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プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

谷口勝範・小林誠

2017-02-19 20:14:36 | 日記
1963年

国鉄球団は三十日、つぎの二選手の入団を内定した。

谷口勝範投手(19)=駒場学園卒、身長1㍍81、体重75㌔、右投げ、右打ち。
小林誠外野手(18)=福島県保原高来春卒業、身長1㍍75、体重75㌔、右投げ、右打ち。

なお、谷口投手は高校卒業後、埼玉県川口市のノン・プロ永幸工場で投げていたが、ことしの七月、野球部が解散したため、国鉄のテストを受けた。
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福原勝

2017-02-19 20:04:13 | 日記
1965年

近鉄の福原は前半は内、外角低めに速球を散らしてゆさぶり、後半はスライダーをうまく使って東京打線を4安打の散発に押え、さる三十六年五月二日の対大毎4回戦(横浜平和球場)で救援勝ちして以来、四年ぶりの2勝目を初の完封であげた。近鉄は六回矢ノ浦、山本八、小玉が妻島の外角高めのタマを3連打して先取点。八回には二死一、二塁から高木が一塁強襲の二塁打を放ってとどめをさした。

福原が東京十五回戦でプロ入り初の完投勝ち。しかも完封でこの白星を飾った。七年前プロ野球に飛び込んだ福原だが、この間70試合に登板、勝敗はわずか一勝四敗。だからこの日の勝星で二勝目。なにしろ、さる三十六年五月二日の大毎四回戦(横浜平和)で救援の初白星をあげて以来のものだけに「やはりうれしいです」とニッコリしていた。前日、伊藤が二年ぶりに今シーズン初勝利を飾ったが、このところ、伏兵大活躍の近鉄投手陣である。
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安部和春

2017-02-19 16:12:41 | 日記
1967年

オープン戦とはいえ、同一リーグ、しかも昨年の二位と三位の顔合わせ。公式戦なみのふんいきがあった。この両者、過去二年間の対戦成績は四十年が14勝13敗で阪神、昨年は逆に中日が15勝11敗と勝ち越している。試合前の打撃練習から西沢、藤本両監督の目の色はすでに違っていた。キャンプで鍛えこんだ中日の燃える野球と阪神の機動力に両監督は互いにさぐりを入れた。とくに阪神は昨年このカード10回戦までに、わずか2勝しかできなかった。藤本監督はグラウンドにくるなり、こういった。「中日は前日に先発メンバーを発表したが、うちは手のうちはみせません。メンバーを落とすかもしれん。しかし、負けられん」こういう藤本監督であるが、ことばことばとはウラハラにベストオーダー。やはり負けたくはなかったし、中日の力をしらべてみたかったのだ。試合前になって初めて安部に先発を伝えた。本番でこうした、抜きうち登板があることを安部に予告したのではなかろうか。昨年、安部は中日戦では1勝1敗、防御率が12回1/3で3・50、この1勝も最終戦でやっとつかんだものだった。中日に強い他の投手に投げさせず、あえて安部を起用したのも、中日に一つの自信をつけさせようというふくみが多分にあった。安部は六度目の登板ではじめて6回1/3も投げたが、よかったのは得意のアベボール。風も変化球に有利、阪神に移籍以来、久しぶりに見せたすごい落ちるタマだった。「なるほど、よく落ちる。こんなタマを持っている安部には気をつけないかん」と江藤はアベボールを再認識。代打ホーマーをカッとばした葛城は「落ちるタマはすごいが、昨年と同じようにフォークボールは決まらない。ワシがねらったのはフォークボールだった」とフォークボールのコントロール不足をすばやく見ぬいた。昨年、16回代打に出て5打席連続安打をはじめ6割6分7厘と驚異的な代打率を上げた男。たった一度の打席で安部の長所と欠点を頭にたたきこんでいた。中日は、近鉄から移籍した久保を投げさせた。自ら手のうちを公開する半面、阪神打線を相手に久保がどのようなピッチングをするかを西沢監督はテストしたようだ。阪神は、久保のタマにててこずった。「久保のシュートと落ちるタマはいいネ」西沢監督は収穫はあったといったえみを浮かべた。一方の、藤本監督はムッとしていた。勝つには勝ったが、四番までの上位打者がそろいもそろってノーヒット。腹が立ってしようがない。それを考えると相手のことを調べるひまはなかった。同じように、西沢監督も、阪神の手のうちは見られなかったという。だが、これは外交辞令のように見受けた。試合が終わると両監督は申しあわせたように、自軍のスコアラーになにかを書き込ませていた。
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矢ノ浦国満

2017-02-19 14:55:28 | 日記
1967年

試合後、飯田監督は全員に落第点をつけた。エラーは出る、点はとれない、東都初登場のゲームというのに・・・。そんあかで、たったひとり、矢ノ浦だけが合格点をもらった。六回表、伊藤から左翼席中段へ2号ホーマー、守っても白、大杉のヒット性の当たりを、二度もきれいにさばいた。「右足太ももの痛みがなくなったから、バッティングでも守備でも思い切ったプレーができる。つまり調子がいいってことでしょうね」ヘルメットをいじくりまわしながらテレくさそうに話す。「ホームランしたのは直球、いいタマだった。手ごたえ?あったよ」この日3打数1安打でオープン戦通算は3割7分5厘、八位ベスト10に、アトムズでたったひとり名をつらねている。昨年までの矢ノ浦なら、ホームラン1本で満足したろう。が、ことしは違う。八回表、無死一、二塁で森安から見のがしの三振を食らった。「あのタマ、ほんとうにストライクか。カーブが外角へはずれたと思ったけどなあ。2-3だから、四球になっていれば、試合はどうなっていたか、わからないぜ」勝負への意欲が燃えているようだ。守ってもこの試合の矢ノ浦はピカ一。六回裏には一死一、二塁で二塁走者を矢ノ浦はみごとなカクシダマにひっかけてアウトにした。「青野が下を向いておしゃべりしているから、チャンスだと思ったのさ、二塁手の武上からタマが回ってくるまで、全然考えていなかった。投手が若手の浜口だろ、うまくごまかしてくれるといいがとひやひやしていたヨ」何度思い直しても愉快なのだろう。クスクスとふくみ笑い。長い湯之元キャンプ、それにつづくオープン戦から帰った直後だけにこの日のナインの動きはにぶかった。「オレだって東京に帰ったらバテたヨ。だけどこども(聖ちゃん=(2つ))の顔をみたら元気がでたネ。だってキャンプに出る前とくらべたら、グンと大きくなってたもの」四十日たらず。それほど変化ないはずなのに矢ノ浦は聖ちゃんがかわいくてたまらない。帰りぎわ矢ノ浦はもう一度こういった。「いいおみやげができたヨ。東京の第1号ホーマーだものネ」
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元産経テスト生

2017-02-19 12:37:59 | 日記
1967年

サンケイアトムズは十一日午後四時三十分、東京・有楽町の球団事務所で元広島カープの関根勇捕手らテスト入団者九選手を発表した。残る内定の五選手は、手続き上のつごうで後日発表される。これらのテスト入団者は十一月十九日と二十六日の二度にわたって行われたテストの結果、合格ときまったもので、来年の一月十日にはじまる自主トレーニングから練習に参加する。この日午後三時に球団事務所に集まったテスト合格選手は、会長室で一人ずつ岩佐海蔵常務取締役と対面契約をすませた。あこがれのプロの門をくぐれるとあって、各選手とも緊張した面持ち。それでも発表の席では、みんな胸をはって「早く第一線にでられるようがんばります」と精進を誓っていた。発表された九選手の内わけは投手が五人、捕手一人、内野手三人である。政山投手は神奈川大を中退して、リッカ―ミシンに入社、その後林建設に移った。金城投手は今春の奈良県大会で、奈良商工を相手にノーヒットノーランの怪事をなしとげている。ことしの成績は97イニング投げて奪三振129。連続11三振奪取の記録も持っている。バッティングもすばらしく本塁打7、3割4分9厘の高打率を残している。関根捕手は大阪高からノンプロのPL教団を経て、三十九年広島カープに入団。芽がでず四十年のシーズン終了後退団した。アトムズで新天地を開こうというわけである。

関根捕手の話「二年間のブランクがあるので・・・。自信はまだまだだが、一軍入りできたら何としてもカープとの試合にがんばりたい」

荻原投手の話「まだピンときません。とにかく一生懸命がんばって一軍入りしたい」

関口内野手の話「プロにはいったからには一軍入りが目標だ。悔いのないようにがんばる」

古川内野手の話「野球は大好きで小学校時代からやっていた。一軍入りを目標に一生懸命がんばりたい」

寺沢投手の話「プロでやりたいと思っていた。合格する自信はあったが、通知をもらうまでは心配だった。高校時代から速球には自信を持っている。早く一軍で投げられるようがんばる」

金城投手の話「プロ選手になったという実感はまだわかない。むしろ不安の方が多い。でもきまったからには力いっぱいやりたい」

小松投手の話「中学時代から野球はやっていた。プロにはいれるとは・・・」
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種部儀康

2017-02-19 09:43:58 | 日記
1969年

巨人の種部が南海にトレードされることになった。昭和三十七年に鳥取県の倉吉農高から米子鉄道管理局を経て、巨人入りした。二年間多摩川でファーム暮らしを続け、三十九年には一軍入りを果たし、念願の一勝をマーク。翌四十年には自己最高の四勝をマークした。サイドハンドから繰り出されるコーナーぎりぎりをつくクセ球(とくにシュート)には威力があり、各バッターからは嫌がられるピッチャーとして、活躍したが、その後巨人ではあまり陽の日をみることもなく、もっぱらバッティング投手として巨人打撃陣の縁の下の力持ち的な役割を果たしていた。南海の新監督になった野村は「この貴重な投手を埋もれさせるのは惜しい」と、巨人側がトレード要員にしているのをいち早く察知して、譲渡を申込み、金銭トレードが成立。契約金は二百万(推定)だが「ワンポイントやリリーフに貴重な戦力として期待される」(野村監督)種部である。
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泉嘉郎

2017-02-19 09:33:11 | 日記
1969年

南海・泉はプロ入り六年目で初勝利をマーク。オープン戦で2勝、成長ぶりが認められて、初先発が開幕投手という栄誉をになったが、緊張しすぎて打ち込まれた。この日のリリーフが二度目の登板。予定にははいっていなかったそうだが、急きょマウンドにあがって、三回から九回まで投げ終えた。若い力の台頭に、ナインは総出で祝福。泉は顔をくしゃくしゃにして頭をさげどおしだった。「シュートがよくきまりました、飯田のホームランはカーブ。無造作に投げる悪いクセです」と反省もしたが、「これで、ますますやる気が出ました」と苦節六年目にめぐってきた春に感無量。
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産経テスト生

2017-02-18 19:46:00 | 日記
1967年

サンケイアトムズは二十五日午後二時、東京・有楽町の球団事務所で、十一月に行われた新人選手公募テスト合格者のうち、別表の五人の正式入団を発表した。すでに九人の入団は正式発表されており、これで公募テスト合格者十四人の入団が決まった。またこの日、秋季練習にテスト生として参加していた君島洋造内野手(19)=1㍍75、73㌔、右投げ右打ち、水戸高=の採用もあわせて発表された。この日発表になった六人は、すでに二十三日に球団事務所でサインをすませており、発表の席に姿をみせたのは潮田、鈴木、西村、金井の四選手だけ。岩佐海蔵球団常務の紹介を緊張した表情できき入っていた。これで今年度の新人選手公募テストの合格者が全部決定したわけだが、大量十四人も採用した点が目をひいた。岩佐常務は「昨年も佐々木、井上、渡辺保という素質ある若手を発掘した。こんどの十四人の中からも、必ずチームを背負ってたつ選手が出てくれると思う」と期待していた。来シーズンから支配下選手のワクが六十人にひろげられる。さらにサンケイは神奈川県横須賀市に専用練習球場でファーム選手をみっちりきたえる指導組織もできあがった。うもれた金のタマゴをみがき上げる環境は、完全にできあがったわけ。「プロ野球としての新しいいき方が成功すれば、画期的なことになると思う」と岩佐常務は話していた。サンケイの新入団選手は、移籍の河村投手(中日)、久代捕手(阪神)、ドラフト会議で交渉権を得て入団が決まった中野遊撃手(日本楽器)、簾内投手(日鉱日立)、高井投手(日本コロムビア)、奥宮捕手(九州工高)、中新井捕手(鹿沼農商)をふくめて全部で二十二人になった。なお、公募テスト合格者十四人と君島内野手は一月八日から自主トレーニングに参加する。

投手=潮田輝雄(20)1㍍77、75㌔、右投げ右打ち、水戸商中退
捕手=工藤守彦(20)1㍍76、77㌔ 右投げ左打ち、青森一高ー明大中退ー大昭和製紙
内野手=鈴木幸弘(24)1㍍82、75㌔、右投げ右打ち 福島県石川高ー明大ー清峰伸銅
内野手=西村秀一(20)1㍍65、60㌔、右投げ右打ち 鳥取工高ー大阪鉄道管理局
外野手=金井元三(18)1㍍71、69㌔、右投げ右打ち、東洋大付属高

金井選手の話「一度、自分の力を試してみようと思ってテストを受けた。高校時代は投手でノーヒットノーランを練習試合で記録したこともあります。しかし、自分では打線に興味を持っているので打者としてテストを受けました。ベース一周14秒5を記録したこともあるし、なんとか一軍にでられるようがんばります」

潮田選手の話「シュートには自信を持っている。一日も早く一軍で投げられるようがんばります」

西村選手の話「あこがれのプロ野球のユニホームを着ることができてうれしい。足には自信がある」

鈴木選手の話「テスト受験は経験があったので冷静にやれた。それがいい結果を生んだのだと思う。明大時代野球部にいて、新人戦でチャンスをつかみそこねたことがあるから、こんどはその分もとりかえしたい。力いっぱいやる」
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佐々木剛・渡辺保

2017-02-18 10:06:25 | 日記
1967年

サンケイアトムズの「新人選手公募テスト」に合格した四人のうち、投手二人が二十八日、アトムズ入りの意思表示をした。この二人の投手は岩手県・釜石北高の佐々木剛選手(18)=身長1㍍75、体重70㌔、右投げ右打ち、岩手県釜石市東前町=と新潟県・新発田農高卒の渡辺保選手(18)=身長1㍍75、体重74㌔、右投げ右打ち、新潟県北蒲原郡中条町=で、このほど、サンケイ球団から合格通知にたいし、入団することを表明したもの。これで合格者四人のうち、三人の入団がまとまった。佐々木投手は、十五日に行われた第一次審査で真っ向うから投げ込む速球が首脳陣の注目をあびた。とくに高めにくるタマはホップして臨時選手をつとめた篠田がポロリとやったほど。渡辺投手も、速球を主にしたスリークォーターの右投げ。低めにコントロールされた投球は、昨年、高校を卒業したばかりの投手とは思えないほど。粗けずりな佐々木投手とは対照的に、渡辺投手は完成品に一歩近い感じの投手。審査のとき、中原ヘッドコーチも「まとまった投球をするわりに、タマの威力もある、いい投手だ」とほめていたほど。渡辺投手は、赤いアンダーシャツを着ていたところから、球団首脳陣に赤シャツというニックネームをもらっていた。

渡辺保選手の話 「中学時代からあこがれていたプロ野球選手になれてうれしい。昨春新潟県の新発田農高を卒業し、中条町の水沢化学に勤務したが、野球が忘れられなくて一人でトレーニングをつづけていた。アトムズのテストを受けるとき両親にだまっていたので、いまうちじゅうが驚いたり喜んだりでたいへんです。新潟県からプロ野球の選手になった人は少ないので、一生懸命にやって、よい選手になりたいと決意をあらたにしています」
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中島弘美

2017-02-17 00:31:20 | 日記
1973年

アメリカ帰りの左腕中島がデビューした。田中のあとを受けて八回だけの登板だったが、先頭打者の相羽を見事カラ振りの三振に打ちとるなど安定したピッチング。ネット裏の南海・渡会スコアラーら関係者は「制球がよい。見た目よりタマにも伸びがあるようだ。将来有望」と話していた。初登板は中島にとって意外だった。メガネの奥でキラキラさせながら「田中さんが救援していたし、自分には出る幕があるとは思わなかった。七回表にブルペンの練習からベンチに戻ると、稲尾監督からちょっとマッサージを待てと言われて、もしかしたらという気はしました・・・。最初の打者のときちょっと上がったけど、あとは落ち着いて投げられました。最高のときよりもうひとつというところですね」と投球を振り返る。中島はこのほどの京都遠征(ロッテ戦)からベンチ入り。四試合目に晴れの初舞台となったが、同期生の金城はすでにロッテ戦では登板済み。「金城君に先を越されたと思っていたんですよ」というドラフト一位の新人君。加藤初と入れ代わりに一軍入りを果たして、最初の望みはかなった中島だが、金城との競争心をかき立てる。師匠の河村コーチは「最近の若者はおどおどしていないね。落ち着いて投げよった。ブルペンで練習したときより、ねらったところへ決めとる。自分の持ったものを出し切っている」と感心。「これなら、今季先発の可能性もある。中島は先発型で、金城のほうは救援型。うまいことなっとる」試合は九回太平洋の急追で1点差となった。打線がもうひと押しすれば中島に白星がころがり込むところだった。この最後のもようをソワソワして見ていた中島は「登板できただけでもしあわせですよ。このことを父(熊本県本渡市浄南町在住)にさっそく電話したい」と胸を張って引き揚げて行った。
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中島弘美

2017-02-17 00:19:16 | 日記
1973年

アメリカ帰りの中島弘美投手(太平洋ク)が早ければ今度の遠征中に登板する。再起を期待した加藤初が十九日の日拓戦でまだ不振だったため福岡へ追い帰された。代わって中島にチャンスがめぐってきたもので、二十一日に急ぎ京都へやってきて一軍に合流した。中島は昨秋、太平洋がドラフト一位に指名して獲得したホープ。今季は春からアメリカのローダイ・ライオンズに和田コーチらとともに留学して、前期は日本のファンの前に姿を見せなかった。アメリカでは6勝3敗の成績でカリフォルニア・リーグのローダイ・ライオンズを優勝に導き、太平洋の後期に備えて帰国した。同リーグの実力は日本の高校野球に毛が生えていたていどとか。6勝3敗の数字が日本のプロ野球にどのていど通用するかは疑問だが、待ちこがれたファンにとっては左腕中島のピッチングが見れるだけでも大きな喜びではないか。西京極のロッテ戦は二十二日も雨で中止になり、太平洋はこの日午後二時から西宮球場で練習した。都合のいいことに、小雨もやんだ。からだをほぐした中島は、三塁側ブルペンに立って宮寺捕手を相手にピッチングした。「もっと球にスピードがあったように思っていたが・・・」付きっきりで見守っていた河村ピッチング・コーチは最初は不安気な声をもらしていたが、だんだん本調子になってくると、つい身が乗り出して「ウン、決まってきた」と満足そう。稲尾監督も室内練習場から出てきて視線を注ぎ、投球フォームのアドバイスをする。中島は帰国する一週間ほど前の寒い日に、カーブを投げてヒジを痛めた。日本に帰ってからもランニングで体力づくりには汗を流していたが、本格的なピッチング練習を再開したのは八月中旬から。本人は「アメリカでのベストの状態には戻っていない」という。河村コーチも帰国後の中島の練習を見たのはこの日で二回目。「アメリカでどんな練習をしていたか知らない。現在のピッチングもまだわからない。カーブの切れにいまひとつグッとくるものがない。すっぽ抜けると長打を食う危険がある」と一応、注文はつけながらも「素質はいいし、フォームは最初から直すところはなかった。あとは精神力が問題」と楽しみも大きいようだ。さて、中島にいつ登板のチャンスがくるか、監督、コーチ陣は中島の実力がよくわかっていないので、先発させる考えはないが、ゲームが大勝か大敗したら、すぐにでもリリーフでマウンドに上がるのではないか。「自信というほどのものはない。ストライク・ゾーンにしてもアメリカは日本より低いし・・・。向こうでマスターしたのはチェンジアップ。シュートは覚えかけです。とにかく来シーズンですよ」と中島は気の抜けたような返事で、張り詰めたようすは感じさせない。これも自信のうちか。宮寺は「高めの球がいい。これはアメリカ式だろう。日本向きの低めの球はもうひとつだ」と診断していた。
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中島弘美

2017-02-17 00:01:45 | 日記
1973年

アメリカ帰りのルーキー中島が初勝利を飾った。九月二十七日の対南海戦に次いで二度目の登板だが先発は初めて。新人ながら、落ち着いたプレートさばきは来年が大いに楽しめる。「まぐれですが、向こうでの勝利よりやはりうれしい。アメリカではだれも知ってる人はいないが、日本にはたくさんいますからね。きょうは腰が痛くてコンディションはよくなかったが、シュートがよかったと思います。先発ですか?きょう外野でランニングをしているときにいわれました。まさかこんなに早く先発できるとは思いませんでした」ドラフト一位で入団した中島だが、シーズン当初から米国1A、カリフォルニア・リーグのローダイ・ライオンズに野球留学。そこでは13試合に登板して6勝3敗、前期の優勝に大きく貢献した。この経験は大きな自信になっているに違いない。本人も「シュートを覚えたのがこの勝利に役立ちました」といっている。だが、青木専務にいわせると「向こうで投げているときよりスピードがない。ひじを痛めてからちょっと落ちた感じやな。しかしなかなか落ち着いている。のんびりした性格だからあまり緊張せんのやろ」と笑う。そういえば、カリフォルニア州のサリナスでゲーム中、落ちる球を投げたときにひじを痛め、帰国してからも約一ケ月病院通いをしていた。「もう大丈夫」故障は治ったらしいが、持ち前の強心臓のエピソードをちょっと探ってみた。聞くところによれば、ローダイへ行った直後は英語が全然わからず。投手と野手に分かれて練習をするように指示されながら一生懸命ランニングをしていたという。そして、優勝するときは、飛行機の中から何から何まで青木専務のあとに引っついて離れない。知らない土地でもあり、不安なのだろうと思っていたらしいが、同専務が「どうしてオレのあとばかりついているんだ」と聞くと「専務と一緒にいると食事代がいらないから」という返事が返ってきたらしい。「ブルペンでは足を震わせていたらしいが、ヤツはいい心臓しているよ」持ち前の度胸のほうは専務の折り紙つき。稲尾監督は「まあまあやな。初先発なのでもう一つスピードがなかったが上出来だ。まあ徐々に自信をつけさせていく」と期待の大きい若手の台頭に目を細めていた。
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浜口政信

2017-02-16 22:02:27 | 日記
1967年

腰を浮かしかけて浜口はもう一度、イスにすわり込んだ。九回裏長池の右前安打で森本が本塁へ突入したときだ。右翼手福富からの送球で間一髪アウト。セーフなら浜口の勝利投手はフイになる。「ボクの勝利がダメになってもどうってことはなかったですよ。チームが勝てばいいんですから・・・」口先では強がりをいうが、本心ではなかった。ダグアウトですわったイスはうしろの列の右から三つ目。七回から試合が終わるまでグラブにボールをポンポンたたきつけ、そわそわした態度をかくしきれなかった。「阪急打線はいま一番当っているんでしょう。恐ろしかったですよ」勝利投手が確定してから浜口はクビをすくめた。一回裏、一球目をウィンディに左翼ホーマーされた。「外角をねらったつもりが、内角高めにいってしまったんです。ボクの失敗ですから驚かなかった。堅くはなかったですが・・・」浜口は心臓の強いことでは若手のナンバーワン。湯之元キャンプのときだ。バント練習の時間にコーチがいないのをさいわい、勝手にバッティングをやって中原ヘッドコーチにこっぴどくしかられた。今季高校から入団した新人投手のリーダー格の二年生浜口は責任をとった。「ボクがわるいんです」罰則で一時間三十分のランニングをやらされたときは、歯をくいしばって先頭を切った。この試合で浜口が武器にしたのは外角へのカーブのほかにシュートがあった。シュートには手元にくい込むタマと、スイッと沈むのと二種類ある。「中原ヘッドコーチから思い切ってためしてみろといわれたのでかなり投げました」七回途中まで5安打、1点に押えた秘術がこれ。飯田監督はこの沈むシュートをハマ・ボールと呼んでPRに懸命だ。「新しいタマですよ。オープン戦好調の阪急打線ですら打てなかった。いいピッチングだった」もっとも浜口にはそんな甘い点はくれていない。試合が終わったとたん、ダグアウトで大声でどなった。「ハマ(浜口)、石岡のピンチの切り抜け方をみたか。よく勉強しておけよ」一軍の試合で浜口はプロ入り初の勝利投手。昨年は公式戦に一度登板しただけ、イースタン・リーグでは3勝(8敗)をあげている。「まだこれからです。タマが高めに浮くこと、一回に打たれて得点されたことなど、覚えなければならないことはヤマほどあるんです」別府鶴見ヶ丘高出身、身長1㍍75、体重72㌔、右投げ右打ち。
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岩切正男

2017-02-16 21:17:11 | 日記
1967年

一月十五日は、サンケイアトムズの新人テスト。この日を、文字どおり一日千秋の思いで待ちわびている若者がいる。昨年まで東映フライヤーズのユニホームを着ていた岩切正男投手(22)=駒大出身、1㍍84、80㌔、右投げ右打ち=だ。東映入団の際に受け取った契約金のことで東映側ともつれ、自由契約になった。「野球がヘタだからと自由契約になったのなら、あきらめもつく。もめごとが原因でクビになったのでは、あきらめきれない」岩切投手は、こういって、サンケイの新人テストに自分のすべてをかけようとしている。

サンケイの新人テストの日が、岩切には二十三回目の誕生日にあたる。「力いっぱいやります。男の意地にかけても・・・」きっぱりといいきる顔に、決意がにじみ出ていた。テストのための練習をはじめたのが昨年十二月二十日。それ以来、大みそかと元日を休んだだけで、毎日、大和証券球場でトレーニングがつづけられた。サンケイの宇佐美二軍監督が、相手役に西岡内野手を選んでくれたことも、幸いした。連日70~80球も投げこんでいる。寒風は、身を切るようにきびしいが、カーブやシュートも平気で投げた。「東映に入団するとき、クビになったら野球と縁を切るつもりだった。しかしあんなことで自由契約になったのでは、あきらめもつきません」岩切は、いまでも、くやしそうな表情をみせる。あんなことー。岩切にとって忘れることのできない思い出とは、契約金のこと。自分が、希望に胸ふくらませて手にした契約金と、球団側から支払わせた金額のあまりにも大きな差ー。岩切は、その原因をつかもうとして、球団と争い、クビになった。東映は、球団職員やスカウト見習いなど、身のふり方を心配してくれたが、岩切は、全部ことわった。「野球選手として、もう一度やってみたい。プロ野球選手は苦しい。それも承知のうえです」という岩切だ。ピッチングをしたあお、一時間以上もサーキット・トレーニングをやる。「こんなに苦しいとは思わなかった。しかし、これだけやったんだから、意地でもテストに合格したい。負けるどころか、これからもっとがんばりますよ」西岡といっしょにバーベルやダンベルと格闘する岩切の表情には、一歩もあとにひけぬ立場に追いこまれたのものの闘志だけがギラギラしていた。岩切はまだ独身。だが、阿仁の光作さん(28)が、三月下旬に合気道指導のため渡米する。帰国がいつになるか、見当もつかない。母親のキクさん(55)と妹二人の面倒をみなければならない。「いまでも、月に三万円近い税金をとられる。ふつうのサラリーマンになったら、月給全部つぎこんでもおっつかない。ぼくはプロでやらなけりゃ、ならないんですよ」わずか二十二歳の青年には、あまりにもきびしすぎる現実だ。練習をみた小川コーチは「からだもやわらかいし、球質も悪くない。投手としてはちょうどいいからだつきをしている」という。こんなはげましのことばを聞きながら、岩切は、十一日から大和証券球場で、さいごのコンディション調整にはいる。
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高井諭・簾内政雄

2017-02-15 20:57:37 | 日記
1967年

産経アトムズは十四日午後一時、東京・有楽町の球団事務所で簾内政雄(22)=日鉱日立、高井諭(22)=日本コロムビア両選手の入団を発表した。ふたりはさきのドラフト会議で産経が二、四位にリストアップしたノンプロ球界屈指の好選手で、産経にとっては待望の本格派ピッチャー。簾内は三十八年夏能代高のエースとして秋田県予選で菅原(巨人)に投げ勝ち甲子園大会に出場。三十九年日鉱日に入社、今春の選抜社会人野球東京大会では四試合完投して優勝の原動力となり、最優秀選手に選ばれた。粗けずりだが嵯峨(巨人)に似た投球フォームから投げ込むドロップは定評があった。1㍍75、75㌔、右投げ右打ち。高井は中京商高当時、三十八年夏の甲子園大会で準々決勝まで選出。三十九年名商大に進学、二年在学中の昨年中日がドラフト会議でリストアップして問題となった。本年一月に同大を中退。日本コロムビアに入社、五月社会人選抜広島大会で優勝投手となり最高殊勲選手となった。上手からの鋭いシュートと速球が武器。1㍍77、72㌔、右投げ右打ち。
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