唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

澤潞節度使 昭義軍節度使 その3

2012-03-08 10:01:22 | Weblog
・建中2年[781年]抱眞は河東馬燧とともに魏博田悦を臨洺で破った。その後幽州朱滔や成徳王武俊
らが次々と反して形勢が不利となっても一貫して馬燧とともに唐朝側にあった。
・興元元年[784年]抱眞は功により使相となった。5月王武俊とともに經城で朱滔を大破して敗走さ
せ河北の乱を収めた。
・貞元10年[794年]抱眞は卒し、その子緘は自立を図ったがならず、步軍都虞候王延貴[賜名され
虔休]が後任となった。しかし行軍司馬元誼は納まらず洺州をもって自立した。
・貞元12年[796年]形勢不利となった元誼は兵を引き連れて魏博に奔った。
・貞元20年[804年]李元淳(虔休の次)が卒すると兵馬使盧從史が嗣いだ。
・従史は成徳王士眞や盧龍と通じ自立を図っていたが、唐朝に対しては河北を図る策を献ずるなど
両端を持していた。
・元和4年[809年]成徳王承宗を伐つため、招討使吐突承璀(宦官)が派されてくると表面上は協力し、
陰では内通していた。当然討伐は効果があがらなかった。5年承璀は兵馬使鳥重胤の協力を得て従史を
捕らえて京師に送った。後任には河陽節度使孟元陽が就任した。
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