唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

侯希逸伝

2019-03-21 11:03:15 | Weblog
安禄山が率いる范陽[幽州]節度と平盧軍節度は対奚・契丹防衛
のために一体であった[安禄山も前任は平盧節度使]が、その反
乱に際しては立場が別れることになった。希逸は政治性はなく単
なる武人として唐朝に忠誠であった。

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侯希逸伝
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希逸は平盧の人。

長身で武芸があり營州平盧軍[遼東半島]に入り将として保定城を守備していた。

天寶十四年.幽州安祿山が反し、その腹心徐歸道を平盧節度使にした。

至徳二年.希逸は安東都護王玄志と共に歸道を誅した。
唐朝は喜び玄志を平盧節度使とした。

田神功や董泰[李忠臣]を山東に派遣して安禄山軍と戦わせた。

乾元元年十二月.玄志は病卒し、李懷玉を主とした牙軍は希逸を平盧軍使に擁立し、
唐朝は節度使.御史大夫として擁立を始めて認めた。

平盧は安禄山勢力圏に包囲されて孤立し。
ただ渤海を渡って山東半島と連絡できるだけのみで、
禄山に使嗾された奚や契丹の襲撃を受ける苦しい状況であった。
希逸は將士を激励して賊将向潤客、李懷仙等と戦った。

上元二年五月.史朝義の范陽兵,破之。

しかし孤立無援の状況は好転せず、元年建丑月二万の軍属を率いて平盧を脱出して渤海を渡り
建丙月.青州に達した。そこで先発の田神功や能元皓と合同し、兗州や青州に拠点を置いた。

寶應元年五月.唐朝は希逸を淄青六州平盧軍節度使とした。以降淄青節度は平盧軍名を帯びる。

希逸は淄青に入った当初には兵備を整え、隨軍しているその家族の生活再建のために努力した。

寶應二年.諸軍とともに史朝義を平定し,加檢校工部尚書,賜實封,圖形凌煙閣。

乱後、希逸は気が緩み游畋を好み、塔寺を造営するなど政治が乱れた。

そのため人望は兵馬使李懷玉[高麗人.賜名後正己]に集まった。

永泰元年五月/七月.希逸は懷玉を罷免したが、かえって逐われて京師へ逃亡した。
唐朝はその功績を評価して檢校尚書右僕射、のちに知省事として遇した。

大暦末.淮陽郡王。

建中二年七月.病中の希逸は司空に任じられたがその日に卒した。年六十二。贈太保。

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