考えてした処置であったが、崇義にとって
 は前使來瑱が同じく使相にされて、すぐ殺された前例を思い出す処置となった。
 鉄券とは君主が臣下に対して誓約を行う際に用いる鉄製の割符であり、赦免の時
 によく利用される。
 崇義は以前より反意を抱いていたが、孤立し弱小であるため自重していた。
 隣の淮西李希烈は併呑を狙い、強く山東討伐を主張していた。

五月、田悦は昭義軍領域の邢州・臨洺を攻撃した。
 昭義軍[相衛]が魏博田承嗣に奪われた時、唐朝方に残った地域であり、河北に
 残存する拠点であった。
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