唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳74 李大亮

2024-07-17 10:16:21 | Weblog

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李大亮
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父充節は隋朔州總管武陽公であった。

文武才略があり、隋末に韓國公龐玉の行軍兵曹となった。

李密が東都に侵攻したとき、玉は敗北し大亮は將張弼に捕らえられたが助命され麾下となった。

李淵[高祖]が長安を陥すと、大亮は歸附し土門県令となった。
荒廃した縣を亡散を招集し墾田を勧めて再建して賞された。

胡賊が来襲し危機に瀕すると、単独で賊を招撫し歸附させた。
金州總管府司馬に昇進した。

武德三年十一月
王世充領域の樊、鄧を安撫し,十餘城を歸附させた。

安撫大使として王世充沮、華二州を陥す。

四年~七年
遷安州刺史。

また廣州を安撫した。

六年十二月
輔公祏の反時、賊將張善安を捕らえた。

七年十二月
輔公祏の攻撃から籠城する猷州刺史左難當を支援して撃破した。

七年~貞觀元年
遷越州都督。

元年
交州都督/刺史.封武陽縣男。

二年
太府卿

三年~九年
復涼州都督、惠政を称された。

三年十一月
太宗に鷹を献じることを断った。

四年七月
突厥が平定されたが、なお余部の綏大度設、拓設、泥熟特勒及七姓種落が帰服しなかったので
西北道安撫大使として歸附させた。大亮は蛮夷を慰撫して京官にすることを無用とした。

八年
劍南道巡省大使。

十二月/九年閏四月
李靖とともに河東/且沫道行軍總管として吐谷渾を大破した。
進爵縣公.右衛大將軍。

十五年十一月
靈州道行軍總管として兵四萬騎五千で靈武に屯して薛延陀を防いだ。

十七年
晉王が皇太子となると兼太子右衛率

八月
右衛大将軍兼工部尚書兼太子右衛率と三職を兼ねた。

十八年十月
太宗は洛陽に行幸し、京師副留守[留守は房玄齡]となった。

十二月
卒 59才 贈兵部尚書.秦州都督.諡曰懿.陪葬昭陵。

忠勤.清廉で家に余財がんかった。
賜った財物・奴婢は全て解放するか、親戚に散じていた。
また張弼に救われた恩を忘れずに酬いた。


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