唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮西 吳元濟の乱 1

2022-12-29 08:12:19 | Weblog
元和9年閏8月
淮西節度使吳少陽が卒しました。少陽は罪人を集めたり、隣地の壽州の茶山を掠奪したりと不法は重ねましたが、正面だって反することはない状態でした。子の元濟が自立し、継承に圧力を加えるつもりで許州舞陽を陥し、汝州魯山・襄城・葉四縣に侵攻しました。

山東嚴綬、忠武李光顏、壽州李文通、河陽烏重胤に征討を命じました。

元濟は幕僚達の反対を押し切って反意を示し、呉少誠の婿董重質を謀主としました。

元和9年10月
山東節度使嚴綬が兼充申光蔡等州招撫使となり、内常侍崔潭峻が監軍となりました。

元和10年正月
元濟の官爵を削りました。

元和10年2月
嚴綬は元濟軍に磁丘で大敗し唐州に退却しました。

壽州團練使令狐通は淮西軍に敗れ敗走しました。諸柵は全て淮西に奪われました。
左金吾大將軍李文通が壽州に入り、通は昭州司戸へ左遷されました。

田弘正の子布、韓弘の子公武が忠武李光顏麾下で征討に参加しました。

元和10年3月
李光顏が淮西軍を陳州南頓、許州臨潁で破りました。

呉元濟は王承宗、李師道と結び、継承支援を求めました。

元和10年4月
光顏は元濟軍を南頓で破りました。

元和10年5月
光顏は元濟軍を洄曲/時曲で破りました。
淮西宣慰使裴度は諸軍を巡視し、淮西軍は強く、光顔だけが勇猛であると報告しました。

元和10年8月
光顏は元濟軍に時曲で敗北しました。

元和10年9月
宣武軍節度使韓弘が淮西行營兵馬都統となりました。

元和10年10月
元濟征討のため山東節度使を分割し、戸部侍郎李遜を襄復郢均房節度使として兵站を担当させ、右羽林將軍高霞寓を唐隨鄧節度使として前線にあたらせました。

元和10年11月
山南東道節度使嚴綬は解任され太子少保となりました。

李光顏、烏重胤は元濟軍を小溵河で破りました。

壽州李文通が元濟軍を光州固始で破りました。

元和11年3月
壽州李文通が淮西軍を固始で破り、金敖山を抜きました。

高霞寓が淮西兵を郎山で破りました。

元和11年4月
李光顏、烏重胤が淮西軍を淩雲柵で破りました。

元和11年5月
李光顏、烏重胤が淮西軍を淩雲柵で破りました。
「破った、破った」は戦いました程度のもので恩賞目当ての報告でしかありません。

元和11年6月
高霞寓が鐵城で大敗しました。これは本当の敗戦です。
霞寓は李遜の支援が不十分だと責任転嫁を謀りました。

朝廷では財政的困難もあり征討中止論が噴出しました。

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