唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使史13

2020-12-10 18:09:51 | Weblog
光化二年[899]
◎.正月 楊行密は朱瑾に徐州を攻めさせたが落とせなかった。

◎.7月 楊行密は全忠領域の海州を取った。

◎.10月 淄青節度使王師範支配下の沂、密州が反し、行密は平定に助力した。

光化三年[900]
◎.是歲 楊行密が兼侍中となる。

天復元年[901]
◎.8月 浙江錢鏐が殺されたと誤報をうけ、行密は李神福に本拠地の杭州を攻撃させた。

◎.10月 李神福は錢鏐軍を破り將顧全武を捕らえた。

天復二年[902]
◎.3月 昭宗皇帝は朱全忠を牽制するため、張濬の子李儼を江淮宣諭使とし、楊行密を東面行營都統兼中書令呉王として全忠を討つように命じた。また麾下の朱瑾を領淄青平盧節度使,馮弘鐸を領徐州武寧節度使,朱延壽を領淮西奉國節度使。

◎.4月 楊行密は顧全武と秦裴の捕虜交換を行った。錢鏐は大いに喜んだ。

◎.6月 昇州を以って行密に帰した領武寧節度使馮弘鐸は、富強であり強力な水軍を持っていたが、自らの地位に不安であった。宣州寧國節度使田頵とはお互いに不仲であり、行密の命に従わず、頵を討とうとしたが葛山に大敗した。弘鐸は遁走し海賊となろうとしたが行密は慰撫し淮南節度副使として遇した。

◎.6月 全忠領域の宿州を攻めたが克てなかった。

◎.8月 浙江錢鏐の將徐綰[旧孫儒將]等が宣州田頵と結託して反し、鏐は危機に瀕した。頵は行密に無断で拡張路線に走っていた。9月鏐は行密に子を人質を出して救援を求めた。12月行密は頵に帰還を求め、応じなければ宣州を取り上げると通告したため、頵は綰等を引き連れて退却し、鏐は危機を脱した。

天復三年[903]
◎.正月 淄青王師範が朱全忠の鳳翔包囲[昭宗皇帝を李茂貞が拉致していた]の背後を突き、各地で蜂起させたが大半は失敗した。しかも茂貞は全忠に講和を求め、昭宗を引き渡そうとしていた。全忠は危機を知って、茂貞を滅ぼすことを諦め、妥協することにした。

◎.2月 行密は朱瑾を東面諸道行營副都統同平章事,昇州刺史李神福達を鄂岳行營招討使として鄂岳杜洪を攻撃させた。

◎.3月 昭宗皇帝を確保した全忠は全軍を率いて王師範を攻めた。

◎.4月 王師範は行密に支援を求め、將王茂章が派遣された。


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