七月には遂王宥[後の穆宗]が立太子した。
八月には魏博節度使田季安が亡くなり、子の懷諫が嗣いだが幼少でもあったため統制がとれず、牙軍は十月一族の田興を立てた。
通常朝廷は自立したものを認める場合はいったん留後とし、軍の正式要請を待って節度使とするのが慣例であったが、憲宗は宰相李絳の提案によりいきなり節度使として認めた。
もともと儒学の徒であり、自分の正統性を危惧していた田興[賜名され弘正]は感激し朝廷に忠誠を誓うことになった。
このため河北の藩鎭は魏博・幽州・義武・横海の朝廷派が優勢となり、成徳・淄青らの反朝廷派は危機感をもつことになった。
八月には魏博節度使田季安が亡くなり、子の懷諫が嗣いだが幼少でもあったため統制がとれず、牙軍は十月一族の田興を立てた。
通常朝廷は自立したものを認める場合はいったん留後とし、軍の正式要請を待って節度使とするのが慣例であったが、憲宗は宰相李絳の提案によりいきなり節度使として認めた。
もともと儒学の徒であり、自分の正統性を危惧していた田興[賜名され弘正]は感激し朝廷に忠誠を誓うことになった。
このため河北の藩鎭は魏博・幽州・義武・横海の朝廷派が優勢となり、成徳・淄青らの反朝廷派は危機感をもつことになった。
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